おにのひととせ(後編) 投稿者:ギャラ 投稿日:7月18日(火)11時28分
 頭を金槌で殴られたような衝撃だった。
 不意を衝かれて、男は膝をついていた。その上に、のしかかってくる者が
あった。
「あたしが――送って、やるよっ!」
 首に腕が巻かれた。それが、ぎぅ、と締め上げられる。ごきごきと首の骨が
鳴るのが分かった。
 男の腕が上に伸ばされた。
 自分の頭の上を通って、トモダチの頭を掴んだ。
 髪の短いトモダチだった。
 トモダチは、泣いていた。火傷しそうなくらい、熱い涙だった。
 その頭を割れそうなくらい強く掴んで、思い切り振り下ろした。
 ごきん、と首が鳴った。そこに巻かれた腕も、ごきんと鳴った。ごきんと
鳴って、力を無くして、トモダチの腕が外れた。
 トモダチの頭が男の身体を跳び越えて、地面に向かって落ちていく。
舗装された、アスファルトの固そうな道路だ。
「ひぃはぁぁぁぁぁ!」
 男が、叫んだ。
 男は、笑っていた。
「ははぁっ!」
 トモダチも、叫んだ。
 トモダチは、笑っていた。
 笑ったまま地面に叩きつけられて、ぐしゃりと潰れた。真っ赤な血が
びちびちと飛び散って、命の炎がぼっと燃えた。
 燃えながら、トモダチの足が男の顔に突き刺さっていた。頬骨が砕けて、
潰れた目の玉が顔から飛び出した。
 地面に叩きつけられたトモダチの身体が、高く跳ね上がる。
 それが落ちてくるより早く、次のトモダチが来た。
 髪を一房、ぴんと立てたトモダチだった。
 真正面だった。

 ――るぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっ!!

 男の口から、甲高い叫びが漏れた。
 歓びの声だ。
 はらわたが捩れるような、どうしようもない悦びの声だ。
 その声が終わるより早く、トモダチの拳が口を塞いだ。
 前歯がへし折れる、感触。
 折れた歯から噴き出た血と、歯で切ったトモダチの手から流れた血とが
混じり合って、口の中で、えも言われぬ味わいを作る。
 痛みより強く、悦びが背筋を走った。
 『ぞくぞく』とする。
 嬉しくて嬉しくて我慢が出来なくなったから、歯茎だけでトモダチの手を
くわえた。
 抜けなくなったことに気がついて、トモダチの小さな顔に絶望と――そして
笑みが浮かぶ。
 ――楽しいかい。
 ――俺も楽しいよ。
 声が出せない代わりに、舌でそっと口の中の拳を舐めた。
 トモダチがにっこりと笑う。
 その顔のど真ん中に、男は思い切り拳を叩き込んでいた。
 ぺきり、と乾いた音を立てて、トモダチの細くて可愛らしい首が限界を
越えて折れ曲がった。
 トモダチの拳が、ずるりと男の口から抜けた。唾と血の混じり合った糸が
手と口を繋いで、月の光を受けてきらきらと輝いた。
 また、『ぞくぞく』がくる。
 トモダチの指に、赤黒い肉片が摘まれていた。
 男の口からごぼごぼと血が溢れる。舌の先を千切られて、男は笑っていた。
それは、とても楽しそうな笑みだった。
 次は、髪の長いトモダチの番だった。
「耕一さん……一緒に、逝きましょうか」
 とても哀しそうな口調だった。
 金色の瞳が静かに輝いていた。
 男が無造作に足を踏み出した。足下に零れた血がぼたぼたと音を立てる。
 トモダチは、とても速かった。
 だん、と音が鳴ったと思った瞬間、もう男の目の前まで迫っていた。爪が
伸びたと思った時には、もう男の胸を裂いていた。ごっそりと肉が抉られて、
真っ赤な血が飛び散った。
 道路に落ちた血が、びしゃあ、と大きな音を立てた。
 もう一度、トモダチが爪を振り上げた。
 咄嗟に顔を庇った男の腕を深々と切り裂いて、爪が通り過ぎた。血がまた
たっぷり噴き出した。
 トモダチの服を濡らした血が、びしゃあ、と湿った音を立てた。
 金色の瞳が爛々と輝いていた。
 嬉しそうな顔だった。
 三度目の爪をトモダチが振り上げる。
 それが振り下ろされるより早く、男は腕を爪に叩きつけていた。爪が肉に
食い込んで、ぶちぶちと音がする。
 トモダチの唇が吊り上がった。
 トモダチの瞳は金色を通り越して、赤く凶々しく光っていた。
 男が腕を押し出すにつれ、『ぶちぶち』が大きくなっていく。トモダチが
ますます嬉しそうに唇を歪めるのに構わず、男はぐいと腕を捻った。
 肉に巻き込まれて爪が曲がり、中程からばきんと折れた。
 驚いた顔で、トモダチが一瞬動きを止める。男が、笑った。
 トモダチの腹に、男の膝が吸い込まれた。

