ちいさな兵隊さん 前編  投稿者:くのひち・トム


 お暇なら読んでね(笑)
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 ――気がつけば、いつも走っている。

 実際、わたしは歩いているよりは走っていることのほうが多いし、走らざるを得ない
状況なのも確かだと思う。でも、わたしが走るのが好きというのもホントウのことだと
思う。

 家3軒分くらい――30メートル弱くらい――先の信号が青に変わった。

 広い道路を横切るその横断歩道は、歩行者用の信号が青になっている時間が異常に短
いことで有名だった。歩道の手前で、青になって渡りはじめても反対側に歩いて辿り着
くころには赤になっているというくらいだ。

 お年寄りの人はいったいどうしているのだろう?

 そう思って以前観察していたところ、お年寄りの人はとくに信号の色にかかわらず、
渡りたいときに渡りたい場所を渡っているということを発見した。そして、そんな渡り
方をしているのはなにもお年寄りの人だけでなく、若い人も男の人も女の人も主婦もサ
ラリーマンも学生も同じようにしていることに気がついた。

 そのことを、とあることで知り合った友達――この人もわりとまわりから浮き気味だ
ったりする――に言うと、
『そないなことあたりまえやん。青信号になるのを待っとったら、日が暮れてしまうわ』
 そんな身も蓋もない答えが返ってきた。わたしはそれもそうかと思ったけど、自分だ
けはその信号を守ろうとそのとき誓ったのだった。

 問題の横断歩道にさしかかる。歩行者用信号はすでに点滅している。

 わたしだって信号無視をする。でも、この信号機だけは特別だった。わたしはこの信
号機に妙な、自分でも形容しがたい親近感を抱いていた。はっきり言ってあまり役に立
っていない信号機。それでも、わたしが信号を守ることでこの子に伝えてあげたいと思
っている。たとえ、それがわたしの一人相撲であるとわかっていても。

 ――ここにいてもいいよ。

 風を切る音が、耳の中をゴウゴウとかき回す。わたしは、走っているときが好きだ。
そして、走りながらモノを考えるのも。
 ……あれ? だからよくぶつかるのかしら?

 どすん。ずしゃあああぁぁぁ…。

 わたしの学習効果もむなしく、ぶつかってよろけた身体はコンクリートの上に投げ出
された。ああ、制服が擦り切れちゃう! そんなことを思いながら、次の瞬間には何事
もなかったように立ち上がり、
「ごめんなさい! わたしの不注意でした!」
まだ、見ぬ相手に謝っていた。
 以前、同じような状況で謝った後、顔を上げるとペコちゃんだったりヤクザの人だっ
たりしたことがあったっけ。ペコちゃんのときは恥ずかしかったし、ヤクザの人のとき
は怖かったので、今回は違いますように――――

 ――と思いながら顔を上げる。


「お怪我はないですかな?」
 目の前の長身のおじいさんは、そう言ってわたしを見た。
「はい」
 わたしがそう答えても、おじいさんは眉ひとつ動かさずこちらを見ていた。


「なぜ、そんなに嬉しそうな顔をしておるのか?」
 最初、わたしはその言葉が、なにかわたしの知らない違う人に向けられたもののよう
に感じられた。
「あの…」
「人にぶつかっておいて笑うというのは失礼ではないですかな?」
「あ…」
 そのときになって自分が、笑っていることに気がついた。
 なぜ、笑っているのだろう? 理由が思い付かない。わたしは理由もなく笑うような
オメデタイ人だったのかしら?

「……まあ、ワタクシの干渉することでもないですな」
「ま、待ってください!」
 背中を向けふたたび群集の中に溶け込もうとしているおじいさんに向かって、わたし
は大声を張り上げていた。
「う、嬉しかったんです!」
「――ん?」
「あの…わたし、そそっかしくて人によくぶつかるんですけど…大抵睨まれるか、愛想
笑いをされるだけで……その……あんな暖かい言葉をかけてもらったこと初めてだった
ので……」
 一気に喋っていた。自分でも何を言っているかよくわからなかった。

