痕拾遺録第十九話「鬼が渇いて」 投稿者:ギャラ 投稿日:5月29日(火)13時24分



 何の前触れもない出来事であった。
 ぐらり――
 突然に、大地が揺れた。否、跳ね上がった。
(地震――?)
 そう思う間にも、身体が宙に浮き上がる。咄嗟に身体の平衡をとって右足
を下ろした。
その下で、脆くなっていた路肩が崩れた。足の引きずり込まれる下に、黒々
とした暗闇が口を開けていた。
 伸ばした右手が、木の枝をかすめて空を掴んだ。
「――ぁ」
 掠れるような音が、千鶴の喉から滑り出た。切り立った斜面の遙か下、
ゆうに二十メートルは彼方の地面に向けて、その身体が落ちていく。
 朱く染まった千鶴の瞳が、絶望と驚愕に大きく見開かれた。
 ――嘘。
 その一文字だけが脳裏に浮かんだ。続けて、梓の、初音の、耕一の、楓の
顔が浮かび上がった。四つの顔の中で、楓だけが泣いていた。
(嘘――)
 墜落の前兆の、身体が重力の顎から解き放たれた浮遊感が身を包む。
 それが落下感に置き換わる瞬間、千鶴の右手首を掴む手があった。
「――死ぬには早い、生きるに遅い――」
 唄うように抑揚をつけた声が耳を叩いた。見上げる千鶴の視線の先に、
一鬼のエルクゥが立っていた。どろりと濁った目をしたエルクゥだった。
 千鶴の顔に、呆然とした色が浮かぶ。
 何故、敵である筈の彼らが自分を助けるのか。
 それは分からなかったが、確かに千鶴はそのエルクゥによって助けられて
いた。もしこの手が伸びてこなければ、今頃は命を落としている可能性も
十分にあったのだ。
 敵と承知の上で手を差し延べたその行為は、陰惨な戦いの中で、微かな
潤いとして千鶴の心に届いた。
「あ……ありがとうございます」
 千鶴が微笑んで礼を述べた。
 それを受けて、エルクゥも微笑んだ。つかみ所のない笑みだった。
「ならば、こうしょか――」
 その微笑みを浮かべたまま、エルクゥは無造作に腕を振った。左手の先に
いつの間にか爪が伸びていた。
 その爪は、真っ直ぐに千鶴の目玉を目指していた。
 飛び散った血は真っ赤な――人間と変わりない色であった。



         痕拾遺録第十九話「鬼が渇いて」



 じわり、と鉄錆のような血の匂いが口中に広がっていた。唾を吐き捨て
たくなる衝動を抑えて、千鶴は思い切り勢いをつけて右腕を引き寄せた。
 エルクゥの身体が前のめりに揺らぐ。その襟首を左手で掴んで、足を跳ね
上げた。腕と肩を支点に半円を描いて身体が舞った。膝が頬骨を存分に打ち
抜く感触を味わいながら、千鶴は道の上に身体を投げ出した。
 倒れるエルクゥの身体を飛び越えて、道の中央に膝をつく。その時に
なって、ようやく口中の物を吐き出す余裕が出来た。
 吐き出された指は、未だ噛み千切られた根元から血を滴らせていた。
「……何のつもりですか?」
 冷たい声と視線で、千鶴が呟いた。もうその面には、微笑の名残も見出す
ことは出来ない。氷のような鋭さが、その顔を覆い尽くしている。
 その鋭さの幾分かは、自分自身に向けられたものであった。
(あんな事で油断するなんて……)
 胃の底に、溶岩の様な熱くどろどろとしたものが溜まっている気分だった。
自分の油断は、妹たちをも巻き込みかねない。それを忘れて、清々しささえ
感じていた自分が許せなかった。
(あの子たちに、また同じ想いをさせたいの……?)
 噛みしめられた奥歯の軋る音が、千鶴の口から漏れた。
 その音に反応してか、焦点の狂った瞳で人差し指を噛み切られた左手を
見ていたエルクゥが、千鶴に目を向けた。
「この世の名残、星の名残――」
 ふらり、とした形容のしようがない仕草で口を開く。
「我も死なんと願いおり――」
 その口から出てきたのは、意味をなさない奇妙な抑揚の言葉だけであった。
(……?)