 ――どおん。

 大きな音が上がって、トモダチの身体が真っ赤な尾を引いて高々と空に
舞い上がっていった。月を後ろに従えてたなびく髪は、きらきらと光って
とても綺麗だった。
 冴え冴えと光る満月の中、髪の黒と肌の白、そして血の赤が入り交じって
繊細な一幅の絵画を織りなしている。それらの彩を全て包み込んで、命の炎が
燃え上がった。
 全身の体毛が逆立つような興奮が、男を包んだ。
 どぅ、とトモダチの身体が地面に落ちる。
 その音を耳にしながら、男はゆっくりと最後に残ったトモダチの方に顔を
向けた。
 トモダチはさっきと同じ所に立って、同じように微笑んだまま、目だけで
静かに泣いていた。表情も変えず、涙も零さないまま、ただ乾いた目の奥で
泣いていた。
「やっと――」
 トモダチが震える声で呟いた。
「やっと、わたしを見てくれた――」
 月光を撥ね散らかして、ついと踏み出した。その頬で、汗の粒が涙のように
きらきらと光っている。
 ――ごめん。遅くなったね。
 応えて男も踏み出したその時、
「きゃあああああああああああああああああああああああっ!」
 悲鳴が聞こえた。トモダチの身体のずっと後ろに、通りがかったらしい男と
女の二人連れが立っていたのだ。
 だが、男もトモダチも、まるで気にも止めなかった。
 喫茶店で見つめ合う恋人たちが店内を流れる有線の音楽に気づきもしないのと
同じように、男はその声を無視してトモダチの方に駆け出した。
 走り寄る勢いを乗せたまま、男の拳が、吸い込まれるようにトモダチの顔に
近づいていく。温かい吐息が、男の指の甲をくすぐった。
 ぞくり、とむず痒いような震えが背筋を駆け下りた。
 右に振られたトモダチの顔のすぐ横を、男の拳が駆け抜けていく。絹のように
柔らかな黒髪が一房、男の拳を、手首を、撫でていった。
 また、ぞくり、と来た。
 横に動いたせいで開いたトモダチの両脚の間を狙って、爪先を跳ね上げた。
素早く翻ったトモダチの右足が、男の足を踏みつけて、蹴りの勢いを加えて
その身体を夜空に高々と舞い上げた。
 舞い上がりながら、トモダチの左足が男の肩を思い切り蹴りつけてきた。
鎖骨がへし折れる感触があって、びりびりと悦びがそこから全身を貫いた。
 トモダチの身体が、男から数歩の距離を置いて降り立った。
 哀しみに凪いだトモダチの顔の中で、目だけが強く、鋭く光り出している。
トモダチの泣き顔の向こう、薄皮一枚で隠された奥に、何かねっとりとした
昏い欲望がとぐろを巻いているみたいに見えた。
 いつしか、男の逸物は隆々と天を向いてそびえ立っていた。
 たまらなかった。
 たまらないくらい、楽しかった。
 臓腑をかきむしって叫びたいくらい、嬉しかった。

 ――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!

