痕拾遺録 第十六話「鬼が還って」 投稿者:ギャラ 投稿日:4月28日(金)23時40分
 ――死んだか。
 それが、耕一の最初の思考であった。
 一寸先すら見えぬ闇の中である。目の前にかざした筈の己が手すら見ることができぬ。
二十数年生きてきて、耕一が初めて目にする、真の闇であった。
 しかも、哀しい。
 果てのない哀しさが、彼方から吹き来る風のように闇の中をよぎっていた。
 それを死の哀しさだと、耕一は考えた。
「死んだのか……」
 実際に口にしてみると、その思いがますます現実感をもって胸に迫ってきた。
 恐ろしくはなかった。
 ただ、悔しかった。
 ただひたすらに口惜しかった。
 楓を助けることも出来ず、初音を救うことも出来ず、千鶴を、梓を見つけることも出来ず
――従姉妹たちを守れずに不様に倒れた自分が、惨めでならなかった。
 不意に、凍えるような絶望感が腹の中に湧き上がった。諦観が全身を包み、手足の先が
冷えていくような感覚が襲ってきた。
「結局、親父の代わりにもなれなかったのか……」
 呟いた、その時だった。

(――否)

 どこからか、声が聞こえた。





             痕拾遺録 第十六話「鬼が還って」





 初めて聞く声だった。
(此処は死に非ず)
 それでいて、懐かしい声でもあった。
(汝は死人に非ず)
「なら、どこなんだ?」
 耕一が問うた途端、闇の中にぽかりと光が浮かんだ。
(ここは月)
「……月?」
(全てのエルクゥの還り来る所。そして全てのエルクゥの生まれ行く所)
 ”月”の光が、微かに周囲を照らす。
 その中に影が一つ動いているのが、耕一には見えた。目を凝らすにつれ、輪郭が明瞭に
なっていく。大柄な、男と思しい影であった。
 その影が、滑るような動きで近づいてきた。
「ふむ。息災……でもなさそうだな」
 見覚えのない姿であった。
 だが、その声には覚えがあった。
「転生の途に入る前に、貴様の顔が再び見られようとは思わなかったぞ、次郎衛門」
「……ダリエリかっ!?」
「? む……そう言えば、貴様とこの姿でまみえるのは初めてであったか」
 ダリエリがやや憮然とした表情で顎を撫でた。
 眉目秀麗と言える顔立ちではない。険しい眉、岩を削ったような顔貌、頑強そうな顎。
野趣溢れる顔立ちであったが、どこか他人を惹きつけるものがあった。『深さ』と言って
もよいだろう。衆道という意味ではなく、男好きのする顔であった。
「思ったよりもいい男だったんだな、お前」
 正直に耕一が言うと、ダリエリは照れたように目を細めた。
「光栄だ。どうだ、惚れたか?」
「馬鹿言え」
 そう言って、二人同時に破願する。何の遺恨もない、友人同士のような表情であった。
いや、事実この二人は莫逆の友であったのかもしれない。二度目の出会いに於いて、全ての
遺恨は消え失せ、ただ互いへの敬意のみが二人を繋いでいた。
 だが、それが過ぎると、ダリエリの顔が突然に曇った。
「貴様……また厄介な事になっていると見たが? 相も変わらず忙しい生き方をしておるな」
 呆れたような面白がっているような調子で、そう言った。
 それを聞いた耕一の目が、くわとばかりに見開かれた。
「分かるのか!」
「おお、無論のことよ。此処こそは、全てのエルクゥが転生の旅路へと向かう門にも等しい
 もの。それは、全てのエルクゥと繋がり得ることでもある」
「なら、初音ちゃんがどうなっているかも分かるのか!」
 つかみかからんばかりの形相で耕一が問うた。
「初音……? おお、リネットのことか。なれば、感覚を澄ませろ、次郎衛門。貴様も
 気づいているだろう、この哀しみ――その先にこそ、リネットはある」
 ダリエリの言葉は、最後まで耕一に届いてはいなかった。その時には既に、耕一は精神を
集中させて没我の境地に入っていたのである。
 ダリエリの顔に苦笑が浮かんだ。
「転生したと言うに、変わらん奴だ」
 そう呟いた顔は、友への親愛のみならず、微かな羨望をも含んでいた。





