マルチライダー 〜序章(前編)〜 投稿者:川村飛翔
オレと芹香先輩は今、大学にあるベンチに座り、
次の講義の時間まで日向ぼっこがてら、お喋りをしていた。
お互いの服装は大学生らしく、そこそこラフにしてある。
だが、お喋りとは言っても、先輩の声が周囲に聞こえない以上は、
第3者からはオレが一方的に先輩に話しているように見える。
ある時、先輩の会話の内容に、以前マルチの生みの親だと紹介された
来栖川重工のHM開発課の長瀬主任の事が出てきたとき、
オレはあることを思い出した。
あれはそう、高校の桜が葉桜になりかけた4月19日の夜のこと。
あの時の会話は、確かこんな感じだったはず。

・・・・・・・・・・・・・

「浩之さん。わたし、浩之さんとお知り合いになれて本当に良かったです。
  わたしはロボットなのに、まるで人間のように仲良くしてくださって・・・」
「マルチは・・マルチだからな・・・」
  オレはぼそっと言った。
「・・・え?」
  マルチは驚愕の表情を見せた。
「・・ロボットだとか、人間だとか、そんな事は関係ない。
  いくら身体が機械だからって、マルチはマルチだって言う事実は変わらないからな。
  ・・・まあ、オレにとっちゃあ・・だけどな」
「ひ、浩之さん・・・うっ」
  泣きそうになったマルチはぎゅっと目をつぶって涙が
  流れるのをこらえ、両手で目をこすり、また笑顔に戻った。
「今日はとっても幸せでした。わたし、こんなお家で浩之さんみたいな
 ご主人様のために働くのが夢だったんです。今日はそれが、短い間ですけど叶いました。
 残念ながらわたしは試作機ですから、その夢がまた叶うことはありません。
 ですが、やがて生まれる妹たちの一人が、今日みたいに浩之さんにお仕え出来れば嬉しいです」
「マルチ・・」

 ピーンポーン。

 その時、タクシーが到着し、降りてきた運転手が我が家の呼び鈴を鳴らした。
「それでは、わたしはこれで帰ります。今日は、本当にありがとうございました。
 今日のことは、わたしのメモリー内の最も大切な部分に記憶しておきます」
「マルチ・・・」
「それじゃ浩之さん。いつまでもお元気で」
 マルチはそう言って深く長いおじぎをすると、背を向けて靴を履き始めた。
 顔は見せない。その理由はすぐに解った。
 おじぎした真下の廊下には、ポツポツと涙のあとがあったからだ。
 マルチは、オレに泣いた顔を見せたくないらしい。
 マルチ・・・。

 そんな心情のオレの脳裏に、ふとこの数日間の事がよぎった。
 マルチと最初に出会ったあの階段での時のこと。
 マルチと一緒に廊下の掃除をしたこと。
 マルチと一緒にゲーセンのエアホッケーで遊んだこと。
 マルチと一緒にゲーセンでネコプリを撮ったこと。
 マルチと来栖川先輩が一緒になって、オレが落とした100円を
 探してくれようとして、結局は先輩が見つけてしまったこと。
 ・・ん?・・・ちょっと待った。・・・来栖川先輩?
 そうだ。確かに今オレが、ここでマルチをこの場で引き止めるのは簡単だ。
 でも、マルチにとってそれがいい結果になるのか?
 オレがここでマルチを引き止めてはいけないような気がする。
 だけど、このままマルチが研究所に帰ってしまうのは、何となくつらい。
 オレはマルチが両方の靴を履き終えるまで、自分の中で自問自答を繰り返した。
 そして、オレが出した答えは・・・。

「・・・マルチ、お前と出会ってからの数日間、オレも楽しかったぜ」
 オレは靴を履き終えたマルチの背中に言った。
 何も答えないマルチ。
 ただ、その小さな肩が小刻みに震えていた。
「お前のこと、ずっと忘れないからな」
 オレがそう言うと、立ち上がったマルチが、
 り向かずに背中を向けたまま言った。
「・・はい、わたしも・・・忘れません・・絶対に・・」
 それは鳴咽を含んだ熱い涙声だった。
「・・・じゃあな、マルチ」
「はい。・・さようなら、浩之さん」
 そう言い残すと、マルチは重たそうに玄関の戸を開けて去っていった。
 遠ざかるマルチの足音。
 バタンと閉じる車のドアの音。
 走り去って小さくなっていく車のエンジン音。
 そして家の中に、突然の静けさが訪れた。