 それを耳にした千鶴は、ふと大学時代に聞いた長唄の韻律を連想していた。
その連想が、さらに昔の記憶に繋がる。恋、狂気、唄……そんな断片的な
イメージが脳裏をよぎった。
 そして、不意に思い出した。
「……”黒”?」
 ふなり、と満足げに微笑んでエルクゥが頷いた。
 ”黒”。
 もちろん本来の名前ではない。名前を失くし、レザムの歴史からも忘れ
去られた、一鬼のエルクゥに与えられた仮の呼び名であった。彼は元来、
感応力に優れ将来を嘱望されていたエルクゥであった。そのままゆけば、
本星で要職に就くに違いない、と噂されるほどの傑物であった。
 だが、その運命は一夜にして失われた。
 ある星での狩猟の際、彼はよりにもよってその地の原住種族の娘と恋に
落ちてしまったのだ。
 それは、エディフェルと同じ運命であったと言える。だが、ただ一つ
違っていたのは、彼はエディフェルよりも上位にあった――その一団の長を
務めていたエルクゥであり、一族の誇りの意味を十分に理解していたことで
あった。
 三日三晩悩み苦しみ、そして彼は自らの手で想い人を『狩る』決断を
下した。
 娘は容易く死んだ。鬼の姿をとった彼に犯され、その爪で首をねじ切られて。
 だが、死んだのは娘だけではなかった。彼の心もまた、その時に死んだのだ。
 狂った彼は、その時同じヨークに乗り合わせていた同族の半分を殺し、
捕らえられてレザムに送り返された。かつて無い惨事にレザムの長老らは
恐れ、彼の名を永遠にその歴史の上から消し去ることを決めた。
 こうして、狂鬼”黒”は王城の地下に幽閉されることになった。
 精神の回復を祈って幾度か殺されたこともあったと云うが、どうした理由
か、彼は殺される度にエルクゥとしても異例の速さで転生し、狂ったまま
再びこの世に戻り続けた。やがて彼を殺すことは諦められ、転生の度に寿命
が尽きるまで幽閉され続けることになっていた。
 それが、この星に連れてこられていたのだ。
「そんなに、私たちを殺したいの……?」
「――死にたや、死にたや、死ねぬ身も――」
 くつくつ、と黒が笑う。
「遂に死ぬかと夢を見た――」
 千鶴からあっさりと目を離し、手近の樹の一本に歩み寄った。その根元
辺りに、何かが黒々と横たわっている。黒はそれを抱え、天に掲げるかの
ように両手で高く捧げ持った。
 木々の隙間からこぼれた月光が、力無く垂れ下がった白いうなじを映し
出した。
「――楓っ!?」
「鏡を壊せば、我も死ね――」
 叫ぶ千鶴に構わず、黒はいっそ愛しげな目で楓の身体を舐めるように
眺めた。その間も、楓はまったく動きを見せない。瞼を閉じて小さく眉を
しかめ、苦悶するような表情で持ち上げられるにまかせていた。
 千鶴が立ち上がり、大きく一歩踏み寄った。
「あなた、楓に何を――!」
 足の下で、踏み砕かれた小石が大きな音を立てた。並の人間ならば金縛り
どころかそのまま気死しかねない千鶴の殺気を浴びて、だが黒は何の感慨も
見せなかった。
 ゆっくりと、今度は身体の前で抱きかかえるように楓の身体を持ち替えて、
その耳朶に舌を這わせる。
「これは、我――我は、これ」
 赤い舌が不気味にちろちろと蠢く。
 その時になってようやく、千鶴は、楓の顔が血で汚れていることに気が
ついた。
「我は狂った、これは狂わぬ――我は死なぬ、なればこれは死ね――」
 茫洋とした瞳の中に、何かが赤々と灯りだしていた。焦点の歪んだ瞳が
段々と金色に染まっていく。その金色は、千鶴の目には何故か赤みがかって
見えた。
 不吉な金紅色が、深い意志を湛えていく。
「そう――我は狂った。彼女は死んだ。なのに何故――何故、貴様は生き
 ようとする!?」
 復讐の色が瞳を染める。その瞳は最早、狂った濁りに覆われてはいなかった。
もしも此処に初音がいたなら、驚愕の声を上げたであろう。
 その目の色は、数百年の昔、エルクゥ達を――ダリエリを前にした次郎衛門
の目と寸分違わぬ黒い炎に彩られていた。



 月の光の中に、酷く陰惨な光景が広がっていた。
 人が一人、体を伸ばして楽に横たわれる程の大きさの穴が、大地に穿たれて
いる。その底に、骸が一つ、仰向けに横たわっていた。
 首のない骸であった。
 両手は胸の前で軽く組み合わされ、丁度その手に抱かれる様な形で生首が
胸の上に置かれていた。その目は、首を落とされてなお、眼前にある何かを
鋭く睨み付けていた。
 目は、閉じられていない。彼女を埋葬した者は、そうすべきでないと信じて
