痕拾遺録第十七話「鬼が畏れて」 投稿者:ギャラ 投稿日:5月13日(土)00時32分
 柏木次郎衛門の墓の残る寺には、この男に関して様々な伝承が残されている。
 それによれば、彼は柏木庄――現在の隆山市を領地として与えられて後、山にかけた庵に
妻と籠もり、まるで隠遁したかのように他人と会うことを拒んで暮らしたと云う。
 一日、盆会に寺に下りた次郎衛門にまだ若い侍が、鬼と出会ってどのような心地がしたか
問うたことがあった。
「俺には分からぬ。お主の方がよく知っておろう」
 それが答えであったと云う。
「拙者は鬼に出会ったことはありません。柏木殿は雨月山の鬼を成敗なさったのでしょう?」
「いや。俺が殺し尽くしたのは……あそこにおったのは、鬼などではなかったよ」
「では、鬼は何処におりますか?」
 身を乗り出した若者に、次郎衛門は酒を呑みながら、
「それ、ここに――お主の前で、酒を嗜んでおるのが鬼よ」
 そう答えて高く哄笑した。
 この話を記した住職は次郎衛門の背後にいたが、その時若者の顔が蒼白になるのが見えたと
云う。住職は、その日の記述をこう締めくくっている。
『狗子畜生にも仏縁あり。鬼と生まれて鬼と生きるはまた正しき道なり。人と生まれて鬼と
 生きる思い、拙僧には知るべき法もあらず。されど思ふ、人なればこそ真の鬼となりうべきか』





            痕拾遺録第十七話「鬼が畏れて」





 正直に言って、目覚めたその時、耕一は困惑していた。自分がどうすべきか、まるで
見えなかったと言っていい。
 次郎衛門としての記憶は、心は、全て己の内にあった。それに伴って、エルクゥとしての
力もまた身に備わっていた。
 その力によって伝えられる心が、耕一の胸を掻きむしっていたのである。
 死んでやりたかった。
 エルクゥ達の前で無惨に殺されることで、彼らに誇りを与えてやりたかった。それは
エルクゥという種族の、大袈裟に言うならばレザムという一個の星の運命を賭けた誇りで
あった。その為ならば、己一個の命など何ほどもない――そうとさえ、思った。
 だが同時に、それはとても出来ることではないのも事実であった。
 己一人ならばいい。幾らでも殺されてやろう。
 だが、梓と初音は駄目だ。いや、二人だけではない。千鶴も楓も守らねばならない。その
為には、断じて死ぬわけにはいかなかった。
 そこに耕一の矛盾があった。
 死んでやりたい。だが、死ぬわけにはいかない。
 だから、梓に刀が振り下ろされようとしているのを見て殺気を放って”紫”の手を止めさせた
のも、刀を避けざまに印字打ちを放ったのも、ほとんど無意識の咄嗟の動きであった。
 動きながら、耕一はひたすらにどうすべきかを考えていた。
「だ、誰だ……?」
 梓が呆然とした様でそう聞いてきた時も、耕一はまだ思考のただ中にあった。
 だから、
「俺は――鬼、だ」
 その答えも、無意識の産物であった。
 だが、そう答えた時、何かを感じた。
(人間じゃない。エルクゥでもない。……俺は、鬼、だ)
 がつんと頭を殴られたような衝撃があった。
 そうだ。それでいいじゃないか。俺は鬼だ。鬼でいいじゃないか。「エルクゥ」じゃない。
本物の「鬼」なんだ。
 次郎衛門だった頃には、鬼になったせいで色々なものを失くしてしまった。だが、そうそう
性格は変わるものじゃない。それなら、鬼でもいいじゃないか。多分、鬼だからこそ守れる
ものもあるだろう。今ならそれが分かるはずだ。二度は……間違わない。
 そう思うと、不意に心が軽くなった。
 知らずに、笑みを浮かべていた。





