おにのひととせ(前編) 投稿者:ギャラ 投稿日:7月14日(金)20時09分


 ――くぅ。

 自分の腹が小さく音を立てたのを感じて、男は目を覚ました。
 寝転んで見上げた空の上に、冴え冴えとした光を放つ満月が浮かんでいる。
 男は月が好きだった。
 男は月が嫌いだった。
 男はベンチの上に仰向けに転がっていた。その姿勢のまま、目だけを大きく
開いて月を見つめていた。
 随分とくたびれた服装をした男である。年の頃は、二十歳以上なら何歳と
言っても通るだろう。まともな格好をしていればそれなりに魅力のある容姿を
しているようだったが、髪も髭も数ヶ月は手を入れてなさそうな今の様子では、
せいぜいが街の浮浪者といった所だった。
 ――腹が、減ったな。
 満月を見ると腹が減る。
 男は腹の辺りを片手で押さえて、身を起こした。
 ――腹が減ったよ。メシにしないか。
 ――なぁ、――。
 誰に呼びかけたのかは、男自身にも分からなかった。見知らぬ相手のよう
にも、ひどく懐かしい相手のようにも思えた。
 短く切った栗色の髪が、ちらりと目の前で躍ったような気がした。
 ――腹が減ったんだよ。
 答えは返ってこない。
 だが、男は気にしなかった。
 それがいつもの事だと分かりきっていたのだ。どれだけ呼びかけても返事は
ない。それでも、いつもトモダチが来てくれることも男はよく知っていた。
 ほら、向こうの方で足音が聞こえる。
 トモダチが来てくれたのだ。
 男はゆらりと立ち上がった。
 点在する街灯が照らしているだけの公園の中を、危なげない足取りで歩いて
いく。闇は、男にとって何の妨げにもなっていないらしかった。
 植え込みの角を曲がったところで、トモダチに出会った。
 今日のトモダチは二人連れだった。髪が短くてがっしりしたトモダチと、
髪が長くてほっそりとしたトモダチだった。
 長い黒髪を見て、男はなんだか嬉しくなった。
 ――やぁ。
 片手を挙げて、にこやかに話しかけた。
 トモダチは一瞬面食らった様子で立ち止まって、それから怒ったように
話しかけてきた。
 ――誰だ、お前は!
 話しかけてきたのは髪の短いトモダチだった。髪の長いトモダチの方は
その後ろに隠れるようにしていた。
 ――そうか。君が先なんだね。
 ――腹が減ったんだよ。
 男が答えると、トモダチはますます怒ったらしかった。
 ――何をワケの分からないことを……あっちに行けよ!
 ひどい言い草だったが、男は怒ったりしなかった。
 トモダチが急に怒ったり脅えたりするのには慣れっこだ。それに、わざわざ
食事を持ってきてくれたトモダチに怒るなんて、そんなひどいことが出来る
はずもない。
 ――腹が減ったんだよ。
 男はもう一度繰り返して、
 ――ありがとう。
 ぶぅん、と風を巻いて腕が振り抜かれた。
 トモダチの頭が、真っ赤な花火みたいに弾けた。
 一瞬遅れて、トモダチの炎がぱっと散った。今日のトモダチの炎はとても
綺麗だった。
 ――ああ、綺麗だ。嬉しいよ。
 飢えは少し治まっていた。綺麗な炎を見ると、食事を摂るのとはまた違った
満足感に満たされる。
 男は、まだぴゅうぴゅうと血を噴き出している真っ赤な肉に口をつけて、
そのまま囓った。
 ずぶり、と歯が肉を噛み千切って、まだ温かな血が喉の奥へと流れこんで
くる。その血をがふがふと呑んだ。腹が減っていたから、肉もろくに噛まずに
飲み込んでいった。
 口の横からこぼれた血が、男の着ている服を見る見るうちに汚していった。
 ――ああ、こんな食べ方をしていると怒られるな。
 そう思ったが、誰に怒られるのか思い出せなかったから、気にするのを止めた。
 それに、腹が減っているのだ。
 がつがつと食べていると、やがて美味しい部分はあらかたなくなってしまった。
 まだ、腹が減っていた。
 ――もっと欲しいよ。
 横を見ると、髪の長いトモダチがまだそこにいた。腰が抜けたような格好で
地面に座り込んでいた。
 どうやら気を失っているらしかった。
 ――ああ、待っていてくれたんだ。
 男はまた嬉しくなった。
 髪の短いトモダチは、もうそこにはいなかった。トモダチはいつも、食事を
持ってきてくれた後どこかに消えてしまうのだ。
 それが男には残念だった。
 でも、仕方がない。
 ――いただきます。
 両手を合わせてから食事にかかろうとして、男は気がついた。腹も減って
いたが、それ以上に欲しいものがあった。
 男の股間で、天を向いて屹立しているものがあった。
 男はまじまじとトモダチを見つめた。
 トモダチの身体は柔らかそうだった。触るとすべすべとして気持ちがよさそうだ。
 その姿を見ているうちに、男の分身はズボンの布地を突き破らんばかりに
膨張していた。
 トモダチの脚を掴んで持ち上げ、服を一気に引き裂いた。
 ――やっぱり、トモダチがいてくれてよかった。
 トモダチにのしかかりながら、男は無邪気な笑みを浮かべた。