 叫んだ。
 千切れた舌からぼたぼたと血が溢れ出したが、それでも叫んだ。
 喉に血が流れこんでむせたが、それでも構わず叫んだ。
 このトモダチと殺し合っているだけで、これほど楽しいのだ。
 その髪を拳がかすめただけで、これほど気持ちいいのだ。
 ――これで、トモダチを殺したらどうなるんだろう。
 それを想像しただけで、射精してしまいそうな程の興奮があった。
 想像だけでそうなのだ。実際にやったら、もっともっと気持ちがいいに
違いない。
 男は、『殺す』という言葉をはっきりと思い出していた。『狩る』という
言葉もそれと並んで、記憶の中にあった。
 ――そうだ。これまでのトモダチも、いなくなったんじゃない。
 ――俺が、殺したんだ。
 すとん、と何かが胸の中に落ちてきたような気分だった。
 自分が人殺しであることを、何の動揺もないまま納得していた。
 ずっと昔には『殺す』という言葉に嫌な響きがあったような気がしたが、
それは随分と遠い記憶のようで、はっきりとは思い出せなかった。
 楽しいはずなのに、少しだけ残った『もやもや』がやけに気に障った。
「――やぁっ!」
 トモダチが不意に動いた。
 数歩分の距離を一気に飛び込んで、男の顎の下から掌打を突き上げてきた。
かわそうとは思わなかった。がつん、と衝撃がきて、残っていた歯が今度こそ
全部砕けた。顎の骨も、砕けたらしかった。
 お礼に、肘をぶち込んであげた。
 かは、と息を肺から絞り出して、トモダチの身体が吹っ飛んでいった。
追いかけて、立ち上がる前に踏みつけた。
 蛙のようにまた、かは、と鳴いた。
 もう一度足を振り上げた。今度は、頭を狙おうと思った。
 三度目の鳴き声は、踏みつけるより早く聞こえた。
「――こういち、さん――」
 足が、止まった。
 男の身体が、ぶるぶると震えていた。男の目に宿る光が、少しずつ色を
変えていった。
 男の目から、涙が溢れた。
 トモダチの目からも、涙が溢れた。
「――がえで、ちゃん――」
 それは、歓喜の涙。
 トモダチが――いや、楓が、耕一を迎え入れるかのように両腕を大きく
開いて胸をさらした。
 そこに、耕一の足が全体重をかけてぶち込まれた。
 がは、と鳴いて、今度こそ楓の口から血が噴き出した。
「――こう……さ……ん」
 楓が微笑んで、自分の胸に突き立ったままの耕一の脚を愛しげに撫で回した。
「ああ……」
 耕一の口から、ごぼごぼという血泡の音に混じって声が漏れた。
「――じろ、えも……ん」
 それが、楓の最期の言葉になった。
 耕一は薄く笑いを浮かべて空を見上げ――その時になって、ようやく、
ずっと悲鳴が響き続けていたことに気がついた。
 満月は禍々しいくらいに大きく見えた。
 まるで彼らに祝いを述べているような、煌々たる輝きの月だった。