 お兄ちゃんだ。
 その笑いを見て、初音は確信した。
 間違いない。間違わない。たとえどんなに姿が変わったって、どんなに動きが変わったって、
その笑顔を見ればそれが従兄弟のものだと彼女は確信できた。
 もうずっと、それを心の支えに生きてきたのだから。
 初音は自分の意見を殺し、他人に合わせることで生きてきた。その意味で言えば、彼女は
姉妹の誰よりも弱く、誰よりも不正直である。だが、それは全て彼女の優しさから出たもので
あった。他人を傷つけるのが怖いから、それが自分を傷つけるのが怖いから、黙って微笑む。
嘘をつく。それは弱さの証であるが、同時に優しさの証でもないだろうか。
 強く正直な者は、自分の足下でどれだけの血が流されているか気づくこともあるまい。
彼女は弱いからこそ優しく、優しいからこそ弱かった。そんな初音だからこそ、紫の抱える
哀しみに深く共感せずにはいられなかったのだ。
 だが、彼女はそんな自分に疑問を抱くこともあった。他人は言う。己に正直に生きろと。
自分の意志を持てと。他人に合わせるばかりでは人間たる資格がないと。傲慢な言葉である。
だが、その傲慢を傲慢と思えないところに初音の弱さがあった。
 そんな時、この従兄弟の笑顔がどれほど支えになってくれたことか。一人部屋に隠れて
泣く時、何年も前に会ったきりの従兄弟の笑みが、何度心を慰めてくれたことか。そして、
彼女がリネットであった頃、その笑顔がなければ果たして何時まで自害せずにいられたものか。
 その笑顔は、彼女の大好きな笑顔であった。
 次郎衛門の、耕一の笑顔であった。
「お兄ちゃん!?……お兄ちゃん!」
 もう我慢できなかった。叫びながら駆け出していた。飛び込んだ耕一の胸は、いつも通りの
暖かさだった。
「わ、とと……」
 口ではそう言いながらも、耕一の身体はびくとも揺るがない。抱きついて分かったが、
胸の傷もはや出血は止まり、塞がりつつあった。
「ただいま、初音ちゃん。ごめん、心配かけたね」
「ううん、ううん……」
 優しい手が頭を撫でてくれる。それだけで十分だった。言葉はいらなかった。お兄ちゃんが
此処にいる。それ以上、望むことがあるはずもなかった。





 その初音の後ろで、気の抜けたような笑い声があった。
「あんたときたら、いつもいつも……」
 梓が笑っていた。笑いながら、泣いていた。
「心配ばっかりかけて……ほんとに、この馬鹿は」
 呆れと安堵が当分に混ざった口調であった。だから、耕一も素直に頭を下げた。
「すまん。また面倒かけたな」
 そう言うと、梓は天を仰いで呵々大笑した。心底楽しげな様子であった。
「あははははっ!……あー、耕一らしい、ってのか何なのか。まあ、いいさ。それより……」
 言いながら、両手を体の前に回して、自分自身を抱くように腕を回した。微かに顔を朱に
染めて、ちろりと視線で睨め付ける。
「……あ、す、すまん!」
 慌てて耕一が目を伏せた。
 すっかり失念していたが、梓は先刻服を破って以来、全裸のままであったのだ。片手で
初音の体を抱いたまま、器用にシャツを脱いで投げ渡す。
 耕一の方が体が大きい分、梓が着るとそれは丈の短いワンピースのように見えなくも
なかった。似合っているとは言い難いが、体を隠すには十分である。
「さて……」
 シャツを着込んだ梓の方に初音を追いやりながら、耕一は紫の方に顔を向けた。
「待たせて悪かったな。勝負といこうか」
 そう言って、片手で拝むような仕草をしてみせる。耕一は、こういう動作に奇妙に愛嬌の
ある男であった。心から詫びているようにも、或いは巫山戯ているようにも見える。
 だが、それに対して紫は何の反応も見せなかった。否、見せられなかった。彼女は内心、
戦慄しきっていたのだ。
 リネットが駆け寄っていった時、仕掛ける機会だと思わなかったわけではなかった。それを
止めたのは、エルクゥとして正面から立ち会いたいという誇りである。だがそれ以上に、
恐怖があった。
(何を仕掛けても返される――)
 その思いが、彼女の体を縛っていたのだ。
 リネットもアズエルも気づかないようであったが、「鬼」だと告げた時の耕一の目の奥に
灯った懊火のような光。それは、血に狂ったエルクゥのそれに似て、だがそれ以上に不気味な
何かであった。
「何だ、貴様は――?」
 声が震えていることを恥とは思わなかった。
 恥、とはニンゲン同士、或いはエルクゥ同士でこそ通用する概念だ。それ以外の『何か』、自分
たちとは異質な存在を前にして、恥も糞もなかった。
 耕一が笑った。彼女には理解できない笑い方だった。
「鬼――だよ」
 ぞくりと背中が震えた。
 鬼。
 エルクゥがニンゲンからそう呼ばれていることは、知識としてあった。だが同時に、今
目の前の男が語っている『鬼』がそれとは異なるものであることも悟っていた。
 エルクゥの殺戮はしょせん本能に則ったものでしかない。この男はそうではなかった。
 血を好み、戦に酔い、死に狂う。殺すことと殺されることを等しく愛し、ただひたすらに
『いくさ』が好きで好きで堪らない。
 古来『いくさ人』の名をもって呼ばれた男たち――それは、エルクゥなど及びもつかない
ほど徹底して『鬼』であった。
(勝てない)
 卒然とそう悟った。
 耕一の顔には薄く笑みが浮かんでいる。楽しげな笑みであった。誇りも、しがらみも、
虚飾も全て捨て去った、無垢な笑みであった。
 そこには、梓や初音に対する心配も、エルクゥの運命に対する同情も、すっぽりと脱け落ちて
いた。ただ穏やかな喜びだけがそこに映じていた。
 この男に、自分が勝てる筈がなかった。
 義務感で戦う者が、喜びで戦う者に敵う道理はない。ダリエリが敗れたという理由がようやく
理解できた。
(終わった)
 その思いが胸の奥から湧き上がってきた。一時の怒りはとうに失せていた。





