「仲秋」〜序章  投稿者:霞タカシ


序章

 秋の気配の漂う川面に枯れ葉が一枚、あてどなく漂っていた。二割ほどが開放された
水門から注がれる清水が、枯れ葉を右へ左へと弄ぶ。
 水面から程近い河原に一人佇む。満月を過ぎたとはいえ、降り注ぐ蒼い光は河原へ私の
影を落とすに十分だ。
 空ろな石の表になだらかな分割を刻み、長く伸びた影。何かを待っているような、そ
れでいて寂しげな。
 風が木々の狭間を渡り、不安げな音をたてた。
 私は肌寒さを感じて腕を組み、肩をすくめる。視線は先程から水面を漂う枯れ葉に注
がれていた。

「…………」

 今日、何度目のため息だろう。数えるのもいや。
 瞳を濡らすわずかな雫。
 気にしてないよ、と驚くほど気軽に言ってくれた。優しく頬を撫でてくれた。
 幸せにしてあげるとまで、言ってくれた。
 全てを理解して赦してくれた男性(ひと)。
 耕一さん……
 ……愛しい人。
 あのとき、彼の中に眠る『鬼』の力が目覚め、暴走していた。そう思い込んでいた。
 鬼を止めるには他に手段がなかったから。
 ──それが柏木の家を治める者の義務であり、運命だったから。
 けれど、どんな理由があったとしても、愛しあった人を自らの手に掛けようとしたこ
とは拭い去り様のない事実。
 指に残る肉を斬り裂く感触。
 自分を信じてほしいと叫びながら逃げ惑う耕一さんを、いつしか歓喜のうちに追い廻
し、爪を振るっていた私。
 いつまでも付きまとう深い自己嫌悪。

「偽善……ね」

 知らず、苦笑する。梓のいうことは正しい。だって、判ってたはずだから。四十九日
にかこつけて、彼の鬼が目覚めるのを承知で呼び寄せたんですもの。いえ、もとより私
は彼を目覚めさせるつもりでいた。全てを告げて。

 彼に嫌われてしまうのが恐い。柏木の血が憎い──。

 あの夜以来、深夜にそっと家を抜け出しては誰もいない水門の前まで出向き、答の無
い思索に耽るのが日課になった。
 そうして自分の心を責めることくらいしか出来なかったから。

 ……ひとたび溶けてしまった心は、再び凍り付くことを拒んだから。

 風が雲を運び、束の間、月光を遮る。
 じっと川面を見つめていた私は、ふうと小さなため息をこぼして肩を落とした。
「……考えすぎ。だけど…………あ」
 自分でつぶやいた矢先にこれだから、と、頭を振る。考えても答えが出るとは思えな
い。同じことをグルグルと連想するだけ。八方塞がり。
 あの事件の後、滞在を1週間ほど伸ばしてから耕一さんは隆山を離れた。
『すぐに、帰ってくるから』
 帰ってくる――。遊びに来るではなく、帰ってくると別れ際に私の耳元でそっとつぶ
やいた彼。本当に嬉しかった。
 同時に恐かった。
 彼は、耕一さんは本当に私のことを赦してくれているんだろうか、……と。
 月の光も雲に隠れ、水面を漂っていた木の葉はどこにいったか分からなくなってしま
った。水門から聞こえる水音はいつもと同じはずなのに、どこか物悲しい響きがして、
私の心を冷やす。

 ただ、冷えるだけの心。凍り付くより辛い……さみしい。

 虫の音が途絶えた。

「?」

 唐突な人の気配。いや、人よりももっと強い気配を感じる。これは鬼気だ。
 私は盛んに警報を鳴らす狩猟者の本能にしたがって、ゆるりと『力』を開放した。
 真紅に染まり、縦に裂けた瞳が発する野獣の如き冷たい視線が辺りを威圧する。
 真昼のような視界、小鳥の息吹すら聞き取る聴覚。五感を最大まで広げてみるが、周
囲に満ちた鬼気は位置が掴めない。

