おもちゃははこをとびだして 投稿者:ギャラ 投稿日:11月3日(土)22時48分



 朝、目が覚めると、ものが記憶とは違った場所にある。
 ふと気がつくと、大切にしていたはずのものが奇妙に薄汚れている。

 あなたは、そんな経験をしたことはないだろうか。



 これは、ただそれだけの話である。

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(寂しいか)
(寂しいよ)
「……ん」
 その夜、奇妙な寝苦しさを感じてなかなか寝付けずにいた泰久は、耳元で囁き声を
聞いたような気がして、目を覚ました。
「結花かぁ……?」
 たしか、今夜はリアンたちのお別れ会だとか言っていたが……
 そんな事を朧げに思い出しながら、のっそりと身を起こした。
 返事は、ない。
 蛍光塗料でほのかに光る時計の針は、深夜零時を指している。
 灯りの消えた家の中はしんと静まりかえり、まるで物音もしなかった。
 だが、誰かがいる。
 自分でも奇妙だが、その実感が泰久にはあった。
「誰だい?」
 穏やかに闇の中に声をかける。
 恐ろしいだとか、泥棒かもしれないだとかいった懸念はなかった。
 その気配がここにいることが、とても自然に思える。何故か、そんな心持ちがして
いた。
 やはり、返事はない。
 だが、まるでその代わりであるかのように、何年も前に健吾から聞いた言葉が耳に
甦ってきた。
『なあ、泰久。盆暮れってのはな、俺たちのもんじゃないんだよ。鬼とか、神とか、
 ホトケさまとか……まあ呼び方は何でもいいんだが、そういうもの達のための
 時間なんだ。少なくとも、俺はそう信じてる』
 確かあれは、暮れになると店の中にお供え物を並べる健吾の癖をからかった時の
言葉だっただろうか。
 いつもなら気にもとめないはずの言葉だったが、今夜ばかりは何故か無性に気に
なった。
 泰久は黙ってベッドから降りると、冷蔵庫から作り置きのサラダを取り出した。
 それを手にしたまま、部屋の中を見回して少し考え込む。
 迷った挙げ句、机の上のカメラの前に皿を置いて、再びベッドに潜り込んだ。
「何をやってるんだろうな……」
 苦笑じみた嘆息を残して、泰久の意識は一気に眠りの中に落ち込んでいった。
 今度こそ、ぐっすりと眠れそうな気がした。

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 酷く美しく、酷く儚い光景であった。
 闇に包まれた公園、そのただ中で、二人の少女が淡い光に包まれて立っている。
 いっそ冷たい光ならば救われただろうか。
 だが、その光はどこまでも暖かく、だからこそどこまでも哀れを誘う光景であった。
「……少しばかり遅れたか」
 そして、その光からほど近い闇の中。
 ざわざわと葉を鳴らす柿の木の枝に、腰掛ける二人の娘たちがいた。
「だが、まだ間に合うな」
 一人は、白い肌。
「……姉さま……?」
 そしていま一人は、浅黒い肌。
 似通った顔立ちをしていながら、対照的な肌の色の少女たちだった。だが、どちらも
白い着物によく映えていた。
「うむ」
 言葉少なに頷いて、白い肌の娘が、黒い肌の娘の方を抱き寄せる。
「健太郎殿らには恩義がある。恩は返さねば……」
 呟きかけて、
「……いや、そうではないな」
「?」
 首を傾げる黒肌の娘に、静かに微笑みかけた。
「寂しい思いはしない方がいい……誰であれ、な」
「はいっ」
 応えて、黒肌の娘も笑みを浮かべた。
 見ている方が嬉しくなるような、柔らかい、いい笑顔だった。
「うむ」
 満足そうに、白肌の娘が目を細める。その頭上で、さわさわと柿の葉が鳴った。
 苛立たしげな音に、娘は顔を仰向けた。
「――ああ、そうだな。そろそろ始めようか」
 何もない虚空に語りかける。
 余人から見れば正気の沙汰ではないその仕草を、二人の娘は平然と受け入れている。
 そして、それが、彼女らにはよく似合った。
 まるで、それが当然であるかのように。
「さて、各々方――異国の客人に、わたしたちの流儀を見せてやろうではないか」
 夢見るように空を見上げ、白い娘が言葉を紡ぐ。
「祈りが力を呼ぶことを。祈りは人の子だけのものではないことを――」
 透き通った声が、晴れ渡った夜空に溶けてゆく。
 けして大きくはない声。
 だが、それが皆に届いたことを、娘は確かに『知って』いた。
 今夜は、年の変わりゆくこの日こそは、紛れもなく彼女たちの世界であったから。
 娘の袖を、黒い娘が強く掴む。
 その頭上で柿の葉が、今度は満足げにさらさらと鳴っていた。

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 かた、かた、かた。
 かた、かた、かた。

(寂しいな)
(寂しいね)

 から、から、から。
 から、から、から。

(悲しいか)
(悲しいね)

 さら、さら、さら。
 さら、さら、さら。

(あわれかな)
(あわれだね)

 かた、かた、かた。
 かた、かた、かた。

 静まりかえった店の棚で。
 揺れてもいないのに、無銘の刀が鳴っていた。

 から、から、から。
 から、から、から。

 誰もいない部屋の中で。
 触れもしないのに、天球儀が廻っていた。

 さら、さら、さら。
 さら、さら、さら。

 人気のない公園で。
 風もないのに、柿の木の枝が揺れていた。

(恩は返さねばなるまいよ)
(友は助けねばなるまいよ)
(愛に報いねばまるまいよ)