 ・・・この家って、こんなに静かだったか?
 マルチの去った後の玄関を、オレはしばらくぼんやりと眺め続けた。
 この時のオレは、研究所に帰って行って、2度と会えないと思っていた
 マルチにまた会う事が出来るなんてこれっぽっちも思っていなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それから、結構長い月日が経った。
その過ぎた月日の間に、オレの周りが色々な面で劇的に変化したと思う。
まず、出会いから数ヶ月という短い期間で、オレと芹香先輩が相思相愛の関係になれたこと。
高校卒業後にオレは、先輩を追って彼女と同じ大学に入学したこと。
そして今は、芹香先輩と大学生活をエンジョイしていること。
ちなみにオレは大学で飛び級試験を受けて合格し、今は先輩と同じ学年にいる。
先輩と同じ学年なのにも関わらず、オレは未だに芹香先輩の事を先輩と呼んでいる。
オレにとっちゃ、こっちの呼び方の方がしっくり来るからだ。
先輩も、浩之さんがいいのなら・・と言ってくれるので、先輩の方も呼び方に反対はしない。
大雑把な部分をつまみ出せばこんなもんだが、細かい履歴を挙げればきりがない。
そういうわけで、今のオレの人生は上々だ。
でも、何で突然マルチのことを思い出したんだろう?
何かの前触れってヤツか?う〜ん・・・。
「・・・・・」
オレの耳元にどうしました?と言う先輩の声が届いた。
どうやら先輩をほっといて、すっかり自分の世界に入ってしまったみたいだ。
「あっ、先輩。ごめんごめん。ちょっと考え事してた」
「・・・・・・」
先輩はいつも通りの表情で聞いてくる。
「えっ?何を考えていたのですかって?」
こくん、と頷く先輩。
オレは何となく遠い目をして、
「・・・・ちょっと昔を思い出してたんだ。
そうだな・・オレと先輩が出会ってから間も無い頃だな」
オレはキザっぽく笑うと、腕時計を見て、
「ほら、先輩。そろそろ次の講義が始まるぜ。
次の教授は出席にうるさいから、急がないとな」
こくん、と先輩が頷くのを確認したオレは、彼女の手を取って立たせた。
先輩は立った後も、差し出したオレの手を握り続け、
このままいきましょう、と言ってきた。
反対する理由も無く、逆にこうしていたいと思っていたオレは、
「ああ」
と、言ってオレと先輩は、手を繋ぎながら次の講義がある教室に向かった。


――その日の大学の帰り。
講義は午後の早いうちに終わったので、オレたち2人は帰りがてらの散歩をしていた。
ま、いわゆる一つのデートだな。
高校時代は、いつも先輩を迎えに来たセバスのじじいだったが、
寄る年波に勝てないのか、今は先輩の家の方でお留守番。
先輩の両親の方も、大学からは自分一人で行かせてみようと提案したので、
こうして、ゆっくりと先輩と一緒に帰ることが出来るってワケだ。
今日は少し遠出をしましょう、と先輩が提案したので、
オレは進路方向を変えることにした。
出たところは、ちょっと車の交通量が多い大通りだった。
それでも、きちんと歩道が配備されているので問題はなかった。

ヴォォォォォオオオオ・・・!

先輩と一緒に歩道に沿ってブラブラしているオレの耳に、
かなりの出力を出していると思われる、車のエンジン音がドップラー効果の原理で届いた。
先輩もその音は聞こえたらしく、動作は遅まきながらも、辺りをキョロキョロしている。
オレは試しに後ろを振り向いて見ると、
一般道路なのに何故かナンバープレートを付けてないBWMが走っていた。
先輩の肩を叩いて後ろを指差すと、先輩も車の方を見る。
こっちに接近してくる様に見えるそのBWMは、
素人が見てもかなりのスピードが出てる事が分かる。
こちらを通り過ぎるまで、目測であと200mと言う地点で、
BWMがそのままのスピードで歩道に突っ込んできた。
オレは危ないと思う間もなく、反射的に先輩を丁度開いていた
ガードレールの隙間に向けて突き飛ばした。
そしてオレは、何も感じることも無くそのまま意識を失った・・・。

