痕拾遺録第十四話「鬼が怒って」  投稿者:ギャラ


 夢を、見た。
 ほんの一時、瞬き一つほどの間に。
 夢を――幻を、見ていた。



 哭いている娘の、夢だった。
「――どうしてだよ」
 憤っている鬼の、夢だった。
「――どうしてなんだよ」
 血を吐くような。
 腸を裂くような。
 そんな叫びの、夢だった。
「あんたも、エディフェルも、リズエルも、ダリエリも……どうして、そんなに馬鹿なんだよっ!」
 鬼の娘が、泣いていた。
「誇りなんか捨てちまえよっ! 逃げればよかったんだ! 追わなけりゃよかったんだ!
 なんで……なんでエディフェルが死ななきゃならないんだっ!」
 鬼の娘が、問うていた。
「……」
 答えはなかった。
 答えられるはずもなかった。
 その時の俺は、ただ彼女の――愛しい女の骸を抱いて、涙を流すことしか出来なかったから。
 だが。
 だが、もしも。
 もしも、そうでなかったとして――その問いに答えることが、出来ただろうか?



 その時の俺は、答えられなかった。
 その時のリズエルは、答えられなかった。



 そして。



 答えは――まだ、ない。





       痕拾遺録第十四話「鬼が怒って」





 夢は不意に訪れ、不意に終わる。
「貴方を……殺します」
 耕一の目の前で。
 その鬼は、静かに呟いた。
 不思議と、恐ろしくはなかった。
「……そうか」
 ただそれだけを、答えた。
 鬼が、無言で頷いた。
 その目が、金の光を帯びてゆく。
 その内にある何かを、覆い隠すかのように。
 抜け殻の奥にある魂を、鎧で包むように。
「そんなっ……そんなのって……」
 初音が、泣いている。
 小さな手が自分の服の背中を強く掴んでいる。それが、はっきりと分かる。
「そんなのってないよっ! 悪いのはわたしだから――リネットなんだから、お兄ちゃんには
 関係ないよっ!」
 初音の嗚咽が聞こえる。
 だが、鬼の瞳が揺らぐことはなかった。
 鬼は黙って首を振る。
 耕一は、初音を押し下げた。
「下がっているんだ、初音ちゃん……」
「でも!」
「下がっているんだ……多分、悪いのが誰だとか、そういう問題じゃないんだよ、これは……」
 そこで一度言葉を切り、鬼の顔を凝視する。
 そこには、何も浮かんでいない。
 肯定もしない、否定もしない。
 それに構わず、耕一は言葉を続けた。
「ただ……きっと、俺たちを殺さなくちゃいけないんだと思う」
「……然り」
 ぼそり、と鬼の口から言葉が漏れた。
 耕一の顔が、ようやく初音の方を向く。
 涙でべとべとになった初音の顔。それに向かって、耕一は少し困ったような照れたような、
暖かい笑みを浮かべてみせた。
「だからさ、」
 それは、初音の大好きな笑顔で。
「怒ったり泣いたりするよりも、」
 それは、覚悟を決めた者の持つ、強い笑顔で。
「助かるために、頑張ってみようよ」
 その笑顔を浮かべたまま、耕一は肘を鬼の顔面に叩き込んでいた。
 左目の下、頬骨の辺りに、肘が触れる。
 その感覚が、耕一が意識を失う寸前に感じた最後のものであった。





 最初、初音には、何が起きたのか分からなかった。
 耕一の手に押されて、数歩よろめいてしまった。
 それは、確かだ。
 その瞬間、耕一の身体が反転して、肘を振り上げた。
 それも、確かだ。
 その先が、分からない。
 何故、こうなったのだろうか。
 何故――耕一が、逆さまになっているのだろう?
 どうして、顔があんなに赤いんだろう?
 何処かふわふわとした、現実感に欠けた感覚を味わいながら、首を傾げる。
 その目の前に、鬼が立つ。
 その手の中で、赤い刀が鈍く光る。
 その時になって、ようやく気がついた。
 耕一の身体から、血が吹き出していることに。
 それが、樹にぶつかって、逆さまに引っかかっているのだということに。
 つまり。

