痕拾遺録 第十三話「鬼が堪えて」  投稿者:ギャラ


 疑いようもないことだった。

 何時、と言えるわけではない。
 何処、と分かるわけではない。

 だが、それだけは確かなことであった。

 その眼を、何時か、何処かで見たことがある――

 ただ、それだけは。



          痕拾遺録 第十三話「鬼が堪えて」



 月の紅い、夜だった。

「ダリエリ……此処に居たか」
 その時の俺は、鬼だった。
 全てを殺し尽くす、鬼だった。
 そしてまた俺は、人だった。
 鬼を殺し尽くす、『人』だった。
「……ジローエモン、カ」
 ダリエリが、喉に何か詰まったような声を漏らした。
 その腕には、腰より下を喪った鬼の骸が抱かれていた。
「……ナゼダ」
 顔を俯かせたまま。
 ぽつりと、ダリエリが呟いた。
「……オマエモ、リネットモ、ナゼニゲテクレナカッタ……?」
 顔を上げようともせずに、骸となった鬼の頭を撫でていた。
「ドコカ、ワレラノメノトドカヌトコロニ……ソウスレバ、コロサズニスンダノニ」
「俺は死なん……貴様らを殺し尽くすまでは。エディフェルの仇を討つまでは……!」
 暗く、疲れきった、ダリエリの声。
 熱く、滾るような、俺の声。
 二つの声は、決して混じり合うことはなかった。
「ワレハ、オマエタチヲコロサネバナラヌ」
「俺は、貴様らを殺してやる」
 それが、最後の会話。
 怒りと悦びに唇を歪め、俺が刀を構える。
 そして。
 ダリエリが爪を構える。
 怒りと――哀しみに唇を歪めて。



「――お兄ちゃんっ!」
 静寂を破って響いた初音の声に、耕一の意識は現実に舞い戻った。
 すぐ目の前に、夢の中で見たと同じ眼があった。
 言葉は、ない。
 ただ、哀しみと、僅かな懇願の色を湛えて見つめている。
「……」
 耕一も、黙って見返す。
 右の腕で初音の身体を背後に庇いながら、目を逸らすことなく立っている。
 不思議と恐ろしくはなかった。
 昨夜、この鬼に、”紫”と名乗った鬼に斬られた記憶は、現実味のない――まるで他人から
伝え聞いた話のような、希薄な印象しか残っていなかった。
 その眼を、見てしまったから。
 その眼に浮かぶ哀しみを。
 その眼に浮かぶ絶望を。
 何時か、何処かで見た虚ろを――見てしまったから。
 互いに言葉もないまま、鼻先が触れあうほどの距離で睨み合う。
 そうして、どれくらいの時間が経ったのか。
「……選ばれよ」
 紫の口から、遂に言葉がこぼれた。
「……選ばれよ」
 もう一度。
「エルクゥとして、狩猟者として誇りある生を送るか……ニンゲンとして、獲物として惨めに
 死に逝くか……」
 能面のような無表情のまま。
 唇と舌だけが別の生き物のように動き、それだけを告げた。
 そして、再び動きを止める。
「……」
 耕一は答えない。
 蛇に見入られた蛙のようにか。
 或いは、静かにそびえる彫像のようにか。
 耕一は、動かない。
 ただ、紫の眼を見つめたまま。
 耕一は、何も答えない。



 ――もしも。
 もしも、お兄ちゃんがエルクゥの生き方を選んだら。
 どうすればいいのだろう――わたしは。
(そんなこと、ないよね……?)
 心の中で、そっと呟いてみる。
 口には出さない。
 否、出せない。
 言葉にしてしまえば、それは現実になりそうな気がしたから。
 乾く。
 渇く。
 口が。
 舌が。
 何より、心が。
 ――柏木耕一は、柏木初音を愛している。
 その言葉を聞いたのは、何時のことだっただろう。
 それだけが、彼女の支えだった。
 初音の……そして、その心に甦ったリネットの。
 けれど。
 もしも、『柏木耕一』が消えてしまったら?
 もしも、『次郎衛門』が甦ってしまったら?
 ――柏木耕一は、柏木初音を愛している。
 ならば、次郎衛門は誰を愛しているのだろう?
 それが、リネットでなかったら。
 それが、柏木初音でなかったら。