・・・・・・・・・・・

車の車体に当たる寸前で僅かに身をかわしたおかげで
即死は免れた浩之だったが、かなりの重傷を負っていた為、
そのまま放置しておけば時機に死ぬことは明白だった。
一方、浩之に突き飛ばされた芹香の方は、
その時にちょっと手を擦り剥いた程度だったが、
急いで浩之の元に駆け寄ったが、浩之のその姿を見て、
普段は喜怒哀楽の表情が表に出にくい芹香だが、
今は驚愕の表情が誰にでも分かるくらいはっきりしていた。
口元に手を当て、小さく悲鳴を上げる。
「う・・・ううっ・・・」
芹香は倒れている浩之のうめき声で我に返り、
急いでできる限りの応急処置を施し始めた。
持っているハンカチで止血をして、口の中の異物を取り出す等の作業を行った。
浩之の口の中に、これと言った異物が見当たらなかったので、作業は止血が主だった。
幸い、浩之の頭部に特に外傷は見られないようだが、
衝撃で首の骨が折れている可能性があるので、下手に彼を動かせない。
芹香は自分のバッグの中に携帯電話を入れて来てるかどうかを確認したが、
不幸なことに、今日は携帯電話をバッグに入れてきて無かったのに気が付いた。
散歩の最中に見かけた電話ボックスは、ここから2kmも離れていて、
芹香の足では、電話して救急車が来る前に浩之の命が尽きてしまう可能性が高い。
それでも、何もしないよりはいい、と思った芹香は、電話ボックスのある場所まで走り始めた。
だが、やはり同年代の女性の平均走力を少々下回る芹香の足では、
2Kmの走っての移動はかなりの重労働だった。
芹香は500mを走ったところで、
前方に1台のワゴン車がのんびり走っているのを見た。
芹香は車を止めるべく、車道に出て車の進行方向に両手を広げて立ち塞がった。
一方、車道に飛び出した芹香に気が付いたワゴン車のドライバーは、
ブレーキをかけて、芹香に衝突するまで5mの地点で車を止めた。
車が止まったのを確認した芹香は、ドライバーが窓を開けて文句を言う前に、
「助けてください!私の恋人が車に轢かれて死にかけてるんです!」
と、普段よりも何倍も大きな声でドライバーに助けを求めた。
もしも浩之や彼女の両親が聞いていたら、さぞびっくりしただろう。
芹香の、ただ事じゃないと言う顔の表情を読み取ったワゴン車のドライバーは、
「わかった。その人のところまで案内してくれ」
と言って、芹香を車の中に入るように促した。