「ふむ、そういうわけでしたか。この老いぼれでも、人様の役に立つことがあるようで
すな」
「そんな、老いぼれだなんて…おじいさん、格好いいと思います」
「――かーかっかっか、お世辞とはいえ有り難く受け取っておきましょうぞ」
 おじいさんは、そのとき初めて顔を歪ませて笑った。歪ませたというよりは、いきな
り大口が現れたような感じの笑い方だった。
「ところで、何をそんなに急いでおられたのかな? お嬢さん」

「――え、ええーと理緒です。雛山理緒! …じゃなくて、バイトの時間なんです!
でも、信号は守らないといけないし……えと、えと……」
「これは失礼、無理に引き止めてしまい申し訳ない。……しかし、その…制服でバイト
とは?」
「ああ、それはですね、家の事情がありまして…」
 嬉しさと恥ずかしさで舞い上がりながら、その場で駆け足をする。これじゃあ、まる
で話を早く打ち切りたいみたいじゃない!?
「左様ですか。これは重ねて失礼致しました。それではいってらっしゃいませ」
 おじいさんは、少し真剣な表情をするとすごく丁寧な感じでわたしに頭を下げた。
「――い、いえ、こちらこそ、そ、それでは行ってきます!」

 わたしは丁寧にお辞儀をするおじいさんに釣られて、同じように頭を下げた。横断歩
道の前で、お辞儀し合う老人と女子学生の姿はなんて奇妙な光景だったでしょう?
 そして、わたしは走り出し――たけど、立ち止まり、振り返り、もう一度、おじいさ
んを目で追った。

「あのー、おじいさんのお名前教えていただけませんかー?」
 道路を挟んだ向こう、その銀髪の後頭部に向かってわたしは声を掛けた。
 くるっ、と振り向いたおじいさんは一旦口を大きく開けたけれど躊躇して、そして、
「セバスチャン。セバスチャンでございます!」
 と大きな声で叫んだ。

 わたしはこのときほど、後悔したことはなかったと思う。あんな恥ずかしい名前を、
大声で叫ばれることもショックだったけれど、明らかに本名でない名前をあの誠実そう
な紳士が答えたことのほうがダメージが大きかった。

 結局、ばかにされたんだ。
 そのときのわたしはそう思っていた。

 それが、わたし――雛山理緒とセバスチャンさんの出会いだった。


『ちいさな兵隊さん』


 ――秋。味覚の秋。食欲の秋。
 放課後、中庭に通じる渡り廊下を埋め尽くすほどの枯れ葉を、竹ぼうきで掃きながら
わたしはさつまいもでもあれば最高に幸せなのになどと考えていた。

 ずささささ…

「ひっ!? なっ、なに?」
 すぐ近くの茂みをなにかが、這っていくような音がした。わたしにはそれは、大きな
犬もしくは熊のように思えた。後から考えると、そんなものがいるはずがないのだけれ
ど…。
「き、き、キャ―――!!」

 バシッ、バシッ、バシッ…。
 ほうきを振り回して、追い払う。

「くっ、ぐぐ、おのれ、なにをするかあああぁぁぁ―――!! 喝!!!」
「ひいいいぃぃぃ!!」
 茂みの中の影が突然大きくなったかと思うと、襲い掛かってきて――

 わたしは視界が白く霞んでいくのを感じていた。

 …まさか自分が食料になるなんて……こんど生まれ変わったらゼッタイ熊鍋を食べて
やる………そう思った。

 ・
 ・
 ・

 電灯が見える。

 うちの電灯も随分立派になったものね。

 ――そうか、お母ちゃん元気になったんだね。

 ねえ、お母ちゃん。わたし、恋をしてもいい?


「…………」
 気がつかれましたか?
 確かにそう聞こえた。綺麗な黒髪が印象的な女の人が、わたしを覗き込んでいた。
「あ……」
 来栖川先輩…だ。校内で知らない人はいないんじゃないかというほどの有名人が、何
故わたしの枕元に!?
「えと……こんにちは」
「……」
 こんにちは、と先輩も答えた。
「……えと」
 う〜ん、話すことがない。じゃなくて、この状況の説明を訊かないと。
「…………」
「えっ? どうしてそんなに悲しい顔をしているのか…ですか? それはその…分不相
応な夢を持っちゃったからかな……なんて…はは」
「…………」
 夢は大切です。彼女はそう言った。
 その言葉には、妙に説得力があった。彼女のぼんやりとした目が、わたしを見ている。

 夢?