 狩猟者の誇り。
 それはアズエルにとってもリネットにとっても、改めて考えるにも値しないものであった。
 彼女らは生まれた時より常に狩猟者であった。己が狩猟者であること、狩猟者として誇りを
持つこと。それは意識することさえなく、彼女らとともに存った。
 何故、飯を食わねばならぬのか。何故、息をせねば死ぬるのか。
 そのようなことを考える者は、滅多にいるものではない。それと同じことだ。ただ当たり前に
受け入れていたこと――だが、その言葉が、今は何故か重かった。
 その様子を見てとって、紫の唇が笑いの形に歪んだ。
 その笑いの先にあるものは――
「狩猟者の誇りとは……我らが生きる為に、創りあげたもの」
 ――己自身。
 そして、同胞たち。
「我らエルクゥはいびつな生物でありながら……否、それ故にこそ、誇りなくしては生きられ
 ませなんだ」
 月を見上げる瞳に、怨嗟の色が浮かんだ。
 それが見つめるものは、月か――或いは”月”か。
「……いびつ? はっ――」
 梓が、笑った。
 強ばった顔を無理矢理に歪め、口から息を吐き捨てる。それは紛れもなく挑発であった。
挑発することで、己が心を沸き立たせる。
「つまんない自虐だね。自分は下衆だから、何をしても仕方ないってのかい――冗談じゃない。
 それはただの逃げだろ! あたしは……あたしは、自分がエルクゥであることに誇りを
 持ってる。あんたみたいな逃げじゃなくね!」
 憤激を叩きつける。
 だが、自分の方に下ろされた紫の眼を見た時、心が凍った。
(なんて昏い眼をしてるんだ)
 それは、まさしく死人の眼であった。
 何もかも捨てて、何もかも諦めて、現世に何の未練もなくした者の眼であった。必要と
判じたならば、一瞬の遅滞もなく己が首をかき落とし、想い人を手にかけて躊躇わない。
その覚悟のみが顕わし得る、眼であった。
 それは、かつての千鶴の、眼であった。
 そしてまた――ダリエリの、眼であった。
「我らは殺さずには生きられぬもの……」
 紫がゆっくりと、幼子に諭すような調子で呟いた。
「なれば、それに興じねば狂いましょう」
 梓と初音が、あっと叫んだ。
 愕然とした瞳が二人の間で交わされた。ただそれだけの言葉で、彼女らも気づいたのだ。
何故、狩猟者であることに拘らねばならないのかを。
 人はパンのみに生きるに非ず――という言葉がある。それは一面において真理を捉えて
いる。人の心は脆弱なものだ。己が縋るよすがを持たないままに生きられる者は決して多くは
ない。その為にこそ神があり、また己の意志というものが神聖化されるのだ。他人を罵り、
己を言葉で飾り立て、それを以て人は生きる糧とする。
 そして、それはエルクゥもまた。
 殺戮を神聖視し、己が振る舞いを正当化することでエルクゥたちは辛うじて正気を保ち得る。
もしも獲物に情を移すことがあれば……その先にあるものは、自己嫌悪の果ての自滅でしかない。
 狩りを厭う狩人は、飢えて死ぬより道はないのだ。その実例を、彼女ら姉妹は誰よりもよく
見知っていた。
 父と、叔父。かけがえのない、その二人が死んだのは、まさしく人であろうとした為では
なかったか。狩猟者の誇りを、最期まで拒み続けた結果ではなかったか。
 それに気づいた時、彼女らに放つべき言葉は残されていなかった。
「そう、か……」
 梓の腕が、だらりと垂れ下がった。全身を覆っていた闘気と怒気が失せ、虚脱しきった
身体は、一回り小さくなったかのように見えた。
 崩れるように、剥き出しの地面に腰を下ろす。
「ははっ……あたしら、何やってたんだろうな」
 自分は、死ぬしかない。
 その決意が、梓の心の中で固まっていた。人間とエルクゥの共存は、ただ悲劇を繰り返す
ことに他ならない。それを防ぐ為に、自分は死ななくてはならない。
 否、殺されなくてはならない。裏切り者は、惨たらしく殺されなくてはならない。それで
こそ誇りは守られる。同族たちが生きる為の誇りが。
 そのことに気づかず、ダリエリを憎んでいた自分が滑稽でならなかった。ダリエリが、
紫が、蒼が……彼らが己の心を殺して同族の為に尽くしていたことも知らず、二つの種族の
架け橋になろうと思っていた自分が、愚かで、惨めでたまらなかった。
「ごめん、初音。あたし、あんたを守れないみたいだわ」
「ううん……わたしはいいの。ただ、お兄ちゃんに悪いなって……」
 初音の顔は変わらず涙で濡れていた。
 だが、その意味は大きく異なっている。今の涙は己の過去に対する悔悟の涙であり、ダリエリ
達が抱いたであろう苦しみへの同情の涙であった。
 その顔には怒りも恐怖もない。限りなく透明な哀しみに満ちた、秋の夕暮れの如き顔であった。
「そうだね。耕一には悪いことしたか」
 頷く梓の顔にも、いつの間にか涙の筋があった。
 自分より何倍も辛いだろうに、それを表に出そうとしない初音が、愛しくてならなかった。
慰めの言葉一つかけられない自分が、情けなくてならなかった。
 今、多分あたしは酷い顔なんだろうな――そう思ったが、それを正そうという気には
ならなかった。涙で汚れ、入り混じった感情で歪んだ顔。初音の透明な涙とは比ぶべくも
ないそれが、一番自分らしく、一番美しい顔だと、そう思えた。
 じゃりっ、と音を立てて紫が一歩を踏み出した。
 もはや、言葉はいらなかった。
 梓が、続いて初音が目を閉じた。
 足音が近づいてくる。
 夜の闇の中、二人の姉妹は、身じろぎ一つしないまま菩薩のように静かに死を待ち受けて
いた。
 ただ、静かに。