 ──手慣れた相手か。鬼気を完全にコントロールしている。

「誰です」

 冷えきった声が河原に響く。
 正直、戸惑っていた。先の一戦で、この地を騒がせていた鬼は死んだ。耕一さんも鬼
の力を完全に制御することができるようになり、大学へと戻った。
 にもかかわらず、これほどの気を発する鬼がいる。梓や楓の物とは明らかに格が違う。

 がささっ……バキッ──

 水門に程近い樹の一本が揺れ、先端に近い枝が束になって折れた。
 来た。
 紛れもなく同族の匂いだった。
 私は覚悟を決め、水門の上に向かって跳躍した。軽く50mを越える距離だが、力を解
放した私には水たまりを飛び越えるくらいの感覚。頬をなぶる夜風が気持ちいい。
 程なく水門の上に降り立つ。水門を構成する鋼板には、そこここに凹みが出来ていた。
暴走した鬼と戦った時に、自分が叩きつけられて出来た痕だ。いやでもあのことを思い
出す。

「……どうして」

 どうしてそっとしてくれないの? 静かに暮らすことなんて私達には許されないの?
 再び周囲を探る。今度は容易に鬼気の持ち主を探し当てることが出来た。
 それにしてもこの感じはなに? 強い力に混ざる、懐かしい香り。梓や楓のものにも
似ている。耕一さんなの?……でもなぜ?
 正面、中程の木……目標を定めた私は鉄板にサンダルの形を刻み付けつつ、再び跳躍。
 低木を2、3本粉々にして、木々の間に着地する。辺りには積もり始めた枯れ葉。直
接着地したら間違いなく転んでしまう。

 私は周囲の気配を慎重に探りつつ、ゆっくりと分け入った。
 固い音がして、唐突に鬼気が消え去る。
(?)
 あれ程強く感じていたプレッシャーがみるみるうちに消えてゆく。
「……まさか気のせいって訳じゃ……」
 件の木の根元に人がうつぶせに倒れていた。
「ないわよね、やっぱり……」
 私は訝しげに小首を傾げると、更に用心深く近づいて行く。
 意識が目標に集中していたせいで足元がおろそかになり、ごす、と何かにつまずいて
盛大にコケた。
「はっ……ほっ……むっ……きゃあ!」
 2、3歩しつこくバランスを取ろうとあがいたけど、努力の甲斐無く倒れている人の
上へ折り重なるように倒れ込んでしまった。
「あいたたた……」
 振り返ると、大きめのスポーツバッグが自分の履いていたサンダルと一緒に落ちてい
た。あれに引っ掛かったのか、と思いつつ、両手がほのかに暖かいのに気が付いた。

「えっと……」

 改めて自分のいる場所をみる。倒れている人は全裸の男性だった。
 自分はというと、その人物のお尻のあたりへ馬乗りになった恰好だ。

「……(ぼっ)」

 真っ赤になって、あわててその場から飛び退く。

「こんなところで。一体……?」

 その時、雲が切れた。淡い月光に照らされたその人の顔は……

「!……耕一さん!?」

 見間違えるはずのない最愛の人。傍らに屈み込んで、ゆっくりと彼の体を起こす。

「耕一さんっ、耕一さん!」

 体には傷一つ無い。いや、額にたんこぶが出来てる。痛そう。
 気を失っているだけのようだった。ふと気になって木の突端を見上げる。状況から見
て、耕一さんは鬼化したまま、ここまで来て、木に当たったか掴みそこなったかして墜
落したようだ。頭上の枝が綺麗に無くなっていた。更によく見ると、木の根元にはいい
具合の岩が顔をのぞかせている。これは効きそうね。