 来栖川先輩のような綺麗で、お金持ちで、何不自由のない暮らしをしている人の夢っ
てどんなことなんだろう? わたしは純粋に知りたかった。
「先輩、あの……先輩の夢ってどんなことですか? きっとわたしには想像もつかない
ことなのですよね。あっ、でも、わたしあんまり難しいことはわからないから、聞いて
も無駄だったりして…」
「…………」
 わたしの予想に反して、来栖川先輩の言葉はとてもシンプルだった。

 友達をたくさんつくることです。

 と。

「…………」
 一瞬、言葉を失った。
 わたしはこの場所からいますぐ逃げ出したい衝動に駆られた。
 なにか自分のことを言われているような気がしていた。
 バイトに明け暮れているわたしには、友達と呼べる人は少なかったから。
 ――ん…!?
「あ、バイト!!!!!」
 すっかり忘れていた。わたしこんなことしてる暇なんてないんだ。
「せ、先輩、今何時ですか?」
「……」
「えぇ!? 6時…くらい!? いけない、大遅刻…って、次のバイトにも間に合わな
い!! …でででで、電話ありますか?」
 急いでベッドから飛び出す。
「――痛っ!!」
 左足を踏み出したところで激痛が走り、前のめりに倒れる。でも。わたしの身体は倒
れることなく、大きな手で受け止められていた。

「大丈夫でございますか? 雛山さま」
 顔を上げたわたしを見下ろしていたのは、いつかのおじいさんだった。確か、セバス
チャンなんて変な名前を騙った…。
「…………」
「えっ? セバスチャンがご迷惑をかけましたって? いえ、あの…わたし………って、
セバスチャンって本名だったんですか――!?」
「いえ、愛のニックネームです。芹香お嬢様に付けていただきました。この名前で呼ば
れると幸せになれるそうです」
 真顔で、おじいさん……いえ、セバスチャンさんはそう言った。
 金持ちのすることはよくわからない。
「それで、あのわたしなんでここに――」
「――学校では大変失礼いたしました。ワタクシもつい大声を張り上げてしまいまして。
しかし、まさか失神なされてしまうとは…しかも足首ねんざという怪我までさせてしま
い……このセバスチャン、腹を掻っ捌く覚悟でございます!」
「……では、あの熊は――おじいさん!?」
「セバスチャンでございます」
「はあ……じゃなくて、電話、電話貸してください! バイト先に連絡しないと! あ
と、家にはどうしよ…」

「…………」
 ふっ、と背中に手が当てられる感触がする。来栖川先輩が、わたしの後ろに立ってい
る。
「えぇ!? 良太さんなら心配いらないって? なななな、なんで先輩が良太を!?」
「あの、大変差し出がましいとは思ったのですが、バイト先の方にも事情をお話してし
ばらくお休みを頂けるようにと話を通しておきました」
 セバスチャン…さんが、恭しくそう言った。


「ぅぅぅうううう……ぐすん、ひっくひっく…ううぅぅぅぅ…」
 わたしは唸った。混乱して、そして泣いていた。無性に悲しかった。この二人が善意
でそうしてくれるのがわかったから。だから、余計に悲しかった。わたしがいままで、
頑張ってきたことのすべてが無意味になっていくような気がしていた。

「やや! これはいったいどうしたものか? どうかお気を確かに!」
 セバスチャンさんが、困ったような怒っているような顔をして困っていた。

 なでなでなでなで…。
 来栖川先輩が、わたしの頭を撫でている。先輩もやはり困った顔をしていた。

 もっと二人を困らせたい。そのときのわたしは、まるで駄駄っ子のようにそんなこと
を考えていた。
 自分の存在の無意味さを消し去るために、誰かの手が必要だった。
 安心できる場所がほしかった。
 誰かに言ってほしかった。

 ――ここにいてもいいよ、と。

「このセバスチャン、何でもしますからどうか泣き止んでくださいませ」
「ホント?」
「ワタクシは嘘は申しません」
「…じゃあ、わたしの家来になってください」
「……家来と申されましたか? 芹香お嬢様、よろしいでしょうか?」
 こくこく。
「…では、今日からワタクシは雛山様の家来にございます」

 ――あのとき、自分でもなんであんなことを言ったのかわからない。
 でも、わたしはもうそのときあの二人を好きになっていたのだと思う。