 頬を、熱い雫が流れていた。
 エルクゥの共感が、紫の想いを、梓の想いを、初音の想いを、余すところなく耕一に伝えて
いた。彼女らの哀しみは、正しく耕一の哀しみでもあった。悲憤が全身を灼き尽くしていた。
叶うならば、己が肺腑を引き出して掻きむしりたいほどに哀しかった。
「愚行と言うんなら、それは全て俺のせいだ!」
 哀しみが喉から溢れ、叫びとなった。
「罰されるべきは俺だ! 俺が、俺さえいなければ――!」
 記憶の奔流が耕一の心を揺さぶっていた。
 エディフェルと出会い、愛してしまったのは自分ではなかったか。
 リズエルに妹を斬らせ、罪の意識に追いやる結果を呼んだのも自分ではなかったか。
 リネットより借りた力を使い、エルクゥを鬼として殺し尽くしたのも自分ではなかったか。
 そして、エルクゥの血を残し、『鬼の一族』を伝えたのも自分ではなかったか。
 全ての発端でありながら、つまらぬ意地に拘泥し、次郎衛門としての前世を拒絶していた
自分の傲慢さへの嫌悪が、自責の念となって耕一の心を責め苛んでいた。
 それを認めることが、今の初音への想いを否定することに繋がりそうで怖かったのだ。
なんとちっぽけなことか――今となってはそう思う。自分の心にすら自信が持てず、無様に
逃げ回っていただけではないか。ダリエリ達の抱えていた悩みに比べて、何と矮小なことか。
 完膚無きまでに打ちのめされた気分であった。
「ダリエリ……すまん。結局、俺はお前の哀しみが何故なのか、気づこうともしなかった」
 前世での戦いの時、ダリエリの見せた怒りと哀しみの理由がようやく理解できた。彼も
エディフェル達を殺したくはなかったのだ。その心情を思えば、詫びずにはいられなかった。
 だが、ダリエリはそれには応えなかった。
「次郎衛門。貴様の肉体は未だ砕けておらぬ。……行け。今度こそ、今世こそ、あれらを
 救ってやってくれ……」
 罪を裁くことも、救いを与えることも、ともに彼の為すべきことではなかった。
 だから、ダリエリはただ道を指し示した。長ではない、彼自身が望む道を。
「ああ。変な言い方だが……元気でな」
「案ずるな。我もこれより転生に入る」
 耕一の言葉に、ダリエリの口元に微笑が浮かんだ。
「エルクゥ同士は引き合うもの……再び貴様とまみえる日、楽しみにしているぞ」
「俺も、だよ」
 二人の身体が、霧が溶けていくように薄れてゆく。一方は”月”の外へと流れ、一方は”月”の
内へと流れていく。
「――おお、そうだ」
 流れ消えていく視界の中で、ダリエリが思い出したように呟いた。
「次郎衛門。よろしく伝えておいてはくれぬか。ダリエリが待っていると……」
 その声を意識の外遥かに聞きながら、耕一の意識は溶けていき、何も見えなくなっていった。





