痕拾遺録 第十二話「鬼が夢見て」  投稿者:ギャラ


 誰かが、泣いていた。



「エディフェル、エディフェル……!」

 ――ジローエモン?

「死ぬな、エディフェル! 死なないでくれ……!」

 ――ああ、そうか。
 ――わたしは、死ぬのか。

「生まれ変わっても、お前のことは忘れない……!
 必ずだ! 必ず、お前を見つけてみせる……!」

 ――わたしも、忘れない。
 ――あなたのことは、忘れない。

 ――ねえ、ジローエモン?
 ――わたしが死んだら、また泣いてくれますか?

 ――今世は間に合わなかったけど。
 ――次こそは、わたしを思い出してくれますか?

 ――三度目の正直……って言うんですよね。
 ――わたし、信じていますから。

 ――だから、わたしが死んだ時も、また泣いてくれますか?
 ――思い出すって、約束してくれますか?

 ――ねえ、





 ――耕一さん。





           痕拾遺録 第十二話「鬼が夢見て」





 ひゅん。
 ひゅん、ひゅんっ。

 風を切る音が、聞こえる。
 ――これは……夢?
 そう、夢。
 もう何百年も昔の。
 あの人といっしょにいた頃の。
 懐かしい、そして戻れない、夢。

『何をしているの、ジローエモン?』
『おお、エディフェルか。いや何、身体が鈍ってはいかんのでな。武術の訓練だよ』
『……ブジュツ?』
『ああ、刀を振るう技、無手で敵を屠る技……知らぬのか?』

 ――ふるふる。

『そうか……まあ、鍛錬をする虎などおらん、か』
 そう言って、あの人は苦笑を浮かべた。
 そうして、ジローエモンがまた「ブジュツ」の訓練を始める。
 刀を振り下ろし、横に払い、また切り上げる。
 ジローエモンの無骨な手が、まるで宙に絵を描くかのように、くるくると器用に刀を
舞わせる。
 まるで、一差しの舞を見ているかのような――そんな、光景だった。
 その様を、魅入られたかのように私が見つめる。
 美し、かった。
『なあ、エディフェル』
 暫くの時が過ぎて。
 ジローエモンが、私の方を見て手招きをした。
『見ているばかりでなく、お前もやってみぬか?』
『私が……?』
『ああ。まあ、何の役に立たんとも限らぬしな……』
 思えば、この時既に、彼は気づいていたのかもしれない。
 いくさの予感……ダリエリたちが、私たちを許さないであろうことに。
 だからこそ教えてくれたのだと、そう思うのは自惚れだろうか?
『かまわないけれど……』
『そうか。それでは、使い勝手のよい技の二、三も学んでみるか』
 近づいてきたジローエモンが、私の手をそっと取る。
 私の後ろに立ち、両の腕を取って、
『まずは、な……』
 そうして。

 ――ぽたり。

 涙の雫が、頬に落ちた。





「え……?」
 夢が、遠ざかっていく。
 あの人の笑顔が、二人で暮らした山が、ささやかな幸せが。
 瞬く間に、記憶の底に消えていく。
 ――待って。
 叫びは儚く、届かない。
 ――もう少しだけ、もう少しだけ居させて。
 ――夢の中に。
 ――あの人の居る所に。
 願いは虚しく、消えていく。
 そうして、世界は色を取り戻す。
 色褪せた夢に変わって、血生臭い現実が、楓の周りに浮かび出る。

 ――ぽたり。
 ――ぽたり。

 最初に顕れた現実は、頬に落ちる涙であった。
「エディフェル……ごめんよぉ、エディフェルゥ……」
 誰かに抱き締められている。
 その感覚に、嬉しさよりもおぞましさを感じて、楓は全身を総毛立たせた。
「なあ、エディフェルゥ……こんなことするつもりじゃなかったんだよぉ……」
 ――嫌だ。
 ――この声は、嫌だ。
 ――聞きたい。
 ――あの人の、声が。
「目を開けてくれよぉ、エディフェル……それで、いっしょにレザムに帰ろぉ、な?」
 腫れ上がった瞼を、努力して開く。
 感覚まで麻痺したのか、痛みはなかった。
「あ……あああああああっ、よかったあああ、エディフェルゥゥゥ!」
 僅かにぼやける視界の中で、一人の男が泣きじゃくっている。
 とても、つい先刻彼女を痛めつけた男と同一人物とは思えないほどに。
 ――これが、エルクゥだ。
 全身を嫌悪が走り抜ける。
「なあ、またレザムで仲良く暮らそうぜぇ……大丈夫だよ、俺が取りなしてやるから、なぁ……」
 この涙は、そら涙ではあるまい。
 エディフェルへの想いも、真に家族を想ってのものだろう。
 今、このエルクゥ……いや鬼は、エディフェルを想って、エディフェルの為に、涙を
流している。
 そこに、嘘はない。
 だが。
 だが、それだけだ。
 その想いは、『今』のもの。
 怒りに我を忘れれば、それも忘れて血に狂う。
 それが、エルクゥだった。
 それが、鬼だった。
 血に餓えれば、妻をも殺す。
 怒りが募れば、子すらも引き裂く。
 ずっと、そうして生きてきて。
 ずっと、そうして狩ってきて。
 あの時、あの場所で、初めてそうでない想いを知った。