車で走れば500mの距離は目と鼻の先である。
1分もしないうちに、車は浩之が轢かれた現場に到着する。
ドライバーは車から降りて、浩之の元に駆け寄ると、
「七瀬、患者の様態は?」
七瀬と呼ばれた、車の助手席に座っていた女性は、
浩之の手を取って脈を測ったり、怪我している部分を調べると、
「大丈夫、首の骨が折れてるとかの致命的な外傷はないわ。
でも、このままじゃ傷に体力を奪われて命が危ないわ。どうする、折原?」
折原と呼ばれた車のドライバーの方は、
「とりあえず、かなりの血液が出ているだろうから、先に輸血だ。
七瀬!今は血液型がわかんないから、車の中のケースから
ありったけのリンゲルと酸素吸入器を持ってこい!」
「分かったわ。でも、リンゲルって簡単に言うと塩水でしょ?おまけに輸液じゃない!」
「いいからさっさと持ってこい!」
「はいはい、分かってますって」
七瀬は車に戻って、車内に5つあるアタッシュケースの中を探り始める。
その様子を呆然と見ていた芹香は、
「・・・・・・は?」
いつもの小さな声で尋ねる。
「ん?あなたのお名前は、って?・・・俺は折原浩平。君は?」
「・・・・・」
「ん?名字の方が聞き取れなかったけど・・名前は芹香って言うのか?」
芹香は少し間を置いてこくん、と頷く。
「そうか。俺はここから10km離れた宅手楠総合病院で、小児科医師をやってる」
折原は芹香の質問に答えながら、ポケットに入れていた小型のケースから
小型の注射器を二本取り出し、一本には液状のトロンビンを、
もう一本の方には液化オピオイドを入れる。
そして折原はトロンビン、オピオイドの順番で浩之に薬剤投与を始めた。
「折原っ。持ってきたわよ、リンゲル入りソフトバッグ」
「よし。それじゃあ・・・芹香さん。今からこれを点滴注射するから、
立ったままで七瀬が持ってるビニル袋を持っててくれ」
芹香はこくん、と頷くと、七瀬が持ってる透明なビニル袋を受け取る。
「それじゃあ俺は担架の代わりになる物を探してくるから、七瀬はリンゲル輸液をやっててくれ」
「任せてっ」
七瀬の言葉を聞き、折原は再び車に乗り込んで車を走らせた。
芹香は渡された袋を持って立ちつづけ、七瀬はどこからか取り出した
針とチューブを、芹香が持っている袋に取り付けて、手早く開始輸液の準備を始めた。
「・・・・・・」
「貴方も医者ですかって?あたしは医者じゃなくて看護婦よ。
まだ正看護婦になってから、日は浅いんだけどね」
照れ笑いを浮かべつつも七瀬は、順調に開始輸液の準備を終わらせ、
ビニル袋の栓を抜いて、開始輸液を開始した。
「あっ、とりあえず聞いておきますけど、この人の血液型はわかりますか?」
芹香はふるふる、と首を振る。
「仕方ないわね・・折原が担架を探しててこの場にいない間、
あたしがGVHDとかの検査をやるしかないわねぇ」
七瀬はブツブツ言いながら、車の中から血液検査器と書いた
ラベルが貼ってある小さな器具を持ち出した。
そして、浩之の身体からまだ流出している血液を、彼の体に負担が掛からない様に採取する。
「えっと・・あなた確か、この人は恋人だって言ってたわよね?」
七瀬は採取した浩之の血液を試験管に入れ、検査器に装備されている遠心分離器に掛ける。
芹香は芹香で、七瀬の質問に顔を赤らめながらもハイ、と答える。
「えっと・・・芹香さんだったっけ?折原があなたの事をそう言ってたみたいだけど」
「・・・・・」
ちょっと間を置き、そうです、と答える芹香。
「そう。あたしは七瀬留美。さっきも言ったけど看護婦よ。
折原と同じ病院で、新米看護婦として働いているのよ」
遠心分離器が動いているのを眺める七瀬。
「・・・・・・・・」
「えっ?あなたと折原さんとのご関係は何ですかって?」
ちょっとだけ焦りの表情を見せる七瀬。
「う〜ん、そうねぇ・・・なんて言ったらいいんだろ?
簡単に言ったら、折原はあたしの人生の恩人みたいな感じかな?」
七瀬は分離された血液が入ってる試験管を分離機から取り出し、
近くにセンサと書いたラベルが貼ってある縦長い穴に試験管を差し入れる。
七瀬は穴の横にあるスイッチを押すと、
「あたし、小さい頃にお母さんと一緒にある施・・・」

ブロロロロロロロ・・・・ッ!
キキーッ!

いきなり折原の乗ったワゴン車がバックで走行してきて、そのまま急ブレーキを掛けたのだ。
ワゴンは歩道に乗り上げた状態で、七瀬と芹香に接触するまであと1mの所で止まった。

ガチャ・・!

折原は車のエンジンを止め、運転席のドアを開けてから、
ワゴンの車内から大きな担架を引っ張り出した。
「よっ。七瀬、お待たせ」
時間が時間なだけに、歩いている人がいないからよかったが、
下手すりゃ2次災害を併発しかねない行動をとった折原の表情は飄々としていた。

ゴイン!

七瀬はどこからか取り出した金ダライで折原を殴ると、
「殺す気かぁっ!このアホぉっ!!」
折原は痛む頭を押さえながら、
「いや、ただの冗談だ。こうやって戻れば驚くかなって・・」

バゴッ!

