「仲秋」 3.  投稿者:霞タカシ


 いつもの笑みを浮かべた耕一さんがいる。
 でも。
 私は間違いなく柏木千鶴なのだろうか。

 今度ははっきりと覚えている。悪夢の内容を……。

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「千鶴さん、大丈夫? 少し落ち着いたら家に帰ろう」
「耕一さん……」

 聞いてしまっても構わないのだろうか。話してしまってもいいのだろうか。
 いや。嫌われたくない。
 この人を失ったらもう頼れる人は誰もいなくなってしまう。涙を見せてもいい人は、
どこにも居なくなってしまう。

「すみません、なにか少し混乱してて……」
「……夢だよ。ただの夢。疲れが出たんじゃない? 戻って休もう」
「はい……」

 精一杯の笑顔を返したつもりだったが耕一さんは困ったような顔をして、車を呼ぶから、
と電話へ向かった。

「ふう……」

 夢。
 ただの夢……。
 それにしてはあまりに生々しかった。地獄図のような情景は脳裏に焼きついて離れない。
 私が、鬼となった私が人々を追い詰め、切り裂き、断末魔に上がる命の炎に酔う。
 今思い出せるのはそれだけ、でも十分過ぎる。

「うっ……ごほっ……」

 あまりの陰惨さに胃液が逆流し、喉を焼く。私はハンカチを口元に当てて身体を折るよう
にして俯いた。

――いったいどうなっているの!? ただの夢? 私の記憶? それとも、耕一さんと同じ
に他の鬼と精神のどこかが繋がってしまったの?

「千鶴さん! 本当に大丈夫?」
「は、……はい」

 よほど酷い顔をしているんだわ、耕一さんが傍らで心配そうに見つめていた。

「車、用意できてるって。立てる?」
「大丈夫です」

 私は耕一さんに手を貸してもらいながらソファから立ち上がる。軽く頭を振り、汗で喉
へまとわりついた髪を無理矢理払った。



 結局とんぼ返りだったわね。
 家に戻ってかなり気分もよくなったけど、耕一さんの勧めでベッドに入った。でも目を
瞑れない。眠ってしまえば、きっとまた夢を見るから。

 夏の日に耕一さんが体験した苦しみはこれと同じだったんだろうか。いえ、自分の中に
鬼がいるなんて知らなかったんですもの、もっともっと苦しんだに違いないわ。

 叔父様はどうだったんだろう。幾夜幾年、強くなりつづけるご自身の中の鬼と戦って
……私なんかが、比べるだけ失礼よね……。

 それなのに。

 耕一さんは私の話を受け入れてくれた。それを私は……。
 今にして思えば謝ったくらいで許してもらえる筈のない仕打ちなのに。今日も笑顔で接してくれる。

 耕一さんを疑ったりしては駄目。大丈夫、耕一さんは制御に成功しているんですから。

 涙が頬を伝い、枕に小さな染みを作った。

「今日はなんだか泣いてばかり」

 口にしてみると、なぜか可笑しい。

「……千鶴さん、起きてる?」

 ノックの音に続いて、押さえ気味に私を呼ぶ耕一さんの声がした。

「はい。開いていますから、どうぞ」

 二人きりなんですから、カギなんて掛けるわけないでしょっ。
 聞こえないようにつぶやきながら起きあがり、カーディガンを羽織る。

「具合はどうかな?」
「風邪とかじゃなさそうです。ご心配おかけしました。もう、大丈夫です」
「千鶴さんの大丈夫はあてにならないからなぁ」
「ひどいです。どうしてですか?」
「千鶴さん、なんでも自分の所為にしちゃってるんじゃないかと思ってね。無理してない?」
「……ええ、ほんとに平気です」

 やだ、ばれてるじゃない。

「強がりじゃなくて?」

 耕一さんはベッドの端に腰掛けていきなり顔を近づけて私の目を覗き込んでくる。
 もう……ずるい。どこで覚えてくるのかしら。

「あ……ほんとのほんとに平気ですって」

 顔が熱いわ。

「じゃあさ。ちょっと遅くなっちゃったけどお昼にしない?」

 お昼?