『お前に殺されるならば、悪くない――』

 羨ましかった。
 そんな風に、愛されてみたかった。
 そんな風に、愛してみたかった。
 生まれて初めて、己が一族に嫌悪を感じた。
 怒りよりも、血の性よりも、熱い想い――
 そうして、焦がれるほどに愛し合ってみたかった。

 だから。

 だから、自分は。

「なぁ、エディフェル……また狩猟の日々に戻ろうぜぇ……」
「……か……ない……」
 呟いた楓の爪が、ぎりりと音を立てて伸びる。
「え?」
「……かえ……い」
 その手が、探るように男の背中に回される。
「おい、エディフェル?」
「……わたし、は……」
 そうして、心臓の上で止まった指は。

「……かえれないっ!」

『――お前も、人間の生き方になれねばな』

「――っ!!」
 びくん、と身体が跳ねる。
 ――だめ。
 ――これでは、だめ。
「かえれ、ない……どういうことだっ、エディフェル!!」
 男が、楓の両腕を掴んで詰め寄る。
 だが、反抗すべき楓の手は、その下で急速に人間のものへと姿を変えていった。

『この武術というものは、人間の歴史の積み重ねと言ってもよいものでな』

「答えろ、エディフェルッ! 貴様、ニンゲンなどに肩入れするつもりかっ!」
「――違います」
 血走った目。
 人の限りを越えて伸び続ける、凶悪な牙。
 それを静かに見据えながら、楓は男の半面にそっと掌をあてがった。
 醜い姿を隠すように。
 ……或いは。
 醜い己が見えないように。

『鬼の歴史は狩猟の歴史……とか言うておったな。その伝で言うなら……』

「わたしは――」

『人の歴史は……』



「――人間。柏木、楓です――」

『同族殺しの歴史よ――』



 ぱぢゅっ。
 軽い、音だった。
 楓の右拳が、左手の甲を打った音は。
 その下で、男の目の玉が打ち抜かれた音は。
 そして、男の脳が、砕けた音は。
「がっ……?」
 何が起こったのか分からないまま、男の喉から呻きが漏れる。
 楓の掌に隠されていなかった左目が、ぐるりと白目を剥いた。
 左の手を打った衝撃は、その下に抑えられた目玉を抜け、その奥にある薄い骨を砕いて
脳を傷つける。
 眼底砕き、と呼ばれる技法であった。
 人の歴史が産んだ、鬼には知り得ぬ、わざであった。
 ――ずんっ。
 朽木が倒れるような音を立てて、男の身体が地に崩折れる。
 その鼻から、耳から、鮮血を流しながら。
 その固まった腕から苦労して身体を引き剥がして、楓は立ち上がった。
 その瞳から、涙がこぼれる。
 ――情けない。
 自身の不甲斐なさが、許せなかった。
 鬼の力を拒みながら、エディフェルの記憶に頼る自分が、どうしようもなく惨めだった。

 ――わたしは、エディフェルであってはいけないのに。

 強く噛みしめた唇から、血が滲む。



 柏木耕一は、柏木初音を愛している。

 エディフェルは、次郎衛門を愛している。

 ゆえに、柏木楓はエディフェルであってはならない。

 柏木楓が、柏木耕一を愛していてはならない。



 ――この想いはエディフェルのものであって、柏木楓のものであってはならない。



 とても簡単な理屈だった。
 そして、とても惨めな理屈だった。

 足を引きずるように歩いていた楓の身体が、ふらりと揺れた。
 平衡を失った身体が、糸の切れた人形のように地面に転がる。
 なんだか、酷く疲れきっていた。
 意識が闇の中に引きずり込まれていくのが分かる。
 その中で、楓の意識は、たった一つの光景だけを思い続けていた。





 目の前で、耕一さんが泣いている。

 ――今度も、泣いてくれますか?
 ――今度も、呼んでくれますか?

 ――わたしの名前を呼んで、
 ――死ぬなって叫んでくれますか?

 ――ねえ。

 ――あなたが忘れてしまっても、
 ――わたしは絶対に忘れませんから。

 ――だから、次こそは。

 ――次に会う時は、誰より早く思い出してくれますよね?
 ――リネットよりも前に、わたしを見つけてくれますよね?

 ――そうして、今度こそ。

 ――今度こそ、二人で幸せになれますよね?



 ――ずっと、ずっと、待っていますから……




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