「アホっ!驚愕を通り越してこれは恐怖よっ!」
「う〜ん・・・面白いと思ったんだが・・」
「必殺に面白くないわよ!」
2発目の金ダライを食らっても、平気な顔をして会話を続ける折原。
「まあいいじゃないか、別に死んでるわけじゃないんだからさ」
「はぁ・・・瑞佳の言ってる苦労ってのが、よく分かるわ・・・」
「あの・・・」
『ん?』
七瀬と折原が声のする方を向くと、
とても困った表情をする芹香が佇んでいた。
それを見た折原と七瀬は、こんな事をしている場合じゃないと気が付き、
忘れられかけた浩之を担架に乗せて、車の中に運び込んだ。
七瀬は車の後部座席のシートを全部倒して、平坦な仮のベッドを作って浩之を寝かせた。
「よし、出すぞ」
運転席に座り、車のエンジンを掛け直した折原は、
アクセルをゆっくり踏んで車を発進させた。

折原は浩之に負担を掛けない様に運転をして、七瀬は検査器から得られたデータを元に、
MAP・顆粒球・血小板・加熱ヒトアルブミン等を調合し始める。
「ねえ、折原」
少し走ったところで、出来上がった人工血液を、特殊な機械を使って
煮沸消毒、真空詰めなどの作業を行ってからソフトバッグに入れ、
リンゲルの補充輸液と同じ要領で新しい針とチューブを取り付けて輸血を
始めたところで、七瀬は折原に問い掛けた。
芹香はリンゲル液から人工血液の入ったソフトバッグを持たされている。
「どうした、七瀬」
返事はするが、前を向いたまま運転を続ける折原。
「そこの担架はどこから持ってきたの?」
「ああ、あれか。近くの小学校の保健室から借りてきた」
「借りてきたって・・ちゃんと養護の先生に断って借りてきたの?」
「ああ」
「ホントかなぁ・・折原、前に黙って借りてきたことがあるじゃない?」
「心配するな、今回は保健室に養護の先生がいたからな」
「そう?」
「ああ」
「なら、いいんだけど・・・」

プルルルル・・・。

突如、車内に電話の呼び出し音が鳴り響いた。
「おっと、電話だ」
折原は車内に取り付けてあった電話の端末を取り上げた。
「はい、折原ですが・・おう、長森か。どうした?」
折原は電話の向こうの長森と言う人物に向かって、気さくな口調で喋り出した。
かなり気の知れた相手なのだろう。
「・・・・ああ。今、事故に遭って怪我した男を車で運んでる最中だ。
一応簡単な止血の処置は済ませたから、少しは時間が稼げるはずだ。
運転に集中しなきゃならんから、もう切るぞ」

ピッ!

そう言いつつも、向こうの返事を待たずに電話を切る折原。
「まったく、長森はいつまで立ってもおせっかいなんだからなぁ・・・」
しょうがねえなあ、という表情を浮かべる折原。
「・・・折原」
少しの沈黙が流れたあと、突然七瀬が声を上げる。
「ん?何だ?」
「あたし、ふと思ったんだけど・・あたし達が何かするより、
近くの電話ボックスで119番して、救急車を呼んだ方が早かったんじゃない?」
七瀬の言葉に、折原は少しの間沈黙して、
「・・・・・ぐあっ」
小さく呻いたあと、頭をうな垂れた。
「・・ねえ、あたしたちってアホっ?マヌケ?」
「言うな・・・・」
ため息を吐く折原と七瀬。
「・・・・・」
「え?大丈夫です?その方が都合がいいですって?」
七瀬の問いかけに頷く芹香。
「・・・・・・・」
「私が言う所に車を走らせて下さいって?ああ、わかった」
芹香が指示した方角に車を走らせ始める折原。
「・・・・」
走り出して5分ちょっと経った頃、芹香は折原に話し掛ける。
「・・・・・」
「え?電話を貸してくださいって?いいぜ、お安い御用だ」
運転席においてある電話機の端末を取り上げて、芹香に渡す折原。
芹香は渡された端末のボタンを押して、電話を掛け始める。
「・・・・・・・・・・・」
元々声の小さい芹香なので、電話の内容は折原と七瀬には聞こえない。
だが、電話の相手はひどく慌てているようだ。

ピッ!