 男が満足してそこから立ち去ったのは、それから一時間後のことだった。
 後には、食い散らかされた『食事』の残りが二つ、放り出されているだけ
だった。



 耕一が姿を消した、あの日。
 楓の心も、『耕一』と共に砕けて逝った。
 三ヶ月は、何もせずに暮らした。
 耕一の失踪は表向き、連続殺人とは無関係として処理されたらしいと
聞いたが、何の興味も湧かなかった。
 泣こうとも思わなかった。
 何も考えず、何もせず、ただの抜け殻として過ごしていた。
 三ヶ月経って、初めて涙が出た。
 それから三ヶ月、泣いて暮らした。
 泣いても泣いても涙は尽きなかった。
 自分はこのまま干涸らびて死ぬのだ――そう思った。
 その間に梓と初音も記憶を取り戻したらしかったが、気にも留めなかった。
 ひたすら泣いて。
 泣いて泣いて泣き暮らして。
 三ヶ月経って、ようやく涙が涸れた。もう涙は一滴も出てこなかった。
 それから三ヶ月、山中で暮らした。
 鬼の記憶を我が物とするために。
 鬼の力を使いこなすために。
 雨月山に籠もって、人を捨てて過ごした。
 獣の皮を素手で引き裂き、血の滴る肉に生でかぶりついて、がつがつと
喰らった。
 四匹の野獣のように、がむしゃらに山を駆けた。その通り道に当たったものは、
獣も樹々も悉く殺し、壊した。誇りも理性も全て失くして、『殺す』ことしか
考えられなくなるまで自分を追い詰めていった。
 三ヶ月経って、人の心を失くした。
 それから三ヶ月、耕一の居所を探して暮らした。
 千鶴が鶴来屋から抜けた後、新会長に就任した足立に頼んで、警察からの
情報を探ってもらった。
 月に一度の割合で、異常な――エルクゥによるらしい殺人は起こっていた。
犯人の足取りはまったく掴めていなかった。
 楓自身、当てもなく電車を乗り継いで彷徨ってみたりもしたが、それらしい
気配には出会えなかった。
 何も得られず、三ヶ月が過ぎた。
 そして、今夜――

「やっと、見つけた――」
 ベッドの中で、自分が目覚めたことも自覚しないまま、楓は呟いていた。
半年前に涸れきった涙はもうこぼれてくれることはなかったが、泣けるもの
なら大声を上げて、誰憚ることなく泣きたいほどの気分だった。
 今見た夢は、間違いなくエルクゥ同士の感応によるものに違いない。
 そして楓には、そこで見た公園の風景に覚えがあった。
 ここから、僅か十分足らずの所だ。
 身体中を駆けめぐる熱気を抑えようと努力しながら、楓は布団から抜け出した。
 まずはみんなを起こさないと――
 廊下に出ようとして、机の上の写真に目が止まった。
 もう何年も昔、耕一がまだ小学生だった頃、ここに遊びに来た時に皆で
撮った写真だ。少しく色褪せた写真の中で、まだ小さい耕一が、千鶴が、
梓が、初音が、そして楓が笑っている。
 何の憂いもない、明るい笑顔だった。二度と帰ってこない、輝いていた
日々の名残だった。
 しばらく無言でそれを見つめて、楓は踵を返した。
 立ち去り際に、一度だけ腕を振るった。
 乾いた音を立てて写真立てが砕け、千切れた写真が宙に舞った。照れた
ように微笑む楓の顔が、真っ二つに裂けて散った。
 楓の頬に、微かな笑みが浮かんだ。
 それきり、二度と振り向くことはなかった。



