『仲秋』4.  投稿者:霞タカシ


 疲れ果てて、近くの木の根元へ腰を下ろす。ここがどこだか判らないが、力を静めれば
楓でさえ私を探すことは難しいだろう。

 もう構わない。

「私は……柏木千鶴よ――!」

 私は声を上げて泣いた。

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 りりりりり――

 虫の声が聞こえる……

「……眠っていたの……?」

 いけない、眠ってしまったら私の鬼が……。
 ふっと漏らした溜め息が白くなる。もう、こんな季節だったのね。

「寒い……」

 今年は冬が来るのが早いのかしら? 紅葉は始まったばかりだけれど、これから先は急
ぎ足で季節が移り変わって行く。

 こんな薄着ではすぐに風邪を引いてしまうわね。
 合わせた手に息を吐く。

 ……可笑しいわ、これから死のうと考えてるのに風邪の心配なんて。

「行かなくちゃ……痛っ」

 立ち上がろうと力を込めた足が痛む。足の裏といわず、脛といわず傷だらけだった。
小さな溜め息をついて、辺りを見回す。

「……ここ、どこかしら……」

 裏山なら小さな頃からよく親しんできたから、すぐ分かると思ったけれど。流石に夜の
森は視界が効かない。

 暗い――

「!……だめ」

 刹那、力を使いそうになる。頭を振って思い直し、ゆっくりとその場を離れた。

 当てがない、というのはこんなに虚ろなのね。何も考えず、いいえ、何も考えられなく
なっていく。
 木の根に躓き、飛び出した枝に手を切られ。私はものの10分と経たないうちに再び座り
込んでしまった。
 力が無いという事はなんと心細いのか。否、それが普通の人なら当たり前のことなのに。
 力を使うことを当たり前としてはいけないのに。

「やっぱり鬼……ね」

 苦笑が漏れる。
 力を自覚して、自分から使うようになったのはいつの頃だろう。

 初めて力に目覚めたのは中学の頃。お爺様に先祖の話を聞き、興味本位で雨月寺の墓を
見に行った時だったっけ。
 お爺様の建てた柏木家の大きな墓石を中心にして、歴代の墓標が並ぶ。もっとも奥まっ
たところに建つ、一見ただの岩にしかみえない次郎衛門の墓。
 その傍らに並ぶ4つの石をみた時だった。

――思い出したか?――

「ひっ……や、やめてっ!」

 唐突に、鬼の声が頭の中を駆け巡る。

――時間がない、お前のなすべきは闘う事だ――

「いやあっ、もうたくさんよ!」

 闘って、何が残るの。人を殺してなんの益になるの!
 身体を丸めて、頭を抱える。もうあんな思いなんてしたくない。心を凍らせるなんて、
もう私にはできない!

――立て、奴が来る――

「おねがい、もう止めて……」

 繰り返し繰り返し、私の中の鬼が明らかな警戒を含ませて私に語り掛けた。

――今一度、己が血を信じよ――

「何を?! どうして!! もう嫌よ、これで、これで終わりにするの……」

――来る――

 虫の音が途絶えた。

「え…………!! なぜこんな鬼気が!?」

 大地から湧き出し、世界を満たさんとするかのごとく鬼気が広がって行く。
 押し寄せるプレッシャーに耐え切れず、自然と力を解放していた。瞳が真紅に染まり、
瞳孔が縦に裂ける。真昼のようになった視界には、風も無く、葉の動き一つない夜の森が
広がっている。

「これは一体」

 昨夜、耕一さんが現れたときと同じだった。辺りを満たす鬼気は力強く、どこか懐かしさ
を感じさせるものだった。

「……耕一さん……ですか?」

 辺りを探るが耕一さんの気配はない。彼方で間抜けな悲鳴を上げつつ遠ざかっていく人間
がいる。恐らく警察か何かが山狩りに入ったのだろう。この気がどの辺りまで広がっている
かは分からないが並みの人間なら当然の対応だろう。

――近い。気をつけろ――

 再び私の中の鬼が警告する。
 この声は誰? 私のもう一つの人格? 人間としての心? 鬼の声?
 家で聞いた声と少し違う気が――

 どじゃっ。

 背後で鈍い音がした。何か柔らかいものが砕け、崩れ落ちる音だ。ちょうど人間を切り
裂いたときのように。

「そこにいるのは誰です」

 グルルルウルルルルルウル…………

 あらゆる獣を竦ませる低い唸り声。これは間違うことなき鬼だ。

 振りかえった私の目に飛び込んできたのは片腕をつかまれて中吊りになった青年団員風の
男と、それを掲げ持つ巨大な鬼だった。腰から下を切り落とされ、内臓を引きずりながら
微細な痙攣を起こしていた男を放り出すと、鬼は2、3、歩を進めて私の前へ立った。

(耕一さん? いや、違う……夏の鬼とも違う……。ではこの鬼気はすべて……?!)

