痕拾遺録第十八話「鬼が遺って」 投稿者:ギャラ 投稿日:10月16日(月)21時25分


 レザム皇家にあっては、皇位は長子が存続するものと決まってはおらず、
その代その代で最も優れていると判断された者が次代の皇帝となる。
 一日、皇帝が娘たちを集めて、一つの問いを発したことがあった。
「皇とは何か」
 それだけを告げて、皇帝は口を閉ざした。単純なだけに重い問い――年端
もいかない末娘のリネットでさえ、その質問の重要性を感じ取り、表情を
引き締めた。
 リズエルは、統べる者と答えた。
 エディフェルは、導く者と答えた。
 リネットは、護る者と答えた。
 そして最後に残ったのが、アズエルであった。緊張に顔を強張らせている
姉妹たちの中にあって、独りアズエルの顔にだけは、せせら笑うような微笑
が貼り付いていたと云う。
 その微笑を浮かべたまま、アズエルはいっそ穏やかとさえ言える口調で
答えた。

「皇帝ってのは、昔最強だった殺戮者の末裔。……つまりは、”強い者”だ。
 違うかい?」

 もう何百年も前……アズエル十六歳のときの話である。



        痕拾遺録第十八話「鬼が遺って」



「強い者、か……」
 手の中で弄んでいた小石を投げ捨てて、”白”の名を持つエルクゥは溜息
をついた。ヨークの床面に転がった小石が乾いた音を立てる。小石に見えた
それは、よく見れば石ではなく、何かの骨の欠片に他ならなかった。
 先の話は、レザムでは最早伝承と化しつつある説話の一つである。女性に
は稀な変身能力を持ち、稀代の剛勇と謳われた、伝説の皇女アズエルの勇猛
さを語るエピソードの一つとしてよく知られている。
 彼女自身は、実のところアズエルと直接の面識があるわけではない。数々
の逸話もこれまでは話半分に聞いていたものだが、こうして直に戦う状況と
なってみては、それが事実であったと認めざるを得ない気分になっていた。
「まさか、あたし達がここまで追い詰められるとはね……」
 この星に降りた時、彼女の手勢には彼女自身も含めて九鬼のエルクゥが
いた。それも、ダリエリ救援のために特に選び抜かれた精鋭揃いである。
レザムでも長老格と称されるほどに転生を重ねた”蒼”、大刀の達者であり
裏切りの粛正者として畏れられた”紫”……他の面々も、一人として並の
腕の持ち主などいない筈であった。
 だが、皇家四姉妹の能力は、それを凌駕するほどのものであった。
 航海途上で消息を絶ったこともあってか、ダリエリと四姉妹の話は、伝説
とさえ称されるほどに誇張を重ねてレザムに伝えられていた。
 曰く、ダリエリはレザム史上でも他に類を見ないほどの勇者であった。
 曰く、リズエルは文武両道に長け、鋼の意志力を持つ女傑であった。
 曰く、アズエルに並ぶ強力の持ち主は、女性では誰一人としていなかった。
 曰く、エディフェルの感応力は、エルクゥならざる者の意志すら読みとる
ほどであった。
 曰く、リネットはヨークを己の手足の如く操ることができた……
 ――認めないといけないか。
 ”白”は口の中で呟いた。
 皇家四姉妹は強い。噂が事実であることは、認めざるを得なかった。そう
でなければ、たった六鬼で数に勝る自分たちを圧倒することなど出来る筈も
なかった。
 未だ相手方は一鬼……それも、皇族ですらない従者の類(だと”白”は
考えていた)を失っただけだと言うのに、自分たちは半数以上の仲間を葬り
去られている。こちらの残った面々はほぼ無傷とはいえ、有利とは口が裂け
ても言えない状況に追い込まれていた。
 私情に振り回されて連携を失っていたことを考慮に入れても、四姉妹側の
戦力は端倪すべからざるものがある。”白”の思考は、ようやくその認識に
辿り着いていた。
「……よし」
 愛刀の鍔を鳴らして”白”は立ち上がった。
「”桃”を呼んできて。ここからは、勝手な独り働きの出来る状況じゃない」
 声に応えるように、部屋の隅で空気が僅かに揺れた。漆黒の、喪服のよう
な衣装を身に纏った”黒”が、ほとんど気配も音もなく滑るような動きで
部屋を出ていく。
 それを見送った”白”の背後で、もう一方の出口から何物かが足を引き
ずっているような音が聞こえてきた。
 やがて、荒い息遣いの音がそこに混じり、血臭までもが”白”の許に
届いてきた。耳を澄ませば、ぶつぶつと小さく呪いの文句を呟き続けている
声さえ聞こえてくる。
 へぇ、と”白”の口から感心したような息が漏れた。
「……死んだかと思ってたんだけどね」
「辛うじて、な」
 戸口に男の顔が覗いた。
 だが、それはなんと凄まじい顔であったことか。顔の下半面は血で汚れ、
右の耳からは今も血が僅かずつとは言え流れ続けている。そして、右目に
至っては、落ちくぼんだ眼窩の中に砕けた眼球が辛うじてこぼれずに残って
いる、といった風であった。
 男は、”藍”の名で呼ばれるエルクゥであった。
 前世においてエディフェルらの従兄弟であった彼は、エディフェルの……
いや、柏木楓の眼底割りを受けて倒れた。だが、楓の一撃は確かに眼底骨を
砕き、脳に傷さえ与えたものの、彼を殺すには至らなかったのだ。
 そしてその肩の上には、意識を失った楓の身体が無造作に担ぎ上げられて
いた。
「手土産だ」
