抱けないあの娘 投稿者:木村 二三男 投稿日:4月27日(木)05時13分
 季節は五月の半ば、姫川琴音との一線をあっさり超えて結ばれた藤田浩之は、
彼女の家に遊びに来ていた。
 鼻歌を歌いながらテーブルに紅茶とケーキを並べる彼女を横目に、手持ち無沙汰な浩之は
本棚に『思い出』というベタな名前のついたアルバムが目に入った。
 何気ない好奇心だ。昔の琴音ちゃんも可愛かったに違いない。
 思わず本棚に手を伸ばす。
 できたてほやほやのカップルの通過儀礼とも言える、
「へへへ、実は私この人が好きだったんだ。だけど結局告白できなくて…」
「何だよ、こんな優男より俺の方が格好いいだろう」
「うんそうだね、ちゅっ」
 などと端で聞いていたら、お前ら殺すぞと言いたくなるような会話を期待していたのかも
しれない。
 だが、表紙をめくって飛び込んできたモノに浩之は我が目を疑った。
「……だ、…誰、これ…?」
「やだ、浩之さん。昔の写真見ないで下さいよ。きゃっ、恥ずかしい」
 少女は照れて赤くなった顔をお盆で隠す。
 目の前でそんな恥じらいの姿を見せられようものなら、並みの男であれば十人中十人が
一発で魅了させられることろだが、浩之の目には入らなかった。
 アルバムを持つ手が震える。
 これは一体誰だろう? いや、何だろう?
 かたわらに写る友人とおぼしき標準的な体型の中学生と比べ、約三倍の横幅。
 家康の策略によって堀を埋められた大阪夏の陣のようなのっぺりとした顔。目つきの悪い
一重は、瞼についた脂肪のせいに違いない。
 丸々とした二の腕とふくらはぎ。もし男だったら、体育の先生にお前相撲やってみないかと
言われていたはずだ。
「こ、この人、もしかして琴音ちゃんなの?」
 声が震える。
 写真に写る彼女は、髪の色が同じだけでどこをどう見ても今の琴音には結びつかない
ほど太っている。
「昔のことですよ」
 否定しなかった。
「どう見ても二十貫(約七五キロ)は有るように見えるんだけど!」
 動揺のためか、浩之はキログラムの存在を失念していた。

 琴音は遠い目をして、
「そうなんです。当時の私は、力が暴走して回りの人を傷ついていくたびにご飯を食べて
いたんです。悲しみを誤魔化すように…」
 物憂げな姿は彼女らしく、保護欲をそそるが、写真と今の姿とのギャップに浩之は言葉に
ならない。
 琴音は続ける。
「当時、友達もおらず、浩之さんのように頼る人がいなかった私は、際限なく食べることで
しか苦しみから抜け出すことが出来せませんでした。一心不乱に食事している時が唯一全て
から開放された気がしてたんです。でもそれって、食べることで現実逃避していたのですね。
気が付いたら、ちょっと太っていました。えへ」
「……でもなんで現実逃避が食べることに向いたの?」
 これがちょっとだけか? 幕内力士の貫禄があるぞ。という突込みを飲み込んで、
無難な質問をする。
「あら、北海道っておいしい物がたくさん有るんですよ」
 そういう問題か?
「…一体、どうやってそんなに痩せれたの?」
 写真に印字されている日付はつい半年前のものだ。
「まさか超能力で脂肪を吹き飛ばしたとか?」
 世の中にはダイエットに悩む女性が大勢いる。参考までに聞いてみた。
「やだ浩之さんたら。そんなに都合よく行くわけないじゃないですか。ただ引っ越してから、
こっちの食事がおいしくなくて、一切喉を通らなくなっちゃったんです」
「今度は拒食症になったんかい!」

「でも、もう大丈夫です。私には浩之さんがいますから。食べることに逃げたりしません」
 自信を持って断言する琴音は、砂糖を取り上げ一杯、二杯と紅茶に入れる。
「う、うん。そうだね」
 そうだ、もう過去の話じゃないか、今こんなにも可愛い彼女に何の不満があるだろうか。
 だが琴音は、三杯、四杯、と山盛りの砂糖を紅茶に放り込み続ける。
「あ、あっ、あのっ」
 微笑ましげに彼女を見ていた浩之だが、壊れたレコードのように同じ動作を繰り返す琴音に
その笑顔もたちまち凍り付いた。
「私甘いもの大好きなんですよ。最近ようやく食欲も戻ってきて、これもすべて浩之さんの
おかげですね」
 砂糖は六杯目でようやく止まった。
 浩之も甘いものは好きだが、ここまで来ると味も何もあったものではないではないか。
「うん、おいしい!」
「あわ、あわわわわわ…」
『DENGER!DENGER!』
 マルチと化した浩之の中で警告ランプが点灯し、警報が鳴り響いていた。
『やばい、やばいぞ。大阪夏の陣もやばかったが、今度のはその比じゃねえ。この黒い家は
やばい、とどめの一言を言われる前に早く脱出をしろ、緊急脱出だー!』
 防衛司令長官の悲鳴がはっきりと聞こえたが、浩之は動けなかった。
「本当に浩之さんには感謝しているんですよ」
 幻覚だろうか? 彼女からにじみ出るどす黒いオーラが一つの文字を形作る。
『役』? いや違うな。
 浩之は吸い寄せられるようにその文字を凝視する。
「恥ずかしいけど言っちゃいますね」
 何も聞きたくないし、知りたくもない。だが、視線をそらすことができなかった。
 字はゆらゆらとゆれ、じらすように形を変える。
 思考は停止し、脂汗をにじませる浩之は、蛇に睨まれたカエルのようにその時を待っていた。
「私には浩之さんだけが全てですか、ら」
『殺』!
 その瞬間、文字が完成した。
『滅殺』!!
 もし逃げたらどうなるか、光を放つ彼女の眼光が雄弁に語っていた。