 柏木の男性が鬼化した姿をさらにエスカレートさせたような、いや鬼ではなく、より純粋
なエルクゥとして存在したら、このような姿になるだろうか。巨体に似合わぬ小ぶりな頭、
髪の変化したと思しき角は、頭部から背にかけて放射状に幾本も見える。盛り上がる筋肉に
支えられた腕は、その先に鋭く伸びる鉤爪がなかったとしても恐怖を感じるだろう。

 戦闘種族としてあるべき本来の姿がそこにあった。

 無類の強さをその姿から感じる。人間の本能から来る畏怖が私の鬼化を解そうとする。
絶対的な力の前にヒトはあまりに無力だから、恐怖で潰れてしまう前に心を閉ざそうとする
のだ。だが柏木の血に流れるエルクゥの力はこの鬼に対して歓喜の叫びを上げつつあった。

「ようやく……巡り合った……! 私は今何を?」

 自分の意思なのか私の鬼の言葉なのか。私は逃げ出す事を忘れて巨大な鬼の前で立ち尽く
していた。
 鬼の足元で先程の男へ鬼の足が掛かると、まるでガラス細工のように容易く頭蓋が砕ける。
 下草を圧し潰しながら。更に一歩、一歩と歩を進め、私へ近づいてくる鬼。

「男を……この鬼が真犯人なの? ではあの時の声はこの鬼の?」

 グルウルルル――

 再び低く唸り声を上げ、鬼はついと指先を伸ばし、私の顎を掴むとぐいと上に向けさせた。

「あうっ!」

 視線が外せない。
 鬼が私をじっと見据え、猛獣のような口を開いた。

『久しいな――リズエル!』

 この鬼は私を知っている?

『吾が声を聞いたか? 吾が望みは聞こえたか』
「声……のぞ……み…………?」

 あご先を捕らえらえれているのでうまくしゃべれない。それ以上に、このエルクゥの放つ
殺気に正気を保つのが精一杯、力を解放しているにもかかわらずだ。

『今こそ過日の決着を付けようではないか。さあ、次郎衛門を呼べい』
「く……決着と……は何ですか、それに……うくっ……私をなんと呼んだ……んんっ」
『? 転生が為されていないのか、何ぞ不都合でもあったか』
「て……せい?」

 転生って。そんなことがあるって言うの?

『ふむ。獲物ごとき身体では器に成らぬか……だが、エディフェルやリネットはとうに目
覚めて居るぞ? 何ゆえレザムに心を閉ざすのか、リズエル』
「れざむ?……こころ……を閉ざす? くぅあっ……は、離してっ 私は……只の人間よ!」
『戯れ言を! その瞳が何よりの証、エルクゥの皇女たらしむ気高き魂を持ちながら、何を拒む!』
「きゃあっ!」

 捨てられるみたいに投げ出される。そのまま軽く数メートルを飛び、立木の一本に叩き
つけられた。

「あう!……ごほっ」

 一瞬息が止まるが、力を解放していたおかげで少し咳き込んだだけで終わる。私は木を
支えにしつつ立ちあがり、鬼を見据えた。
 相手は私と戦う気でいるらしい。決着を付けよう、と言った。一体何の?
 それに、私のことをリズエルと呼んだ。
 訳がわからない。この鬼は、エルクゥは一体何者なのだろう。柏木の血縁者は私達姉
妹と耕一さんをおいて他にもういない。
 昨夜から続く私の中の声、凄惨な夢。だからこそ私は、私自身が知らず暴走している
ものだと思い込んでいたのに。

 馬鹿みたいじゃないの。

 そう思うと、ついさっきまで落ち込んでいたのが嘘のように気分が高揚してくる。不
思議とエルクゥの放つ殺気も気にならない。

「転生、といいましたね。一体どう言う意味です」
『ククッ……』
「?」
『これは面白い……我等を率いた聡明な皇女が教えを請うとはな!』

 エルクゥは身を捩じらせて高笑いを始めた。

 なんて失礼な……。



 千鶴がエルクゥと遭遇する少し前――

 日吉家から戻った梓は重い足取りで門をくぐり、音を立てないよう控えめに玄関の引き
戸を開けた。
「まだ誰か起きてんのか。耕一、かな」
 夜の12時を廻った頃なのに、明かりが付いているのを些か不思議に感じたが、耕一が夜
更かしついでに待っていてくれたのだろう、と思うことにする。
 洗面所へ行ってから居間へ顔を出す。と、そこには耕一のほかに楓と初音が眠そうな顔
で待ち受けていた。
 千鶴がいない。
 重苦しい空気だった。