 とさっ、と軽い音を立てて、楓の身体が床に放り出された。
 ”白”は答えない。楓の姿を目にした瞬間から、彼女は石と化したかの様
に凝然と立ち尽くしていた。ただその両眼だけが炯々とした光を放ち、放心
しているわけではないことを明らかに伝えていた。
「ェ……ディ……」
 軋るような怨嗟の声が、血の気を失った唇から漏れた。
 ”藍”はその”白”の様子をまるで気にも留めていない。片目を失い、
重傷さえ負った生き物だとは信じられないほど余裕のある動きで、楓の身体
にのしかかった。ワンピースの襟元に、その腕がかかった。
「退いてろ。犯す」
 ”藍”が低く……だが明らかに悦びを込めた声で言った。
 僅か数十分前に、エディフェルの身を案じて涙さえ流した男の所業とは
思えないほどに、昏く血生臭い欲望を感じさせる声だった。
 ”白”はよく知っていた。これが、『エルクゥ』だった。
 ”藍”の爪が、楓のワンピースを胸元から下腹部まで一気に引き裂いた。
 その瞬間、
「エ……ディフェルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッ!!」
 鋭い雄叫びとともに、”白”の刀が鞘走っていた。銀色の光が、一直線に
楓の首を襲う。
 信じられないことが起きたのは、次の瞬間だった。
 楓の首を薙ぐかと見えた”白”の刃を逸らしたのは、咄嗟に突き出された
”藍”の腕だった。その代償に、”藍”の右腕が半ばから切断されて宙に
舞う。
 同時に、残った左腕が”白”の腹を抉ろうと動いていた。だが、それは
翻った刃によって阻まれた。骨ごと肉を裁つ鈍い音が、再び響いた。
 三度目に翻った刀が、今度こそ狙いあやまたずに”藍”の太い首を叩き
斬る。
 ”白”がようやく冷静さを取り戻したのは、そこに至ってであった。
「あ……」
 呆然とした、声とも吐息ともつかない音が発された。
 真っ赤に染まっていた視界が急速に色を取り戻していく。もの言わぬ肉塊
と化した”藍”の姿と、浴びた血で真紅に染まった楓の身体が、その目に
映った。
 頭が痛む。
 まるで、今の一刹那で精魂尽き果てたかの様に、息が荒れていた。
(今、何を……?)
 自分で自分が分からなかった。
 何故、エディフェルを助ける様な真似をしでかしたのか。自分はエディフェル
を憎んでいた筈ではなかったのか。
 エディフェルへの憎悪は、間違いなくある筈だった。
 リズエルも憎い。アズエルも憎い。ニンゲンどもに武器を与えたリネット
は更に憎い。だが、何よりも憎いのはエディフェルであった。ダリエリを
苦悩の底に追い込んだエディフェルへの憎しみは、事実今も胸の底で燻り
続けている。
 それにも関わらずエディフェルを助けた自分が、まるで理解できなかった。
 只、エディフェルを犯そうとする”藍”を見て、凄まじい怒りに駆られた
ことだけは理解できていた。
 足下に転がる”藍”の首が、酷く醜いものの様に見えた。
「エルクゥ……狩猟者、か」
 口の中に苦いものがこみ上げてきた。鉛の塊でも飲み込んだ様な気分
だった。
(自分を抑えられないようじゃ、長の資格はないか)
 ”藍”の血に濡れたままの剣尖を、静かに自分の首に当てた。首の皮が
裂け、白い肌に薄く血が滲む。後は、僅かな力を掛けるだけで、楽になれる
筈だった。
(ダリエリ、あんたは凄かったんだ)
 目を閉じ、一思いに首の血脈を刺し貫こうとした時――『それ』が見えた。
 地獄絵図、と呼ぶ他ない光景であった。広がる大地の上を累々たる骸の山
が埋め尽くしていた。そして、骸の大半は、エルクゥのそれであった。
 その文字通りの屍山血河の中心に、一鬼のエルクゥが屹立していた。
ダリエリであった。ダリエリは、身も世もない叫びを上げて、肺腑を軋り
上げるように泣き続けていた。
 それを見た瞬間、”白”はほとんど恍惚となったと云ってよい。その光景
は一瞬で去っていったが、そこに流れる底知れない哀しさは、”白”の心に
しっかりと灼きつけられていた。身を揉んで泣きながら、それでも膝をつく
まいとするダリエリの姿は、それほど鮮烈な印象を秘めていた。
 知らぬ間に腕から力が抜け、刀身が垂れ下がった。
(死ぬな、と云ってる)
 そう感じた。
 それならば、云っているのはダリエリに違いなかった。妄想だと笑いたく
ば笑え。ダリエリ以外に、自分を生かそうとする者がある筈がなかった。
ましてや、あんな光景を心に送る者が他にいてたまるか。
 嬉しかった。泣きたくなるほど嬉しかった。
 同時に途方もなく重いものが肩にのしかかってきたのが分かったが、それ
さえも喜びを助長するものでしかなかった。
(そうだ。ここの長は、あたしだ)
 死ぬのはいつでも出来る。それよりも、やっておかなければならないこと
がある筈だった。
 足下の”藍”の首に再び目を向けた。憤怒と怨嗟に満ちた眼差しが、今も
宙空をかっとばかりに睨み付けている。
 その視線を悠々として受け止めて、”白”は刀の血を拭い、鞘に納めた。
 戸口の方から、小さな足音が聞こえてくる。転がった首にはそれ以上興味
も示さず、”白”はそちらに歩みだした。
 首は、今や大輪の花の様な華やかさを持って、そこに佇んでいた。
「いつ……死ねるかしらね」
 ほろ苦い笑みが”白”の顔に、浮かんで消えた。



