痕拾遺録 第十一話「鬼が拒んで」  投稿者:ギャラ


 柏木耕一が意識を取り戻した時。
 そこは、墨を溶かしたような、闇の世界だった。

「……ここは?」
「久しいな、俺」

 周囲を見回す耕一の目に、野太い男の声が届く。
 荒削りで、獰猛で。
 そして何処か痛々しい。
 そんな、男の声だった。

「……それとも、我が子孫とでも呼んだ方がいいか?」
「……誰だ、あんたは」
「俺はお前だ。そして、お前の先祖でもある。リズエル達から聞いたのだろう?
 ……俺が、次郎衛門だよ」

 男の声はあくまでも静かで。
 それが、却って真実味を増していた。
 おそらく、それは真実だろう――とすれば、ここは己の心の中か。
 その事に思い至って、耕一は慄然とした。
 ――今は、気を失っている場合ではない。

「もちろんだ」

 その思いを読んだかのように、次郎衛門が告げる。

「だから――」





「俺と代われ。柏木耕一」





         痕拾遺録 第十一話「鬼が拒んで」



「う……」
 ――ぴちゃん。
 顔の上に、冷たい感覚。
 その一滴で、楓は目を覚ました。
「……気がついたか」
 地面に寝かされている楓の枕元で、男の声がする。
 声に聞き覚えはあるが、月明かりの下、逆行となって顔は見えない。
「こう、いちさ……?」
「……気がついたなら、早く起きろ」
 楓の掠れ声など意にも介さず、男は立ち上がった。

「――エディフェル」

 ――がばっ!
 その呼びかけが、一気に記憶を心の奥底から引きずり出す。
 楓は勢いよく跳ね起き、その勢いのまま転がるようにして男から距離をとった。
 声に聞き覚えがあるのも道理。
 男は、彼女の従兄弟だった。
 ただし。
 ただし――柏木楓の、ではなく。
「……どうした、エディフェル?」
 楓が、追い詰められた猫の眼で、男を睨む。
 その口が震えながら、一つの言葉を紡いだ。
「――義兄さま」
 と。
 その男は――かつて、エディフェルの従兄弟として生を受けたエルクゥだった。



「こ……」
 一時唖然とした耕一の口が、怒りに震えていた。
「断る!」
「……何故だ?」
 次郎衛門の口調は揺るがない。
 忌々しいほどに。
「俺は……俺だ! 柏木耕一だ! 鬼の血が何だ、前世が何だってんだ! 初音ちゃんは
 そのせいであんな目に……そんな物にこれ以上振り回されてたまるか!」
「……如何に拒もうと、現実は消えぬ」
「やかましいっ! 俺は人間だ、柏木耕一だ! ジローエモンなんか知ったことか!」
 耕一の口調が、速く、荒々しくなっていく。
 だが、それが追い詰められた者の狂熱であることに、彼自身気づいてはいなかったのだろうか。
「親父も、叔父さんも、千鶴さんも、梓も、楓ちゃんも、そして初音ちゃんも! なんで
 そんなワケの分からないことで苦しまなくちゃならないんだっ!」
 ――はあっ、はあっ、はあっ。
 闇の中に、耕一の荒い息遣いだけが響く。
 其処に、沈黙が訪れていた。
 やがて。
「……よかろう」
 ぼそり、と次郎衛門の声が届く。
「ならば、人として生きるがいい……今はまだ、な」
「今は、じゃないさ……」
 耕一の答えに、微かな笑いの波動がざわめく。
 それが苦笑であるように感じたのは、耕一の勘違いであったろうか。
「まあ、いい……ならば俺は、眠るとしよう……」
「ああ……」
「ただ、最後に一つ、鬼からの贈り物だ。エディフェル……いや、楓と言ったか。
 そこより西に三十間といった所にいる」
 そこで、不意に声の調子が変わった。
 親しげな、人としての暖かさを持った声に、凶気と怒気が満ちる。