いたのだった。
「どうしたもんだろうな?」
 その穴の縁――骸を見下ろす位置に立って、耕一が呟いた。
 自身の身長ほどもありそうな、巨大な刀を手にしている。刀と呼ぶよりも
大鉈と呼んだ方がしっくりくる様な、厚重ねの豪刀である。
 その骸が――”紫”と呼ばれた鬼が振るっていた、鬼斬りの刀であった。
 僅か四度の斬撃で地を砕き、墓穴を造ってのけた刀であった。
「何がだい?」
 その隣で、これも小さく梓が答えた。
 傷を負った左脚に荒く布を巻き付け、折り取った樹の枝を杖代わりに体を
支えている。半ばまで断ち切られた脚は、暫く使い物になりそうもない。
「あたしを置いていこうって言うんなら――」
 さり気ない口調だったが、ゆっくりと上げられた顔の中、それだけは汚れて
いない目の光は、耕一を鋭く貫いていた。
「――殺すよ?」
 泥にまみれ、血に汚れ、涙に濡れ。
 それでも梓の顔から、炯々たる美しさが失われることはなかった。或いは、
こうして足掻いている時の方が、彼女は映えるのかもしれなかった。
 困った顔で、耕一が頭を掻いた。
「やっぱり……そう言うよなぁ」
「当たり前でしょうが」
 梓の口から、嘲笑とも苦笑ともつかない音が漏れた。
「ここまで来て置いてかれたんじゃ、あたしの立つ瀬がないってもんだしね」
 だが、そう言う梓に、耕一は目を向けない。顔を逸らしたまま、彼は大きく
溜息をついた。
「まあ、お前がそう言うのは分かってたんだが……」
 言いながら、目だけを後ろに向け、
「どうしたもんかなぁ……」
「……確かに、ね」
 その視線の先にあるものを思って、梓も溜息をついた。
 柏木初音。そして、リネット。
 彼女が黙ってここに残るはずがないことは、目に見えていた。だが、彼女
を連れていきたくないと二人が思っているのも、間違いなく事実であった。
「どうしたもんかなぁ……」
「……確かに、ね」
 耕一が呟き、梓が答える。
 その様子を、初音は、ずっと後ろから眺めていた。声が聞こえるほどに
近くはないが、姿が見えないほどに遠くもない。そんな距離を置いて、初音
は切り株に腰を下ろしていた。
「どうすればいいのかなぁ……」
 膝の上に立てた腕で顎を支え、初音は耕一たちに気づかれないよう、小さく
息を吐いた。
 自分が二人の重荷になっていることは、分かる。
 楓がさらわれ、千鶴が行方知れずとなっているこの状況で、肉体的には
大した力を持たない自分が邪魔にしかならないことは、嫌と言うほど分かって
いる。
 それでもなお、ここで退きたくはなかった。
 もう数百年も前――次郎衛門の手によってエルクゥ達が皆殺しにされた
あの時から、悔やみ続けてきたのだ。あの時、何かをすればよかったと。
何かが出来たのではないかと。
 もしそれを取り戻せるとしたら、今が最後の機会なのに違いなかった。
 初音の目が、僅かに泳いだ。
 骸を沈めた穴の縁へと、視線が動いた。今の彼女の位置からでは、その骸
を見ることは出来ない。穴の縁が彼女の視線を遮り、無惨な死がその目に映る
ことを妨げていた。
 その上に、耕一の背があった。
 耕一の視線は、初音には向けられない。横に立つ梓とともに、穴の底を
真っ直ぐに覗き込んでいた。
 それが――ただその事が、酷く羨ましかった。
 自分は守られ続けてきたのだと、そう思う。
 ありがたいことだと、そうも思う。
 それを重荷と感じるなど、とんでもないことなのだと――そう、思う。
 そう思ってもなお、疎ましさは拭いきれなかった。
 いつから自分は、これほど手前勝手になってしまったのか。
 いつから自分は、姉への感謝を忘れるほどに傲慢になってしまったのか。
 問うまでもないことだと分かっていたが……それでも、初音は己に問わずに
はいられなかった。
 他に時があろうはずもない。あの一夜。耕一とともにヨークの中に潜った
あの時から、自分は変わってしまったのだ。
 ……いっしょになりたいって、そう思うのは、わがままなのかな。
 初音は、切り株の上に背を横たえた。樹の断面に収まってしまうような、
小さな背だ。
 夜空に向かって掲げた手が、月の光に白く映えた。
 あの時初めて、思ったのだ。守られるだけではなく、守る者になりたいと。
それが叶わないなら――せめて、共に戦いたいと。
(だけど……お兄ちゃんは、きっと許してくれない)
 初音の手は、白い。
 それは、姉妹の中でも彼女だけが持つ白さだ。血に染まった千鶴の手とも、
家事に荒れた梓の手とも、細く壊れそうな楓の手とも異なる、無垢の白。