 夢うつつの中で、楓は、自分の周りで起こった全てを、はっきりと目に
焼きつけていた。
 やりきれなかった。
 また、自分が原因で誰かが死んでいく。そのことが、たまらなくやりきれ
なかった。
 これでは前世と同じではないか。
 自分はまた、他人を巻き込んで滅びに導くしかないのか。
 吐き気がした。自分に、世界に、そしてありとあらゆる物全てに、呪いの
言葉を吐きかけてやりたかった。
 『エディフェル』を捨てきれない自分が、醜く思えてならなかった。
(殺して……!)
 楓の意識は、血を吐く思いでその言葉を叫んでいた。
(私が……私のせいでこんな事に……! お願い……誰か、私を殺して……!)
 だが、答える者はない。
 目の前が真っ暗になる程の絶望を感じながら、それでも楓の意識は叫ばず
にはいられなかった。
(私は生きていてはいけない……だから、殺して……!)
 耕一がこれ以上傷つく前に。
 姉たちがこれ以上苦しむ前に。
 初音がこれ以上泣く前に。
 そして……そして、自分が、『柏木楓』が、耕一を愛してしまう前に。
 この想いが、エディフェルのものであるうちに。
(お願い……)
 悲痛な叫びが、聞く者もないまま何処とも知れずに消えていく。
 意識を失ったままの楓の両眼から、涙の筋が静かに流れた。
「……死なせぬよ」
 ヨークの中を歩く”黒”の口から、小さな言葉が漏れた。
「生きて、足掻け」




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