「ちょっとね、台所のあまり物をもらってつくったから、その」
「お昼ご飯、耕一さんが作ってくださったんですか?」

 一人暮しなんだし、料理くらいは不思議じゃないわね。

「まあね。見目はよくないけど、ちゃんと食べられるから」
「うれしい、じゃあ着替えてからいきますから」
「だめだよ。今日一日くらい、ゆっくりしてなくちゃ」
「耕一さん……すみません」
「いいって。じゃあ、どうしようか。居間に用意してあるけど、とってこようか」
「あ、では私が居間へ行きます、大分いいようですから」

 カーディガンに袖を通して起き上がる。
 淡いピンクのパジャマ姿はちょっと恥ずかしい。変な風に見られていないかしら。

「を、うさぎの柄が入ってる。かわいいじゃない」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」

 なぜこう、なんでもお見通しなのっ!
 苦笑し、頭を掻きながら歩く耕一さんの後ろを、真っ赤になったまま俯いて付いていく私。
あの日以来、耕一さんの前だとどうしても小さな子供に戻ってしまう。

 けれど。この瞬間が心地いいほど、私の心は不安になるの。

「ほんと、簡単なのしか作らなかったけど」
「いえ、充分ですよ」

 耕一さんが用意してくれたのは甘い砂糖入りの炒り卵、醤油と味醂で薄く味つけした
白菜とニンジンの温野菜。あとは梓が作り置きしておいてくれた物だ。

「うれしいです……とても」
「そ、そうかな? これくらいしか出来ないからさ」
「いいえ、耕一さんの作ってくださったものなら何でも美味しく頂きます」
「あ、あははは」

 よく煮てある白菜をひとかけら口にする。なんだかとても懐かしい味がした。

「これ、叔母様の……」
「流石だね、千鶴さん。お袋の料理って食べたことあったね、そういえば」
「ええ……」
「まあ、オレが覚えたのはこれだけなんだけどね。材料がない時に便利だって」
「そうだったんですか……」

 なんだか胸が詰まる。

「千鶴さん、食欲ないの? だったら無理しないで……」
「いえ、そうではなくて……美味しいですから食べちゃうの勿体なくて」

 耕一さんはハハと笑い、自分も遅めの食事に取り掛かった。

 一通り皿が空いた頃を見て、私は台所へ立ってお茶の用意をする。普段はあまり触らせて
もらえないのでちょっと手間取ったけど。

「はいどうぞ。耕一さん、ご馳走様でした」
「ありがとう千鶴さん」

 ふふ、私だってお茶の仕度くらい出来るんですからね。

「そうだ、今度は私が耕一さんに作ってさしあげます」
「へ?」
「もう、今日のお礼ですよ。腕によりをかけて、ね」
「あ、ああああああ。そ、そうだね……楽しみにしてる……よ」

 どうしてそこで引きつるのっ!


 ジリリリン――


 気まずくなったのを見はからったように電話が鳴る。梓からだった。

『あれ? なんで千鶴姉が家にいるんだよ』
「それはその……」
『まあいいや、台所荒らしてないだろうね』
「失礼ねっ! それで一体何の用なのっ!」
『ひっ……あ、ああゴメン。実はさ……』

 梓は学校で事件のニュースを耳にしたらしい。それが日吉かおりさんの耳にも入って
しまい、彼女は半ばパニックに陥ってしまったのだ。無理もない、夏の事を考えれば。
早退する彼女に付き添って、今日は遅くなるという。

『それでさ……実は足立さんに……』
「聞いてるわ。お願いだから、ああいうことは私にも声をかけて頂戴。じゃあ、また別の
機会でいいわね」
『初音に頼んでもよかったんだけどさ、やっぱその。ゴメンっ! じゃそういうことで』

 ふう。

「どうしたの?」
「梓からです」

 私は簡潔に内容を伝えた。

「そうか。かおりちゃん、もう学校に出て来てたんだ」
「ええ。彼女には気の毒なことでしたが……」

 もっと早く気付いていれば、もっと早く鬼を見つけていさえすれば……私が思い違いを
していなければ…………。

「千鶴さん」
「はい?」
「またやってる。そういう風に自分を責めちゃ駄目だよ」
「あ……」

 でも、私にはそれくらいしか……。

「いいって。もう休んだほうがいいかな」
「……でも」
「いいからいいから。なんなら部屋まで抱っこして行こうか?」
「ちょっ、ななななにを」

 言い終わらないうちに、耕一さんは私を抱き上げた。それもお姫様抱っこ。

「も、もう。はずかしいじゃないですか……」
「いいじゃない、二人だけなんだし」
「そ、それは……そうですけどぉ」
「まあ、すぐだから」

 耕一さんの腕の中から見上げる顔は、私の記憶にある“耕ちゃん”とは別人のような、
とても頼もしい男の表情だった。

「どうしたの?」
「いえ。逞しくなられましたね、耕一さん」
「な、なななに。急にそんな」
「いえ、ちょっと昔を思い出して……」

 それはほんの少し昔のこと。

 ――違う――

 え?