「そ、それじゃ千鶴姉、飛び出して行ったきりなの?」
「…………」

 一通りの説明を受けた梓に、耕一は目を閉じて頷いた。

「かー、あの馬鹿姉が。一体何考えてんだよ! こうしてる間にも鬼が来るかもしれない
ってのに!」
「梓?」

 耕一が訝しげに梓を見た。夏の事件の顛末は千鶴と楓しか知らないはずだ。

「え、ああ。夏の奴。暴走した鬼の仕業だったんだろ? 千鶴姉から聞いた……」

 顔を戻す時にふと楓と目が合う。と、楓は僅かに頷いた。

「そうか」

 梓のことだ、自分が帰った後、千鶴に詰め寄って聞き出したのだろうと耕一はひとまず
納得する。

「んで、何でみんなここにいるのさ。早いとこ探し出さないと大変じゃないか!」
「一度は探しに出た」
「じゃなんで戻ってきたっ!」
「お前を待ってたんだよ。状況が状況だからな。帰ってきて誰もいなかったら。梓、お前
どうするつもりだ?」
「そ、そりゃあみんなを探すよ……」
「どこを?」
「う……」
「それに、鬼がいるらしいことがわかったし、被害者も出た。俺一人で探しに行って、楓
ちゃんや初音ちゃんを放っておけないだろ?」
「う、うん……」
「千鶴さんだって力使いっぱなしって訳にいくもんじゃなし、そう遠くまで行っていない。
千鶴さんのこと、なんとなく感じるんだ」
「耕一……? 力使えるのか?」
「俺だって柏木さ」
「へ、ああ。そう……だよな……」

 梓は意外そうな表情を浮かべた。

「何にしろ、千鶴さんの誤解を解かなくちゃ」

 耕一は仕度する、といいながら立ち上がった。

「あーもう! なんだってそんなこと考え付くんだよ、千鶴姉は! 耕一、早いとこ探し
に出るよ。今度という今度ははっきり馬鹿って言ってやるんだ」

 梓はすぐ終わらせる、といって、初音が用意しておいた夜食を楓も顔負けの速さでかき
こむと、食器を片付けに台所へ消えた。

「耕一さん……力の制御は大丈夫なんですね……?」

 今まで黙って湯呑の底を見つめていた楓は、そのまま視線を上げずに言う。

「ああ、問題ない。いつだって平気さ」
「そうですか……」
「どうしたんだい、楓ちゃん。元気ないよ」
「何でもありません、私も支度してきます」

 楓はそれきり黙ってしまった。湯呑を置くと、初音を促して部屋を出た。



「初音」

 着替えるため自室に入ろうとした初音は普段見ることのないような柔らかな表情を浮か
べた楓に呼び止められた。

「なに楓お姉ちゃん」
「聞いておきたいことがあるの」
「?」
「初音……夢は見る?」
「夢?」
「そう、夢。暖かい人の夢。悲しいけど、大切な思い出の夢」
「! お、お姉ちゃん……」
「……目覚めているわね、リネット」

 リネット、と呼ばれた初音はビクッと身をこわばらせた。

「それじゃ、楓お姉ちゃん……やっぱり……」
「いいの。今の私は柏木楓。貴方は柏木初音。そうでしょ?」
「お姉ちゃん……わたし、わたしね」
「いいの」

 楓は涙目になった初音を抱き寄せ、頭を軽く撫ぜた。

「今はあなたの力が要るの。分かるわね」

 初音はひどく驚いた表情で楓を見た。先程と変わらない、優しい笑みを浮かべた顔。
 深い悲しみを秘めた、はじめて見る姉の表情。
 初音はその表情で、楓の言わんとする事を理解した。ゆっくりと頷いて答える。

「お守り。出さなくっちゃね」

 初音は目元をごしごし擦ると無理矢理笑顔を作り、部屋の中へ入っていった。

「……ごめんね、初音……」

 見送った楓の瞳もまた、涙の雫に濡れていた。



 耕一達は屋敷の庭にいた。それぞれが動きやすい格好に着替えている。初音は千鶴の
分の着替えをデイバックに詰めて背負っていた。

「ほんとに大丈夫だね? 初音ちゃん」
「うん、大丈夫だよ。千鶴お姉ちゃんの事心配だもん。今日はわたしも行かなくちゃいけ
ないから。がんばるよ」
「行かなきゃいけない?」
「え、あ、その……う、うん」

 理由を説明しようとした初音は楓の一瞥で沈黙した。楓の様子に、耕一はポリポリと頭
を掻きながら、

「ん〜、そっか。分かった。梓、初音ちゃんのこと見ててやってくれ」
「そりゃいいけどさ。楓はどうすんの」
「私なら大丈夫」

 そう言って梓に視線を向けた楓の瞳は鬼のものだった。

(初めて見るはずなのに……どこかで見たような? 千鶴姉に似てる、か……)

 楓が自ら進んで力を解放するのは、実はこれが初めてだという。梓は紅く染まった楓の
瞳に奇妙な既視感を抱いた。

「梓姉さん」
「お、おう」
「雨月山のほうに鬼の気配があります、分かりますか?」

 梓は楓の指差す方角に向き直り目を閉じた。楓は特に感覚が鋭敏なのでさほど苦労せず
に鬼の気配を追うことができるのだが、梓はそうはいかないからだ。

「んー、あれか? ザラついた奴と……もう一つは千鶴姉かな」
「ええ。千鶴姉さんと、もう一つ。それが今回の鬼。急ぎましょう」

<続く>



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