 ぎぃん。
 凄まじい音であった。そして、この日二度目に響いた音でもあった。
 紫は、愕然としたと言ってよい。エルクゥの中でも、武勇をもって聞こえた彼女である。
そうでなくては、このダリエリ救出行の一員として選ばれるはずもない。それが、一夜に
二度も的を外すなど、自分でも信じがたい失態であった。
 しかも、今回それを強いたのは、ただ耕一の”気”のみであった。
「――るおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
 吼えた。
 同時に地面に突き刺さっていた刀を引き抜き、未だ伏したままの耕一の身体に思い切り
投げつけた。
 梓たちに語った同族への想いは、ただの一時で消えていた。ただ、灼けるような屈辱のみ
があった。
(殺す)
 一瞬のうちにそう決めていた。
 己の心を殺して同族のためだけに殺戮を繰り返してきた彼女が、その最も重要な仕事の
際において我を忘れたのは、皮肉と言うべきであったろうか。それとも、それは矯めに矯めて
きた心の必然的な反動であったか。
 いずれにせよ、それが果たされることはなかった。
 投げ放たれた刀が貫いたのは、樹の幹のみであった。
 耕一の身体は、それが届くより一瞬早く横に転がっていた。しかも、転がりながら石を
拾い、眉間めがけて投じてきたのである。
 おお、と驚愕の声が漏れた。
 辛うじてかばった腕を打った一投は、彼女の怒りを醒ますに十分な鋭さを持っていた。
それは断じて、苦しまぎれの策などではなかった。修練を積んだ技に違いなかった。
 印字打ち、と呼ばれる投石の法である。紫が知るはずもなかったが、それは昔のいくさ人の
間では一般的な技法の一つであった。
 僅かに冷静さを取り戻して、紫が無手のまま構える。
 その様子をほとんど呆然と見ていた梓が、震える声を押し出した。
「だ、誰だ……?」
 ゆらりと立ち上がる男の姿は、彼女の知る従兄弟とはまるで違った雰囲気を纏っている。
耕一には、これほど隙のない動きは出来まい。
 耕一の姿をした男が、問われて目を閉じた。
 涙をこらえているようだ、と梓は思った。思い悩んでいるようだ、と初音は思った。己を
悔いているようだ、と紫は思った。そのいずれでもあり、いずれでもないようだった。
 そして、
「俺は――鬼、だ」



 そう答えて、男は微笑った。




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