「……なんてお約束な……それにしてもどうして鬼の力を?」

 ふと彼の股間に目が止まった。

 まあ、逞しい。

「……えっと、その、十分元気……みたいで……」

 鬼の力を開放すると戦いへの衝動と共に異常な性欲を感じる、と以前耕一さんから聞
いたことがある。先程まで鬼化していた彼のことだ、当然かな、と思う。
 なるほどこういうことなのね。

「……ん、もう!」

 しばし観察してしまった私はふと我に帰ると、慌てて羽織っていたカーディガンを脱
ぎ、耕一さんの股間へ投げ付けた。しかし、いい具合に引っ掛かって股間で丸まったカ
ーディガンは耕一さんの元気な姿をさらに強調する結果となってしまった。

「〜〜〜〜!!」

 首まで真っ赤になり、あわてて視線を逸らす。
 黒……だしね、このカーディガン……。

「ちょ、……ちょっと……なんとかしなくちゃ」

 このままで連れて帰ったらどんな騒ぎが起こるか……ちょっと興味があるわね。
 いけない、そんな場合じゃなかった。

 ──ちらっ。

「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

 なんていうかその、お元気で何より。
 鬼の力を開放したままの私はえも言えぬ気分に満たされていく。
 同族の、私の愛する男性、しかも全裸ときたもんだ。

「きゃっ☆ やんやん☆」

 ……一人でやっても空しいわ。

 とにかくこのままでいる訳にもいかないので、私は鬼の力を収めた。耕一さんのバッ
グを漁って着替えを取り出す。
 Tシャツとトランクス、ビニールに包まれたままの真新しいスラックスを取り出して、
私はハタと気がついた。

「さて、どうやって着せようかし……ら……」

 あ、まだお元気。

 ようやく落ち着いたのに、また顔が熱い。
 もう、これじゃ埒が明かない。耕一さんに起きてもらうしかないみたい。聞きたいこ
ともたくさんあるし。

「え……っと」

 ペチペチと頬を叩いてみる。

「耕一さん、耕一さんってば。目を覚ましてください」

 二、三回続けて頬を打つが唸り声ひとつで一向に気がつく気配が無い。気付けと言う
には少々危険だったが、私は耕一さんへ鬼気を叩きつけた。
 目を閉じて意識を眉間へ集中し、一時だけ力を開放する。

『耕一さん……!』

 ビクッ! と身体を震わせた耕一さんは弾かれたように飛び起きた。

「っうわああああっ!」
「きゃっ……!」

 頭を抱えていた私はその反動で、尻餅。やだ、みっともない。

「……っく、はぁっはぁっ……ふう……?」

 耕一さんはまだ頭がハッキリしていないらしく、ぼうっとした目付きで辺りを見廻し
た。
 途中、私と視線が合った。

「……耕一さん?」
「……え?……ち……づるさん? ここは……」
「よかった。気が付いてくださったんですね」
「オレは一体……ん? うわわわわ」

 耕一さん、自分が裸だってことにようやく気が付いたみたい。押さえるとこ押さえて、
顔を耳まで赤くして。

 かわいい。

 じゃなくて。私は慌てて後ろを向いていった。

「あ、ああ、あの、き、着替え、出しておきましたから……」
「そ、そう? ありがとう、千鶴さん」

 落ち着いていたつもりだったけど、凄く声が上擦ってたみたい。それは耕一さんも同
じだったけど。背中のほうから衣擦れの音が微かに聞こえてくる。
 なんか、ちょっぴり気まずい。理由はともかく、目の前に耕一さんが要る。押さえき
れないくらい嬉しい。けれど、姿が変えてまで力を使う理由はなに?

「千鶴さん、もういいよ」
「あ、はい」

 私は気を取り直して耕一さんと向かい合った。

「耕一さん」
「えっと、な、何かな? 千鶴さん」

 気を落ち着ければすぐよそ向きの厳しい顔を作れる。幾ら制御ができるようになった
耕一さんでも気安く力を使って貰っては困る。

 さて、何から訊こうかしら……。


<続く>


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