5分くらいで芹香は電話を切り、受話器を折原に渡すと、
「・・・・・・」
「えっ?手術の準備をしてもらいましたって?」
「・・・・・・・・・」
「この先の交差点を右に曲がってくれって?ああ、わかった」
訝しげな顔をしながらも、折原はハンドルを右に切る。
そのまま2分くらい走らせた折原は、
「七瀬、脈拍数はいくつだ?」
七瀬は浩之の首筋に手を当てて、脈を規定の時間まで測ると、
「大体50ってとこ。ちょっと血が抜けてて、あまり脈拍が取れないから
人間の手での測定じゃ誤差が出て、正確な値は出てこないわ」
そう言って七瀬は、浩之の首筋から手を放すと、
「芹香さん。あたしたち、一体どこの病院に向かってるの?」
問われた芹香の方は、うつむいてた顔を上げ、
「・・・・・・」
「は?世間には知られていない病院ですって?大丈夫なの?」
「・・・・・」
「大丈夫です、見えてきましたって?」
芹香の指差す先を見る折原と七瀬。
車の目指す先はコンクリートで覆われた一枚の壁。
「・・ただの壁に見えるんだが?」
不安口調で芹香に問う折原。
「・・・・・・・・・」
「えっ?壁の前で止まってくださいって?あ、ああ」
戸惑いながらも指示通りにする折原。
事の起こりを、固唾を飲んで見守る七瀬。

キキッ!

車が止まったことを確認した芹香は、車から降りて壁の前に立った。
芹香が壁の部分を触っていると、12個のボタンが付いてる機械が現れた。
そのボタンを芹香が規則的な動きでゆっくりと押し始めた。

ピッ・・ピッ・・・ピピッ・・・
・・・ピッ・・ピピッ・・・ピピピッ!

ヴヴヴヴヴヴ・・・・!

大きな電子音がしたと同時に、目の前の壁が襖を開ける様に割れ、
扉の奥からは、ナトリウムランプが配備されたトンネルが出現した。
七瀬と折原はその光景に唖然としていたが、芹香が戻って来た事で我を取り戻した。
「あの・・・芹香さん?このトンネルは一体何ですか・・?
それに、あなたは一体どのようなお方ですか・・?」
ビクビクしながら尋ねる七瀬。
「・・・・・・・・・・」
「秘密の通路です、急がないと閉まってしまいますって?
ええっ!?ちょっと折原、急いで中に!」
「あ、ああ・・」
戸惑いながらも、ゆっくりと車を走らせる折原。
車がトンネル内に入ったと同時に、開いていた扉が閉まり出した。
(一体何なんだ?この女性は・・・・?)
トンネル内を走る折原の頭の中には、その事だけしか浮かんでなかった。

・・・・・・・・・・・・・・

トンネル内をそのまま進んでいると、折原の目に奥の方に明りが入った。
明りは大きくなって来ると、折原に明りの正体が蛍光燈の光だと言うことを認識させた。
「・・あそこでいいんですか?」
遠慮がちに尋ねる七瀬。
「・・・はい」
普通に聞こえる声で答える芹香。
「七瀬、病院の玄関らしき物が見えてきたぞ」
「えっ?」
助手席に戻ってフロントガラス越しに正面を見る。
折原の言う通り、救急病院の玄関と同じ形の玄関があった。

キキッ!

折原が玄関前に車を止めてから1分足らずで、
大勢の看護婦と医師が現れて、車内の浩之を台車の上の
担架に乗せて、奥の方に連れて行ってしまった。
その様子を再び唖然とした表情で見ていた折原と七瀬だったが、
芹香が既に車から降りているのに気が付き、2人は急いで車から降りる。
2人が車から降りたと同時に、病院の院長と思える威厳を持った
医者が病院らしき施設の奥からこちらに走ってきた。
その人物は、そのまま芹香の方に駆け寄ると、
「芹香お嬢様。遅くなってしまって申し訳ございません」
その人物は芹香に深いお辞儀をする。