 通りがかりの人間が、そして近所の民家の住人が上げ続けている悲鳴は、
まるで気にならなかった。むしろそのささやかな音が、静寂を高めている
気さえするほどだ。
 耕一は悠然とした動作でしゃがみ込むと、四人の骸を集め始めた。袋が
なかったので、仕方なく千鶴の上着を借りた。それが一番丈夫そうだった。
 広げた上着の上に、『破片』を一つ残さず丁寧に拾って並べる。道路を
舐めるように見回して拾い残しがないことを確認すると、それをしっかりと
包んで首から下げた。
 続いて四人の身体を担ぎ上げた。
 片腕が使いものにならなくなっていたので苦労したが、塀の上に植わって
いた鉄条網を使って、落ちないようにしっかりと自分の身体に縛り付けた。
 ぶちぶちと肌が裂けて、噴き出た血が初音の顔を汚した。
 それを拭こうとしたら、口から血が噴き出して、今度は千鶴にかかって
しまった。潰れた片目から流れる血が邪魔だった。
 しばらく試行錯誤して、綺麗に拭くのは諦めた。
 ――まあ、すぐに問題なくなるだろう。
 女の子の顔を汚れたままにしておくことに罪悪感はあったが、そう思って
自分を納得させた。
 背中に梓を、右脇に千鶴を、左脇に初音を縛りつけて、残った右腕で楓を
抱えて、耕一は歩き出した。
 その頃になってようやく、警察のサイレンが近づいてくるのが聞こえた。
 耕一は、それも気にしなかった。人々の視線も何ほどにも気に止めず、
ただ月だけを見ながら悠々と歩き去った。
 月はただ丸く、そして、ぞくぞくするほどに赤かった。
 耕一の足下に流れ落ちていく血は月明かりの下では黒っぽく、むしろ月の
方がよほど血の色に相応しく思えた。
 ぼたぼた、と歩く度に血が大地を叩く音が聞こえる。
 片目は飛び出し、歯は悉く折れ、片腕が裂け、しかも口からは絶え間なく
血を零している。正に満身創痍の体でありながら、不思議と耕一の姿は余裕
ありげに見えた。
 サイレンの音が、段々遠ざかっていく。
 危なげない足取りで市中を抜け、山道を駆け登っていく。ゆっくりとした
足取りに見えたが、その速さは常人の走る速度を上回っていた。
 向かう先は、とっくに決まっていた。
 ――水門。
 始めて耕一が鬼の力に目覚めた場所であり。
 また耕一が鬼の力に敗れた場所でもあった。
 ――あの時は、みんなに怒られたっけなあ。
 耕一が子供の頃、梓たちと釣りに行って溺れかけ、鬼の力に目覚めかけた
時のことである。
 あの時、梓は『無茶するなよ、バカ!』と言って、寝込んでいた耕一の頭を
小突いたのだった。小突いて、怒って、それから顔を真っ赤にして、大事に
していた帽子を『けど、ありがと』と言って、くれたのだった。
 初音も酷く怒っていた。涙をいっぱいに溜めて、『今度あんなことしたら
お兄ちゃんのこと嫌いになるもん!』と言って怒っていた。泣きながら怒る
初音を宥めるのに、耕一は何十回も『もうしないよ』を繰り返す羽目になった
のだった。
 言葉には出さなかったが、楓も怒っていた。心配そうな、それでいて責める
ような目で、寝込んでいる耕一をずっと見ていたのだった。その目を見ていると
胸がきりきり締めつけられるようで、耕一は子供ながらにいたたまれない想いを
させられたものだった。考えてみれば、あれが一番辛かった。
 家に帰ってから話を聞いた千鶴も、やっぱり怒った。『無茶ばっかりして』
と言って叱りながら、どこか誇らしそうにしていたのをよく覚えている。
叱られるのが嬉しいという奇妙な気持ちを、耕一はたっぷりと味わったもの
だった。
 ――どうして忘れていたんだろう。
 あの後、体調がある程度回復すると、耕一は無理矢理と言っていいほど
強引に実家に連れ戻された。鬼の血の覚醒を恐れたせいだと今では分かるが、
その時は何も分からず、悔しくて悔しくて、わんわんと泣いた。
 千鶴も、梓も、楓も、初音も、みんな泣いていた。
 あれから、もう十年が経っているのだった。
 あの時の親父の気持ちが、今では少し分かる。
 ――それでも、親父は間違っていたんだ。
 一度、鬼になってみれば、分かる。
 鬼として生きるのも、決して悪いことじゃない。そのことは、身を以て
断言できた。
 千鶴の、梓の、初音の、そして楓の重みがずっしりと身体に伝わってくる。
素晴らしい気分だった。
 殺し合う時ほど、深く互いに分かり合える瞬間が他にあるものだろうか。
何昼夜ぶっ続けで話し合っても分からないようなことが、たった一度、爪を
胸に受けるだけで伝わってくる。
 互いに生命をぶつけ合っているのだ。これ程深い交わりが、他にあるはずが
なかった。
 愛しい相手の肉を抉る悦びを、愛しい相手に喉を裂かれる恍惚を知らない
人間が、いっそ哀れなほどだった。
 その恍惚を完成させるために、耕一は歩いている。
 ――今度はいっしょなんだから、誰も怒らないよな。
 歩くうちに、視力は失われてしまっていた。
 脚がまるで自分のものではないかのように定まらない。
 それでも耕一は、立ち止まることなく足を動かし続けていった。
 水の匂いが鼻腔をくすぐる。
 ――ああ、もうすぐだ。
 自分がそこまでたどり着けることを、耕一は微塵も疑っていなかった。
あの地こそが始まりであり、きっかけであったのだ。自分たちの骸を埋める
場所として、あれ以外の場所が選ばれる筈がなかった。
 四人の重みが、段々と増していくような錯覚に襲われる。
 息が荒い。
 大きく息を吸い込む度に、血が肺に流れてきて、苦痛が胸の内を灼く。
 ――次は、いつ会えるんだろう。
 百年後か、二百年後か。
 何時かは分からないが、その時が楽しみでならなかった。次こそは、彼女
より先に思い出してやろうと思う。
 また会えるという想いは、確かな信念としてあった。
 ――楽しみだなあ。
 そこで自分たちは、人として会うのだろうか。それとも鬼として会うの
だろうか。
 ぶちぶち、と鉄条網の針が肉を裂いていく。
 森の音が何処か遠くへ消えていく。
 足が重い。まるで何かがまとわりついているみたいだ。
 鼻ももう利かなくなった。
 それでも、耕一は足を前に出し続ける。
 先へ。
 もっと、先へ。
 あの場所に着くまで。
 たとえ足が折れようが、
 ただひたすらに、先へ――!

 ――がくん。

 その時。耕一の足が、遂にその限界を越えた。
 最後の一滴まで絞り出された精神力が尽き果て、意識が途絶える。
 気力だけで保っていた心臓が、最後に一つ弱々しく身をよじって、その
動きを止めた。
 耕一の身体が前のめりに倒れ込む。
 その魂が輪廻の輪に吸い込まれ、新たな旅路に踏み出す寸前――耕一の
耳は、何か重い物が水の中に倒れ込む音を、確かに捉えていた。



          ――ああ、着いた。







 ――ぼちゃん。