(願うのか)
(願おうか)
(願おうよ)

(祈ろうよ)
(祈ろうか)
(祈ろうて)

 眠りについた街の中。
 人影の絶えた夜の中に、静かな声が響いていた。
 音にならない声だけが、誰の耳にも届かぬままに。
 時に朗々と。
 時にしめやかに。
 その日、声は夜を満たしていた。
 誰一人として、気づく人もないうちに。

 かた、かた、かた。

 から、から、から。

 さら、さら、さら。

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 酷く美しく、酷く儚い。そんな光景だった。
 公園のただ中に二人の少女が立ち、その周りを幾つもの光が取り巻いている。闇を
遠ざけるようなその光は、いっそ幻想的でさえあった。
 その光が暖かいことが、儚さを一層際だたせていた。もしも冷たい光でさえあった
なら、それは有り触れた光景となり得たかもしれない。だが、現実に光は暖かく、
その優しさが、却って少女らを物哀しいものと見せていた。
「Nine……Louffe……Zhart……」
 その光景を目に拠らず眺めながら、一人の老爺が呪を紡いでいた。
 少女たちの立つ公園から、遙か空間を隔てた彼方。グエンディーナ王宮の一室に立つ
その老爺は、人から前王と呼ばれる存在であった。
(思ったより、やりよるわ)
 少女たち――スフィーとリアンを取り巻く光にも似た燐光が、皺だらけの笑顔を
照らし出す。
 彼の孫たちは、この半年でまた腕を上げたようだった。
 だが、まだ青い。
『Kroz……Ji……Hanam……』
 額に汗を浮かべて、スフィーが、リアンが、呪文を唱えている。
 いつの間にかその横に一人の老人が加わっていたが、彼は気にも止めなかった。
 彼の力は、孫たちを遙かに凌駕している。
 リアンの必死の表情に僅かに心が痛んだが、彼はそれを押し殺した。
 残酷であることは分かっている。だが、孫を失いたくはなかった。
 随分な年になってから生まれた末孫である。可愛くないはずがなかった。
(年をとると、寂しい思いはしたくなくなるでな……)
 魔力の均衡は、崩れかかっている。あと僅かでもこちらに流れが傾けば、孫たちの
抵抗もそれで潰えるだろう。
 その最後の一押しをするために、息を吸い込んだ。
 その時、だった。

(祈れ)

 声が聞こえた。

(思いは届くか)
(思いは届くさ)
(思いは届くよ)

 小さな、囁くような声だった。
 そのくせ、はっきりと心に届く声だった。

(祈りは力に通じよう)
(思いは神にも届くから)
(願いで世界は書き変わる)

 深い年輪を感じさせる声。
 暖かくもなく、冷たくもなく、心に染み込んでくるような声。
 その声が幾つも、リアンたちを取り巻いているのが分かった。
(これは……)
 不意に、何年も前、孫と戯れに交わした会話が耳に甦った。
『古い物には魔が宿る――と言うてな。スフィーもあちらの世界に行ったら、そんな魔に
 会うこともあるかもしれんの……なかなか面白い連中じゃからな』
(そうか。お前たちか)
 口で呪を紡ぎ続けながら、そっと心に語りかけた。
 それで通じるのだと、何故か思えた。
『Jedem……Kras……Von……』
 孫たちの表情に、相変わらず余裕の色はない。 その周りで見守る友人たちも、目を
閉じたまま一心に祈っている。
 その様子を見れば、彼女らにこの声が聞こえていないのは明らかだった。

(祈ろう)
(望もう)
(願おう)

(一心に)
(ひたすらに)
(ただ祈りを)

「リアン、頑張れ――!」

 健太郎の叫びが聞こえる。
 呪文は既に最後の節に入っている。
 結びとなる言葉を唱える寸前になって、
(分かったよ。好きにさせようて)
 老爺は、諦めたように力を抜いた。

『Eet……Kafe……Noom!』

 スフィーが、叫ぶ。
 リアンが、叫ぶ。
 源之助が、叫ぶ。

 そして。
 それら全てを圧するように、音にならない叫びが、響きわたった。
 この世の誰の耳にも、届かない叫びが。

 ただ一人その声を聞いた異界の老人は、古い友人たちに敬意を表し、黙祷して静かに
孫の幸せを祈った。

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「……なあ、リアン?」
 骨董店の正月は短い。
 一月三日の早朝。
 五月雨堂は、既に開店準備に入っていた。
「はい?」
 棚の整理をしていた健太郎に呼ばれて、リアンが奥から顔を出す。
「なんか、店の骨董がやけにくたびれて見えるんだけど……どう思う?」
「そうですね……ここしばらく、慌ただしかったですから、私たちの疲れが移ったのかも
 しれませんね」
 そう言ってリアンは穏やかに笑った。
「ははは……そうかもな」
「それより、健太郎さん。今日の朝ご飯、何か食べたい物ってありますか?」
「ん?……そうだなぁ……」
 軽く笑いながら、健太郎が奥へと向かう。
 そうして、その話はそれきり忘れられた。

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 朝、目が覚めると、ものが記憶とは違った場所にある。
 ふと気がつくと、大切にしていたはずのものが奇妙に薄汚れている。

 あなたは、そんな経験をしたことはないだろうか。



 これは、ただそれだけの話なのである。




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