 男は、酔ったような頼りない足取りで夜道を歩いていた。
 ――まだ足りないんだ。
 腹はいっぱいになった筈なのに、何かが足りなかった。
 身体に横から吹きつけてくる風が冷たくて仕様がなかった。其処に何も、
誰もいないことが悲しくて堪らなかった。
 ――どうしてトモダチはみんなどこかに行ってしまうんだろう。
 寂しかった。
 一人でいるのは、もう嫌だった。
 一人で月を見るのは、もうたくさんだった。
 胸が空っぽになったようで、きりきりとひどく痛んだ。
 この街に来てから、その『きりきり』はますますひどくなったようだった。
「お兄ちゃん……」
 いつの間にか、目の前にトモダチがいた。
 小さくて、長い髪が一房ぴんと立った様子が特徴的なトモダチだった。
さっきの髪の短いトモダチよりも、もっと柔らかそうだった。
「耕一さん……」
「耕一……」
 左右の道にも、一人ずつトモダチが出てきた。髪の長いトモダチと、髪の
短いトモダチだ。
 ちょうど、交差点に立っている男を三方から囲むような状況になっていた。
 三人とも、どこかで見たことのあるような気のする顔だった。どこで見たのか
は思い出せなかったが、懐かしい気持ちがこみ上げてきた。
 ――トモダチが帰ってきてくれたんだ。
 そう思った。
 どのトモダチかは気にならなかった。トモダチの顔はいつも霧がかかった
みたいにぼんやりと見えて、覚えられなかった。
 でもこのトモダチたちは、はっきりと顔が見えた。
 懐かしくて、嬉しかった。
 ――ひょっとして。
 男はあることを思いついて、どきどきしながら後ろを振り向いた。
 ――いるかな。
 いた。
 男の思ったとおり、そこにもトモダチが立っていた。
 黒い髪を短く切り揃えた、とても綺麗なトモダチだった。男の胸が、ずくんと
跳ね上がった。
「耕一さん……」
 そのトモダチが悲しそうに呟いた。
 男の胸が、今度は『ずきん』と痛くなった。
 ――そんな顔をしないで。
 トモダチが小さく頭を振った。
「私たちのことが、分かりますか――?」
 分からなかった。
 だけど、それは言えなかった。それを言うと、トモダチがもっと悲しそうな
顔をするような気がした。
 トモダチの悲しい顔は見たくなかった。
 男が答えられないでいると、トモダチはまた小さく頭を振った。
 悲しそうな笑みが、唇の端に浮かんでいた。
「そうですか――」
 ――そんな顔はしないでくれ。
 痛かった。
 辛かった。
 このトモダチが悲しそうな顔をしていると、まるで心の臓を握り潰されて
いるみたいに苦しかった。
 ――笑ってよ。
 泣きそうな顔で男は言った。
 ――前みたいに笑ってよ。笑ってよ。――ちゃん。
 泣きながら男は言った。
 嬉しい想いは、もう何処かに行っていた。そんなことより、トモダチに
笑っていてほしかった。
 このトモダチの笑顔が見たかった。
 このトモダチが笑った顔は、とても綺麗なのに違いなかった。
 ――笑ってよ……
 いつしか、男はぼろぼろと泣いていた。
 泣きながら笑おうとして、奇妙に歪んだ顔で、しゃくり上げながらそう
言っていた。
「ええ――」
 ふ、と。
 トモダチが唇をほころばせた。
 儚げで哀しげな、水面に映った月のような笑みだった。
 とても綺麗だと、男は思った。
「いっしょに、いきましょう――」
 ――うん、いこう。
 トモダチの言葉に、男が頷いた。
 その途端。
 ごいん、ときた。





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