 ――幾星霜の時を越え、新たな生を得たのは、再び戦うため――

「え?! そんな……そんなっ!」
「ど、どうしたの!? 千鶴さん」
「いやぁ! そんな……私は……違う……違う違う!!」
「千鶴さん! しっかり!?」

 私は耕一さんの腕を払い、自室へ駆け込むと固く鍵をかけた。

 ――なにをしている――

「いやぁ! 私の中に来ないで!」

 零れた水が広がっていくように、夕闇が空を漆黒に染めてゆくように。その声は私の心の
中へゆっくりと入り込んでくる。

 ――時は来た……と戦え――

「誰と! 何故! もう誰かが苦しむのを見るのはイヤ! この手を誰かの血で染めるのは
いやぁ!」

 遠くドアを叩く音が聞こえてくる。ああ、あれは耕ちゃんの声だ……。
 私は頭を抱えて床に崩れ、心の内から聞こえてくる声を聞くまいとして頭を振る。

「出ていって! 私の中から出ていってぇ!」

 ――笑止。この日を待ちわびていたのはお前ではないか――

「違う! 誰も望んでない! こんな……こんなのってぇ!」

 誰が望んで鬼の血を引いてるっていうの! 苦しんで、苦しんで……人並みの生活すら
許されないのに。

「千鶴さん! どうしたの! 開けてよ!」

 ――……を狩れ――

「出来ないわよぉ!」

 ……耕ちゃん……逃げて頂戴。

「千鶴さん! 千鶴さん! ここを開けて!!」

 駄目ですよ、耕ちゃん。今わかったの。
 ……多分、今度の鬼は私なんですから。

「千鶴さん!」

 ガッ、と鈍い音がしてドアが開く。いや、破壊されたんだ。私は本能に従ってドアから
離れ、そこに立つ人影を見据える。

 瞳が縦に裂けるのを感じた。

「千鶴さん……」
「耕ちゃん……さよなら……」
「! 待っ――」

 私は構わず後ろ向きに跳ぶ。背にガラスの砕ける感触を感じつつ裏庭へ。ほどなく耕ちゃんも
後を追って来た。

「千鶴さん! 一体どうしちゃったんだ?!」
「分かりませんか……?」

 視界がぼやける。いやだ、紅い瞳でも流す涙を持ってるのね。

「分かる訳ないだろ! いきなり飛び出して……力まで使って!」
「お願い、行かせて頂戴」
「行く? いったい何処へ行くつもりなの!」

 そうね、場所なんてどこでもいい。父様や母様、叔父様と同じように、跡形もなくなるの
がいい。それが柏木千鶴であったことすら分からなくなるような場所がいい。

「……さよなら……耕一さん……」

 背を向けると押さえていた涙が溢れてしまった。

「行くな!」
「?! 耕一……さ」

 両肩を強く掴まれた。鬼気を感じる。

「千鶴さんがどう言おうと、俺は行かせない。分かるんだ……千鶴さんがなにを考えてるか」
「……鬼の力はこういう時に不便ね……隠しごと……出来ないじゃ……ない……の」
「一人で泣かないで! あの時に言ったよね、千鶴さんは俺が幸せにするんだって」
「無理……ですよ……こんな私……しあわせになんて……」
「何故だよ、なんでいきなりこんなこと言いだすんだよ」
「分かったんですよ……今度の鬼は私だって……きっと、昨夜も知らないうちに……」
「馬鹿! 何故そうなる!」
「ええ、馬鹿です! だから……行かせてください!」

 身体を捻りながら沈めつつ、回転を付けて肘を鳩尾に当てた。
 耕一さんは明らかに力をセーブしていた。身体が変わるほど開放していたなら私の力で腕
を振りほどく事なんで出来なかったに違いない。

「ぐっ!」

 低く呻いた耕一さんの身体がくの字になり、幾らかの隙が出来た。

「妹たちのこと……頼みます……」

 這うように地を蹴る。まだ日が高い。あまり目立つ動きは出来ないから、裏山へ行こう。
そこで夜を待つの……死に場所を探すために。もう眠る訳にはいかない。
 遊歩道を避けて林を抜け、雨月山中を駆け抜けてゆく。

 ――何をしている……と戦え――

 煩い。お前なんて消えてしまえ。

 ――我はここにいるぞ――

 煩い、煩い!

 ――お前は…ズエ…だ――

 違う、違う、違う!

 どの位駆け回っていたのだろう。パジャマは泥だらけ、あちこち裂けてボロ布を纏って
いるかの様。

「寒……」

 疲れ果てて、近くの木の根元へ腰を下ろす。ここがどこだか判らないが、力を静めれば
楓でさえ私を探すことは難しいだろう。

 もう構わない。

「私は……柏木千鶴よ――!」

 私は声を上げて泣いた。

<続く>

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