 ――耕一は、逆袈裟に切り上げられ、死にかかっているのだ。

 目から入った光景の意味を、ようやく脳が理解する。
「お……」
 呆けたように、口が開いた。
 一度止まったはずの涙が、再び溢れた。
 ゆらゆらと。
 たゆたうような視界の中で、耕一の身体を染める朱だけが、はっきりと映っていた。
「……お兄ちゃん!」
 叫ぶと同時に、身体が動く。耕一に駆け寄ろうとして――身体が、跳ねた。
 奇跡に近いことであったと、自分でも思う。
 耕一が守ってくれたのかと、そんな埒もない思いが浮かぶ。
 その、初音の伏せた頭のすぐ上を、鬼の刀が過ぎっていった。
 ――ぃんっ。
 微かな、耳鳴りのような音が耳朶に届く。
 それを意識する間もなく、身体を投げ出した勢いのまま前転し、鬼から距離をとった。
 柏木初音。
 彼女もまた、紛れもなく鬼の血を引く少女であった。
 だが。
「ひゃっ!?」
 だが、その身体は余りに小さく。
 その心は、余りに脆い。
 二度目の剣閃は誘いであった。中途で止められた刀に、身体が泳ぎ、その脇腹を足刀に
抉られた。
 視界の中の景色が高速で流れ、地面に叩きつけられた衝撃が背を打つ。
 痛みは、一瞬遅れてやってきた。
 息がつまり、横たわったまま大きく咳き込む。
 耳のすぐ横で、靴が砂を踏む音がした。
 見上げれば、初音の身体の上に、金に光る瞳があった。
 此処に至ってなお、それには何の感情も浮かんでいない。
 その更に上には、禍々しい光を放つ刃があった。
「――何か」
 ぽつり、と。
 僅かに軋んだ、けれど冷たい声が落ちてきた。
 氷の冷たさとも異なる、ひたすらに乾いた陶器の冷たさ。
「何か、言い残すことは」
 疑問の響きすら籠もらない、平板な声。
 本当に生き物の発する声なのかも疑われるような、そんな声だった。
 その冷たさが、救いようもない真実味をその声に与えていた。
 ――ああ、死ぬんだ。
 何の疑いもなく、そう確信できた。
 そう思った途端、腹の底に何か冷たいものが溜まるのを感じた。
 心臓が掴みあげられた様に縮こまるのが分かった。
 動けない。
 声すら、出せない。
 両眼に涙が溜まるのを感じながら、それを拭うことすら出来ず、初音はただ固まって
いた。
(ワタシニハ、ナニモデキナイ――)
 絶望に染まったまま、初音はただ鬼の瞳と、その手の刀の放つ、二つの光を
魅入られたかの様に見つめていた。
 鬼が静かに頷いた。
 最期の言葉はないと判じたのか、それとも初音の眼に何かを見てとったのか。
 それは分からなかった。おそらく、自身にも分かってはいないだろう。
 高く掲げられた刀が、狙いを定めるように左右に揺れ動く。
 やがて動きを止めたそれが、ぎらりと光った。
 瞬間。
「……ど……して」
「……」
「どう……して。どうして、こんな事に……なったの?」
 刃を振り下ろそうとした鬼の手が、動きを止めた。
 初音の眼は、大きく見開かれている。そこから滂沱と涙が流れていた。
「みんな、幸せになりたかっただけなのに……大切な人を、守りたかっただけ
 なのに……どうして、こうなるの……?」
 初音は、泣いていた。
 そして、怒っていた。
 次郎衛門を取り巻いた悲劇に。
 柏木の血を巡る悲劇に。
 この世の、不条理にすら思える冷たい現実に。
 そして、それを変えられない己の無力さに。
 嘆き、憤り、絶望し……それでも眼を閉じることなく、涙を流していた。
 リズエルは、最期までエディフェルの望みを叶えようとしていた。
 アズエルは、エディフェルを救えなかったことを生涯悔いていた。
 エディフェルは、死に臨んでもなお、次郎衛門と残った姉妹を想っていた。
 次郎衛門は、エディフェルを忘れることなく、その一生を閉じた。
 そしてリネットは、そんな彼女らの笑顔を、何よりも願い続けていたのだ。
「お姉ちゃん……お兄ちゃん……」
 血を吐くような想いを込めて、初音はその名を呼ぶ。
 その時、不意に思い出したものがあった。
 ――そうだ。
「――我らもまた、同じなのだ……」
 初めて、鬼の声に感情が籠もった。
 五臓六腑を引き裂くような哀切が。
 それを機にしたように、鋼の光が振り下ろされる。
 その冷たい刃の先で、初音ははっきりと思い出していた。





 そして、ダリエリは、命懸けでその同胞達を愛し、守ろうとしたのだ――






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