 この日から琴音はブクブクと音が聞こえるほど肥大し始めた。


「…俺達このままでいいのかな?」
「んー、なんですかー?」
 思いつめた表情の浩之とは対照的に、琴音はコンビニで買った巨大エクレアやら、2人分の
シュークリームやら大盛りプリンを所狭しと並べ、ほお張っていた。
 浩之は、すべて大甘で統一し、うずたかく積み上げられたお菓子越しに琴音を眺める。
 アルバムに写っていた昔の姿を約1.5倍した姿になって彼女は帰ってきた。
 いま琴音は、浩之よりも体重が多いのだ。
 何キロ有るの? と聞いた浩之に、女の子に体重聞くなんて最低! と、くり出された
張り手で吹っ飛ばされて以来、体重の話題はしていない。
 華奢では有ったが、それなりに均整のとれていた瑞々しい姿態は遥か彼方に飛び去って
しまったらしい。
 浩之の腕の中で震えていた小鳥は、浜で寝そべるゾウアザラシか、水揚げされた本マグロに
取って代わっていたのだ。
『あの、素晴らしい、愛をもう一度』
 誰もいない時、浩之は泣きながらこのうたを歌っていた。

 浩之の苦悩を知ってか知らずか琴音は食べる手を止めない。
 大盛りプリンを一口で飲み込み、カラの容器を放る。
「…琴音ちゃん」
 今まで惰性で付き合ってきたが、さすがに我慢の限界が来た浩之は声を張り上げた。
「琴音ちゃん!」
 ギロリ、と三白眼が浩之を射すくめる。
「…姫川さん。ぼく実はですね、現在の生活に多少疲れを感じているのですが…」
「……」
 無言であごを使い、だから? と先を促す。口は今シュークリームを飲み込むのに忙しくて
しゃべっている暇など無い。
「だってほら、デートのたびに食費がかさむじゃないですか。親からの仕送りで生活している
自分としては、今の状態ではとてもじゃないですけどこちらの生活が成り立たなくなって…。
あっ、いえいえ。お金なんかどうでもいいんです。ハイ」
 琴音の鋭くなる眼差しに、前言を撤回する。
「ただ、僕いま高校二年生じゃあないですか。来年は大学受験だし、遊んでいる暇なんて
無いんじゃないかなーなんて思ったりなんかしちゃったりして」
 笑止千万な良い訳だが、浩之も必死だ。
「僕達まだ若いんだし、いまから一人に縛られるってのもおかしな話だと思いませんか?」
 ついつい漏れてしまった本音に、琴音が静かに口を開いた。
「つまり、私と別れたいとおっしゃりたいのですか?」
 はい、そうです。などと言おう物なら殺されかねないので、湾曲に肯定する。
「いや、そうではなくて。もう少し自由な時間をお互い持とうと…」
「散々体をもてあそんで、飽きたら捨てるのですか!」
「……」
 有る一面では、的を射ているので、そう言われると浩之は痛い。
 だが、浩之も、最初から琴音の正体を知っていたのなら最後の一線は越えなかった、
と主張したかったろう。もっとも、あとの祭りだが。
「浩之さんは、私という一人の人間を愛してくれたと信じていました。他の興味本位で近づい
てくる有象無象とは違うと思っていました。でも、もし浩之さんが私の外見だけに惹かれ、
力に苦しんでいる私に恩を売りあわよくば手篭めにしてしまおうなどと淫欲な気持ちで会っていた
のだとしたら、私は悲しみのあまり再び力の暴走を起こすかもしれません」
 目に光が集まり出す。
 最終兵器が発動しかかっているのだ。
「バ、バカだなー。そんなことある訳ないだろ!」
 事実も過分に入っており、多少の後ろめたさと、命の危険を察知し即座に否定した。
「当時の琴音ちゃんを見過ごすなんてとてもできない。琴音ちゃんに笑顔を取り戻してあげたい
と本心から思っていたよ。この気持ちに嘘偽りはない。それは信じて欲しい」
 心の中でだけ『当時は』と付け加え、彼女を見つめる。
 浩之にはこの熱視線で、どんな女の子でも落とす自身があった。
 案の定、委員長ですら落とされた眼力によって、感極まった琴音が浩之の胸に飛び込んできた。
「ごめんさなさい、浩之さん。最近浩之さんの態度が冷たく思えたから、
つい疑ってしまったんです」
「……」
 浩之の手が琴音の背中を優しくさする。
「私ってなんて愚かなの。一番信じなければいけない人を疑うなんて」
 本当は、琴音の体重に押し潰された浩之が、エクストリームの要領で、タップしギブアップ
を宣言しているのだが琴音は慰めてくれていると勘違いし、ますます力をこめた。
「私どんなことが有っても、浩之さんと供にいます。一生離れません!」
『ああ、またやっちまった。後腐れなく別れる良いチャンスだったのに』
 遠ざかる意識の中、浩之は自分の人生が終わっていくのを感じていたのだった。


                         続く