 紫の目が、ようやく耕一の視線を受け止めた。
 それを見て、耕一は内心密かに首を傾げた。
 奇妙に必死な目であった。追いつめられた獲物の、猫を噛もうとする窮鼠の目であった。
 耕一の中には、次郎衛門としての心と柏木耕一としての心が等しく存在している。その
両者が複雑に絡み合って、今の耕一を形作っていた。
 その柏木耕一の――平穏な人間の心が、相手の哀しみを感じ取っていた。
 エルクゥの力ではない。人間の優しさが、それを敏感に伝えていた。
(せめて、一撃)
 そう望んでいた。
 涙を見せずに泣きながら、紫はそう願っていた。
 不意に、父親の顔がそれに重なって見えた。
(俺は、隆山に行く――耕一、母さんを頼む)
 そう言った時の父の顔であり、
(次郎衛門。儂は殿とご一緒に死なねばならぬ。せめて、お前は強く生きろよ)
 そう言った時の父の顔であった。
 せめてもの死に花を咲かせんとする、決死の顔であった。
 強ばった顔のまま、紫が一歩踏み出した。固く握られた拳が、血の気を失って白くさえ見える。
(いいさ)
 耕一は自然に頷いていた。
 必死に生きてきた相手の、最期の望みだ。叶えてやろうじゃないか。死にゆく者に誇りを
与えてやって何が悪い。
 ゆっくりと、迎え入れるかのように両手を開いた。
(来いよ。受け止めてやるからさ)
 心の内で語りかけた。言葉にせずとも、伝わるという確信があった。
 紫が一気に間合いを詰めてきた。十分な勢いを持った拳が、胸の中央に打ち込まれる。
 体の奥の方で、鈍い音が聞こえた。
(肋が三本)
 冷静にそう数えている自分が可笑しかった。
 もう少し付き合ってやりたいな――ちらりとそう思った。だが、そうするわけにはいかない。
千鶴と楓は未だ何処にいるのかも定かではない。自分一人の趣味に没頭していられる状況では
なかった。
(すまないな)
 耕一は心の中で語りかけた。
(また生まれ変わったら、今度こそ最後まで付き合うからさ)
 微かに、紫が頷いたような気がした。口元が僅かにほころんだ。
 そして、その満足げな顔のまま、首が高々と宙に舞った。
 爪を振り抜いた姿勢のまま、胴と首を繋ぐ血の奔流を目にして、耕一は花火を連想していた。
(また、花火がしたいな)
 ふと、そう思った。
 それも線香花火ではない。大輪の、空を焼きつくすようなやつだ。真紅の火柱が立つ光景は、
例えようもなく美しいものに違いない。
 目の前で、紫の命の炎が燃えて散る。
 ぞくりと、背中が歓喜に震えた。




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