 ぎちっ。

 拳が、軋んだ。
 掌に突き立てられた爪から、朱い筋が流れて、落ちる。
 目の前に、耕一の背中が見える。
 何も答えない背中だ。
 ――貴方は、人ですか?
 ――貴方は、エルクゥですか?
 ――貴方は……誰ですか?
 叫びたかった。
 哭きたかった。
 その背中に縋りついて。
 その首に腕を廻して。
 ――人だと答えてくれと。
 ――柏木耕一だと答えてくれと。
 そして。
 ――俺が愛しているのは柏木初音だと、そう告げてくれと。
 けれど、それは出来なかった。
 また一筋、血が零れる。
 耕一の身体に伸びないよう、固く握りしめられた拳から。
 もしも哭いてしまえば、初音は『初音』でなくなるのだから。
 『柏木初音』は、素直な妹なのだから。
 渇ききった口の中に、不意に唾が湧いた。
 生まれて初めて、初音は唾を吐き捨てたいと――そう思った。



 紫の眼は、耕一だけを見つめていた。
 初音の心は、耕一だけを想っていた。
 共に、縋るような希望を込めて。
 二つの視線が、一点で交差する。
 とても静かで、とても張り詰めた空気があった。
 けれど、均衡はいつまでも続かない。
 崩れる時が――やがて来た。
「俺は……」
 耕一が、口を開く。
 初音が固く、目を閉ざす。
 そして。



「……人間、だ」



 選択が、下された。





「――!」
 びくり。
 其処より離れた、影の中。
「あ……ぁ……」
 月の仄かな光が、木に遮られてささやかな影を生んでいる。
 その中で、千鶴は己の身体を抱き締めるようにして蹲っていた。
 感じる。
 心を。
 絶望を。
 諦観を。
 心の中に穴を開けた、虚ろな闇を。
 身体という名の抜け殻を蝕む、昏い想いを。
「ご……」
 それは、何時か自分が抱いた想い。
 苦しむ父を前に、中学生だった自分が見た恐怖。
 死を覚悟した叔父を前に、三月前の自分が感じた絶望。
 鬼に惹かれつつある従弟に、三日前の自分が抱いた諦め。
 そして。
 今もなお、自分を苛む、癒えることない心の痕。
「ご……」
 ――また、誰かが死ぬ。
 ――同族が、同族を殺す。わたしの我が儘のせいで。
「ごめ……」
 詫びの言葉が、口から漏れそうになる。
 きしっ。
 奥歯が、軋んだ。
 血の混じった唾とともに、その言葉を飲み下す。
 詫びてしまえば、楽になるだろう。
 けれど、それはしない。
 ――どうせ許されない生き方ならば、せめて。
 頬の筋肉を強張らせたまま、ゆっくりと身を起こす。
 ――せめて、胸だけは張って歩こう。
 立ち上がった千鶴は、再び山頂へ向かって歩を進め始めた。
 いつ噛んだのか、唇に血の珠が浮かんだ。
 はるか昔に凍てつかせた涙の、代わりだとでも言うように。



 ――よかった。
 全身から、力が抜ける。
 強張っていた身体がほぐれてゆくのを感じながら、初音は自分の目に涙が浮かんでいること
に気がついた。
 視界の中に映る耕一の背中が、紫の顔が歪んで見える。
「そうか……」
 疲れきった声が聞こえた。
 紫が肩を落としている。涙で歪んでいるせいか、その姿が急に十も老けたように、初音には
感じられた。
 だが、それも一瞬のこと。
「ならば」
 傲然と、胸が張られる。
 色を失くした瞳が、再び耕一を貫く。
 そして。



「貴方を……殺します」



 その眼は、かつて耕一が見た、抜け殻のような千鶴のそれと同じ色を湛えていた。