『・・・お嬢様?』

ダイアモンドのごとく硬直する折原と七瀬。
「この医院の手術医が、全員出払っていた事態に気が付かなかったので、
遅まきながらこの秋葉原が、手術の陣頭指揮を執っていた所存でございます。
芹香お嬢様の大切なお方の手術だと言うのに、遅れてしまいまして申し訳ありません。
全ては、院長である私のミスでございます」
自分を院長と呼んだ人物は、平身低頭して芹香にひたすら謝り倒す。
その光景を、ただじっと見ていた折原は、
「あの・・この医院の院長さんでございますか?」
尋ねられた院長の方は、
「はい。あなた方は一体?」
折原は懐から医師の免許を取り出すと、
「宅手楠総合病院、小児科勤務の折原浩平と言います。
今運ばれて行った彼に応急的な処置をして、芹香さんに案内されて来ました」
「お嬢様に?どの様ないきさつでございますか?」
「実は・・・」
折原と七瀬はこれまでの経緯を、秋葉原と名乗った院長に聞かせた。
「ははぁ・・そうでございましたか。しかし、これまでの話から想定すると、
あなた方は、芹香様がどのようなお方かご存知無いのですか?」
折原だけに聞こえる様に耳打ちする秋葉原院長。
「いえ・・・。とても凄い人じゃないかな、とは思ってますけど」
折原も小さい声で答える。
「知らないのならばお教えしましょう。そこの御仁もこちらに」
秋葉原院長は七瀬をヒソヒソ話に引き込むと、
「何を隠そうあのお方は、日本屈指の企業である来栖川グループの
会長のお孫様、姉妹の姉の方である、来栖川芹香様でございます」
秋葉原院長のその言葉に、七瀬と折原は声も出ず、口を酸素不足の金魚状態にしていた。
本日3回目の唖然呆然である。
「この特殊緊急医院も来栖川グループが経営していて、
来栖川の一族か、一族の賓客だけが利用できる、特別施設なのです」
2人の硬直度はさらに上昇し、今やダイヤも打ち砕けるくらい硬くなっていた。
芹香はその光景をいつもと変わらぬ表情で見つめていた。

三分くらいその状態が続けていた折原と七瀬の二人だったが、
一人の看護婦が慌ててこっちに来る足音に気が付き、
本日3度目の我を取り戻した。
「院長!」
「一体どうしたのかね!?大場くん」
大場と呼ばれた看護婦は、切らせた息を整えると、
「全ての先生方に電話で尋ねてみましたが、
どの先生も、ここに来るまでに3時間以上は掛かるそうです!」
秋葉原院長は難しい顔をすると、
「まずいのう。クランケの様態を考えると、
誰かがここに来る前にクランケの体力が持ちそうも無い」
院長のその言葉を横で聞いてた芹香が、悲しそうな表情を浮かべると、
すこし考え込んだ秋葉原院長は、意を決した表情を浮かべると、
「よし、確か折原くんって言ったな。君は小児科だそうだが、
この際細かいことは抜きにして、私の助手として外科に入ってくれないか?」
「・・・はい?」
回転の止まった頭脳で問い掛ける折原。
「助手で外科に入ると言っても、仕事は今回だけでいい。
一時的な助手としての賃金も出すし、細かい所は私が指示をするから心配ない。
頼む!時間が無いのだ!運ばれた彼と、お嬢様を助けると思って、やってくれないか!?」
折原は動き出した脳で少し考え、
「わかりました。何とかやってみます。でも、賃金は必要ありません。
来栖川グループのお嬢様とお近付きになれたんだから、こっちお釣を払いたいぐらいですよ!」
折原は照れた笑いを浮かべると、
「ありがとう、助かる!」
秋葉原院長は折原の手を握ってブンブンと振る。
「ちょっと待った!」
横やりを入れる七瀬。
「ん?一体どうしたんだ?七瀬」
折原と秋葉原院長の手の上に自分の手を乗せた七瀬は、
「折原がオペの助手をやるなら、あたしだって参加するわ。
あたしたち、宅手楠総合病院での最高のパートナーでしょ?
一人だけでやろうなんて考え、起こさないでよね?」
言った後七瀬は、折原に向かってぱちっ、とウィンクをする。
それを見た折原はふっ、と薄く笑いを浮かべると、
「七瀬。そんな事くらいは、ちゃんと分かってるさ」
折原もウィンクで返す。
「さすが折原っ、そうこなくっちゃ!」
七瀬は乗せていた手を放すと、
「さっ、院長さん。オペ室にさっさと案内してよね?」
秋葉原院長は七瀬の言葉に頷くと、
「わかった。手術室はそのまま廊下をまっすぐ行った所の角を
右に曲って階段を降りればすぐそこだ。手術衣も手前の準備室にある。
さあみなさん、急ぎましょう。芹香お嬢様も、手術室の前までいらっしゃいますか??」
芹香は首を横に振り、小さな声で後から参ります、と答えた。
「承知しました。それでは折原さんに七瀬さん。手術室に参りましょう」
『わかりました!』
折原と七瀬、秋葉原院長はそのまま手術室へ向かって駆けていった。
芹香の方は少しの間佇んでいたが、ふと顔を上げて、
乗ってきた車に置いてる電話の端末を取り、どこかへ電話を掛け始めた。
「・・・・・・・・・」
すこしの間、聞こえない電話での会話が続いたかと思ったら、
突然、極端に大きな声が受話器から響いてきた。
(ちょっと姉さん!一体どういう事!?)
響く声の中に、姉さんという単語が聞こえてきた。
どうやら電話の相手は芹香の妹、綾香に替わったようだ
「・・・・・・・」
(そう、わかったわ。長瀬さんにも手伝わせて調べて見る。
しかしまあ・・・姉さんも何かと大変ねぇ・・・)
「・・・・・・・・・・・」
(はいはい、分かってますって)
「・・・・・・・・・・。・・・・・・・・、・・・・・・・・・」
(ふ〜ん・・・姉さんってば、色々といい人に巡り会えたわね。
あたし、姉さんがちょっと羨ましくなってきたわ)
「・・・・・・。・・・・・・・・・」
(あーあーはいはい、わかってますって。そこんとこはあたしと長瀬さんに任せて、
姉さんは早く浩之のところに行ってきてあげたら?彼、寂しがっちゃうわよ?)