「――助けてやれ」

「言われるまでもない!」
 そう、怒鳴り返して――
 耕一は、自分が目覚めていることに、気がついた。



 ――くく、くく、くく。
 男の――エルクゥの喉が、引きつれた様な音を発した。
 本人は笑い声のつもりなのだろうそれを漏らしながら、男の目が楓の身体をなぞる。
「まだ、そう呼んでくれるのか……?」
 嘲笑とも、歓喜とも、懇願ともとれる音。
「本当に、久しぶりだな……エディフェル」
 男の目が、すうっと細くなった。
 まるで、幼い妹を見る兄のように。
 対する楓の目は、脅えと後悔に彩られている。
 呼ぶべきではない――呼んではならない呼び方だった。
 その想いが、強い悔いとなって楓の心に傷を与える。
「エディフェル……?」
「違い、ます……」
 訝しげに問う男に。
 辛うじて、声を絞り出す。
「わたしは、柏木楓、です……エディフェルじゃ、あり、ません……」
「……何を言っている?」
 男が怪訝そうに眉を顰める。
「わたしはエディフェルじゃ……ないんです」
 楓は、自分の身体を抱くようにして、首を横に何度も振った。
 まるで子供に戻ったように、言葉が思いつかない。
 ただ。
 ただ、その事だけは否定しなければ――
 その思いだけが、頭の中を駆け回っていた。
「……ああ、そうか」
 ぽん、と。
 男が手を打ち合わせた。
「お前、まだ記憶が戻っていないんだな? まったく、もう十数年は生きているんだろうが……
 何をやっているんだか」
 呆れたように言って、男が楓に近づいてくる。
 そうして、その両手を楓の頭を包むように伸ばし、
「そう脅えるな。すぐに終わ……」
「いやあっ!」
 ――ざしゅっ!
「ぐっ……!?」
 鋭く呻いて、男が手を引き戻す。
 その手首の上辺りから、鮮血が静かに滴っていた。
 そして。
 鬼の爪と化した、楓の指先からも、それはまた――
「何のつもりだ、エディフェル!」
「あ……」
 放心したように己が指を見ていた楓の目に、光が戻る。
 それに呼応するように、指先が鬼の――エルクゥのそれから、人間のものへと変わる。
「ち……ちがう……」
 その手を胸に押しつけるようにして、楓は首を振った。
 幼児がいやいやをする、まさにその仕草で。
「何が違う!」
「わたしは柏木楓です! エディフェルなんて知りませんっ!」
 血を吐くような、叫びが。
「知らないんです……知ってちゃいけないんです……」
 涙とともに、ぼろぼろとこぼれる。
 何をすればいいのか、何をしなければならないのか――
 それさえも分からないまま、ただ否定し続ける。
「わたしは、わたしは……」
 何を言いたいのか。
 何が言いたかったのか――
 それは、彼女自身にも分かりはしなかったが。
 ただ、叫ばずにはいられなかった。
「わたしは――!」
「やかましいっ!」
 ずどぅ。
 鈍い音とともに、衝撃が下腹部を突き上げる。
 痛みは、それから一瞬遅れて来た。
「かぁ――っ!?」
 自分の身に何が起こったのか、理解もできないまま転がる楓の頭を、エルクゥの足が踏み
しだく。
「巫山戯るな、エディフェル……記憶は戻っているんだろう?」
「わ、わた、し、は……」
 言いかけた楓の腹を、残る片足が打ち抜いた。
 ぐぅ、という呻きとも何ともつかぬ音が、楓の喉から漏れる。
「俺は、従姉妹の縁に免じて、お前を助けてやりたいと思ってるんだぞ……お前を!
 『ニンゲン』なんて滓の血を皇族に混ぜようとしたお前を! 誇りもなくし、そんな塵
 みたいな身体に生まれ変わったお前をだ!」
 叫ぶうちに情が激したのか、エルクゥの足に力が籠もっていく。
 楓の頭蓋が、みしりと嫌な音をたてた。
「ぐ……がっ」
「それを――それを! ワケの分からないことばっかりくっちゃべりやがって! 何だ、その
 『カシワギカエデ』ってのは! あぁ!? それが名前か! そんな狂った名前がお前の
 名前かっ!」
「か……かはっ……ぁ」
「答えろ、エディフェル! ――答えねえかぁ!」
 がしっ――と音がして、楓の頭が宙に舞った。
 そのまま、身体ごと吹き飛ばされて地面の上に叩きつけられる。
 エルクゥは、声も出せぬまま息を荒げる楓の髪を掴み、そのまま力任せに持ち上げた。
 その腕は、いつの間にかニンゲンに近いものではなく、「鬼」のものになっている。
「なあ、エディフェル……気の迷いなんだろ? ニンゲンなんかに惚れるわけないよなぁ?」
 息がかかりそうな距離で、牙の生えた口が囁く。
 朦朧とした視界の中、それを目に納め――楓は、静かに答えた。
「わたしは……人間、柏木楓です――」
 瞬間。
 楓の視界の中で、地面が急激に大きくなった。
 意識が飛ぶ瞬間まで、痛みは感じられなかった。



「お兄ちゃん……?」
「ん……」
 耕一が目を覚ました時、最初に目に飛び込んできたのは、不安げに揺れる金色の髪であった。
「初音、ちゃん……?」
 夢から醒めた時特有の、何か大事なことを忘れているような感覚に顔をしかめる。
 一体、何を忘れているのだったか……
「そうだ、楓ちゃんは!?」
「楓お姉ちゃん? 見てないけど……何処か他の所に落ちたんじゃない?」
 耕一の焦った問いに、初音が緊迫感の欠けた口調で答える。
 ――そう言えば、初音ちゃんは先刻まで気絶してたのか……
 その事に歯噛みしながらも、説明する暇が惜しく、立ち上がって辺りを見回す。
 だが、耕一の目ではそれらしい痕跡の一つも見分けることは出来なかった。
「お兄ちゃん、どうしたの……?」
 おそるおそる、といった口調で初音が問うてくる。
 視線を辺りに放ったまま、それに答えようとして。
 ――ニシだ。
「っ!」
 突然走った頭痛に、頭を抑える。
 ――ニシだ。
 ――ニシに向かえ。
 ――カシワギコウイチ。
 何かが頭の中で喚いている。
 不思議と反発は覚えなかった。
 ただ、自分でも奇妙なほど、西に向かわなくては――という強迫感に襲われる。
「初音ちゃん、西だ……」
「え?」
「そっちに、楓ちゃんがいる……さらわれたんだ」
「ええっ!?」
 驚いた声をあげる初音の腕を掴み、半ば引きずるように歩き出す。
 ――西に。西に。西に……
 その時の耕一の頭の中には、ただそれだけしか浮かんでいなかった。
 楓の顔と、もう一人。
 見知らぬ女の顔が浮かんでは消える。
 熱にうかされたような形相で歩む耕一は、そのままならば間もなく楓の許へ着いたかも
しれないが……
「――忠告は昨夜済ませたはずよな」
 それは、中断を余儀なくされた。
「――裏切り者リネット。そして、名も知らぬ若者よ……貴殿らの覚悟、伺いたい」
 『紫』と呼ばれる、刀を携えた鬼の出現によって。




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