 その手が、酷く疎ましかった。
 ……もし、この手を赤く染めることができたら、その時には――
 初音は、知らない。
 姉妹たちが、そして耕一が、その無垢を救いとしていることを。
 魂を血で染めた罪人が、まだ無垢な者がいるという、たったそれだけの事実
でどれほど救われるのかということを。
 たとえ欺瞞であっても――誰かを救うという目的を信じられれば、人は狂気
から救われるのだということを。
 初音は、知らない。
 だから、初音はただ己の手の白さを悔いていた。
 見上げる空に、いつしか星の光は消えていた。微かに白んできた空の中、ただ
月だけが煌々と輝いている。
(わたしだけが、こうしてる――)
 星は見えない。
 月だけが、西の空にあってただ一つ輝きを放ち続けている。
 その月の下で――初音は独り、渇いていた。



 ざりっ、と砂が鳴った。
 鳴ったのは、千鶴の靴の下にあった砂である。それが鳴ったと見えた瞬間には、
千鶴の体は既に狂鬼の横に跳んでいた。
 爪が、閃いた。
 微塵の容赦も感じられない動きである。いや、事実、千鶴には容赦をかける
目算はまるで無かった。この相手への同情がないと言えば、嘘になる。同族
殺しへの躊躇いがないと言えば、嘘になる。だがそれ以上に、楓を汚した相手
を許すことはできなかった。
 ……その思い一つのために、自分は全てを断ち切ったのだから。
 千鶴の指先から長く伸びた爪が、楓の頬をかすめて狂鬼の眉間に疾りかかる。
 だが、それよりも早く、鬼が動いた。
 楓の体に絡みつかせた腕を、僅かに捻る。それだけの動きで、楓の白い首が
千鶴の爪の進路上に現れた。千鶴の動きが止まる。
 その脇腹に、振り抜かれた狂鬼の脚が深々とめり込んだ。
「かは――!」
 変化していないとは言え、男鬼の蹴りである。千鶴の体は、鞠のように勢い
よく横ざまに吹き飛んだ。飛ばされながら、四つん這いになって勢いを相殺
する。
 その背に、陰にこもった笑い声が浴びせかけられた。
「実を砕けば虚像も消える――これら二つは二身一心」
 愛しげにとさえ言える動きで、腕が楓の体を丹念に撫でまわしている。
 ぎり、と千鶴の歯が鳴った。
「その汚らしい手を、離しなさい――」
 軋るような声が、殺気を孕んで叩きつけられた。だが、鬼には気に留めた
様子も見られない。
 平然と、左手を楓の首の後ろに、右手を胸の間に当てると、
「――試して、みよか」
 鬼の両手に、力が籠もった。瞬間、力を失って項垂れていた楓の口から、
けく、という音が漏れた。
 空手で言う『喝を入れる』のと同じ現象である。
 鬼の腕に抱かれた姿のまま、楓が咳き込み、月明かりに照らされた山道を
見回す。朦朧とした楓の目に千鶴の姿が映った途端、楓が鋭く息を呑んだ。
「姉さん――!?」
 呼びかけられた途端、ぞくりと来た。
 見開かれた楓の瞳の中に、下半面を血で染めた自分の姿が映っている。その
姿が、やけに禍々しく思えた。その形相が何故か、大学時代に見た鬼子母神の
絵姿と重なって見えた。
 己が子を育てるために人の子を獲って喰らう、と言われた鬼子母神。その
末路は、たしか――
「エディフェルッ!」
 ――己が子を、失う。
 確信もないまま、駆け出した。
 警戒も、守りも、全て忘れてただ駆ける。彼我の距離はわずか数メートル。
一秒とかからない距離のはずだった。
 ――だが、その僅かな時間の中で、千鶴は確かに見た。
 鬼の顔に、酷く凄惨な笑みが浮かんだ。二本の腕が楓の体を掴み、横合いに
強く投げ上げる。
 千鶴の手が、楓に伸びる。だが、それは僅かに間に合わない。限界まで
伸ばされた指先は服の袖口を掴み、だが袖は裂け、楓の体を押し留めるには
及ばない。
 もしも――もしも、楓が手を伸ばしていたなら。千鶴の手は、それを掴む
ことができたかもしれなかった。
 だが、楓はそうしなかった。驚きに見開かれた目が、一瞬の時を置いて、
諦めを含んで静かに閉ざされる。
 目を閉じたまま、楓の体は月明かりの中を滑っていく。その先には、崩れた
地盤と、枯れ井戸のように黒々とした深淵が口を開いていた。
 聞こえるはずのない声が、聞こえた。
「ごめん、なさい――」
 届かないと分かっている手を伸ばしながら――千鶴は、振り絞るように何か
を叫んだ。
 叫ばずには、いられなかった。



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