プッ・・・!

芹香の返事を聞かないまま綾香は向こうから電話を切ってしまった。
綾香の言葉に、そのまま車内で赤くなってた芹香だったが、
すぐに立ち直って、浩之がいる手術室に向かって走り出した。

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文中の医学用語解説

アルブミン:血液製剤の一つ。
            急性の低タンパク血症や管理困難な慢性低タンパク血症に使用される。

遠心分離器:試験管内部の血液に斥力を掛けることにより、
            赤血球や白血球、血小板や血しょうに分離させる。

オピオイド:エルゴタミン製剤の一つで、強い鎮痛作用を持っている。
            強い鎮痛作用を持っているが、麻薬と比べて習慣性、耽溺性は少ない。
            しかし、連用すると依存症や幻覚、錯乱などを引き起こす。

オペ室:手術室の俗称。

開始輸液:欠乏量と維持量、それに予測喪失量を
          加えた電解質輸液剤を、順番を踏んで投与する。

加熱ヒトアルブミン:血液中の血液凝固因子やアルブミンが不足している時に使用される。

顆粒球:血液中の白血球が不足した際に使用される。

血液凝固因子:血が無闇に外に流出しない様にする因子。

血液製剤:血液凝固因子製剤の略。
          種類は多数あるが、これを使うと輸血の安全性を高めることが出来る。

血小板:空気に触れると固まる物質。これで血管中の穴をふさぐ。

ソフトバッグ:塩化ビニルで出来た輸液用の容器。
              ガラス瓶容器に比べて軽く、破損の心配が少ないのが特徴。

トロンビン:血液凝固促進剤のトロンビン製剤の商品名。
            その名の通り、出血がひどい時に血が固まりやすくさせる。

MAP:濃厚赤血球の略で、血液中の赤血球が不足している時に使用される。

輸液:経口摂取できないか不良の時に、水分や電解質の補給、血液循環量の維持、
      あるいは、体内の栄養の維持などを目的として行われる。

リンゲル:リンゲル液の略称。英国の医学者リンガーの名にちなむ。
          中身はただの食塩水で、体液の代用として輸液の時に使われる。

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ども、久しぶりの川村飛翔です。
HDDがクラッシュこいて何も出来なかったここ最近・・・(涙)
大分時間も空いたようなので、前回の手直しをした
マルチライダーをお届けします。
お昼ごろには序章の後編もあがってると思います。
では、また数時間後に御会いしましょう。
溜まってるレスや感想もその時に・・・・・・・。


>まさた館長様
図書館に乗せるときはこちらのほうを乗せてください
タイトルの修正版と言う文字は消去してください
よろしくお願いします

http://kobe.cool.ne.jp/khrj/