痕拾遺録第十話「鬼が嘆いて」  投稿者:ギャラ


「……ル」

 こえが、きこえる。

「……ェル」

 なつかしい、こえ。

「……フェル」

 あたたかい、こえ。

「……ィフェル」

 だけど、とおいこえ。

「……ディフェル」

 まって。

「……ん」

 いかないで。

「……ちゃん」

 いかないで、ください。


 ――ジローエモン。


        痕拾遺録第十話「鬼が嘆いて」


「……楓ちゃん!」
 不意に。
 霧が風に吹き払われるように唐突に、目が覚めた。
 誰かが、顔を覗き込んでいる。
 見覚えのある――いや、忘れられない、男の顔。
「……ジローエモン……」
「え?」
 男の顔が、不審げに歪む。
 それを、目にした途端。
 すうっと、心が冷えた。
「……いえ、何でもありません」
 ゆっくりと、身体を起こす。
 男の目を見ないように、顔を俯けて。
「……耕一さん……」
 呟く声は、底冷えのする冷たさで。
 けれど、何処か湿ってもいる。
 そんな風に、感じられた。


「……ところで、ここは?」
「それが、分からないんだ」
 楓の問いに、耕一が沈痛な面持ちで頭を振った。
「多分、上から滑り落ちてきたんだとは思うけど……」
 そう言って耕一が示す斜面には、確かに何かが滑落してきたような跡があった。
 どうやら、ここは山の斜面の途中にある、張り出し棚のような場所であるらしい。
 周囲に、彼女ら二人以外の人影は見当たらない。
 ――二人、きり。
 ふと。
 心にそんな想いが湧いて、楓は己を戒めるように唇を噛みしめた。
 そんな事は、思ってはならない。
 何故なら。
 何故なら――

 ――ワタシハ、エラバレナカッタ……

 ずきり。
 胸が、痛む。

 ――ドウシテ。
 ――ドウシテ……コンナニマッタノニ。

 胸の奥で、『誰か』が騒ぐ。
 ぎり。
 自分でも気づかぬうちに、楓の手は己の胸を握りしめていた。
 ――黙って。
 ――黙って、お願い。
 ぎりり。
 掌に力が籠もる。
 地べたに座り込んだまま。
 左の手が伸び、地面に食い込んだ。
 ――お願い、黙って。
 ――『私』は『あなた』じゃない――
「――楓ちゃん?」
 声が、聞こえた。
 顔を上げると、耕一が心配そうに自分を見ているのが分かった。
 そして。
 そして、その後ろには――


 最初から、気づいていたのかもしれない。
 見落とす程、小さくはないはずだから。
 それでも今まで気づかなかったのは……心の何処かで、拒んでいたから。
 けれど。
 けれど、もう――拒みきれない。


「耕一、さん……」
 楓が、呟く。
 涙に濡れた顔で。
 そして、それに続く言葉は――
 ――やっぱり、そうなんですね。
 ――わたしが一番じゃ、ないんですね……
「楓ちゃん! 何処か痛いのかい?」
 ふるふる。
「だけど……!」
 耕一が心配そうな顔を見せる。

 その背に、初音を負ったままで。

 初音は、眠っている。
 いや、気を失っているのか。
 どちらにせよ、死んでいないことは確かだ。
 それなら……同じことだ。
 どちらにしても。
「……大丈夫、ですから」
 そんな事を考える自分が、汚らわしくて。
「でも、そんなに泣いて……」
「少し、不安になっただけですから」
 そんな事を考える自分が、疎ましくて。
「本当に……大丈夫ですから」
 楓は。
 添えられた耕一の手を、そっと……けれどはっきりと、引き離した。
 ――だから、私に優しくしないで下さい。
 その言葉を口に乗せることは、出来なかったけれど。


 耕一と、楓と、初音と。
 そこには三人もの『鬼の血』の持ち主がいながら、誰一人として充分な警戒をして
いなかった。
 耕一は、己の力を使いこなせないが為に。
 初音は、意識を失っているが為に。
 そして、楓は、心を千々に乱しているが為に。
 だから、誰も気がつかなかった。
 その鬼が、近づいていることに。
「……懐かしい気配だと思えば、お前だったか。エディフェル……」
 木々の梢に隠れるように潜む、一匹の鬼に。
 『藍』の名で呼ばれるそれが、かつてエディフェルに、リネットに近しい存在であった
にも関わらず。


 楓が落ち着くのを待って、耕一はゆっくりと立ち上がった。
「さて。それで、これからどうするかだけど……」
「……はい」
「千鶴さんたちの居場所も分からないし、とりあえずさっきの場所に戻ってみようと思うん
 だけど……」
 そう言いながら、耕一は自分たちが滑落してきたと思しい斜面に目をやって渋面になった。
これを登るのは――贔屓目に言っても、楽な仕事ではなさそうだ。
「あの……耕一さん」
「うん?」
「姉さんたちなら……鬼の精神感応で、大体の場所は分かりますけど……」
 そう口にした、その途端。
 ――ひぅっ。
 楓は、思わず息を呑んだ。
 耕一の顔を……そこに浮かぶ表情を、見てしまったから。
「…………いや、それは不味い。鬼の力を使って、もし相手の鬼たちに気づかれたら……」
「……そう、ですね……」
 違う。
 そんなものは、建前だ。
 楓は、そう悟っていた。
 何故なら。
 今の一瞬、耕一の顔に浮かんだのは。
 ――嫌悪。いや、憎悪。
 鬼の血に対する、深刻極まる憎しみだった。
 それが、まるで鬼の血を引く自分にも向けられているような気がして。
 だから、楓はそれ以上言うことが出来なかった。
 結論から言ってしまえば、その選択は間違いだったのだろうが。
「じゃあ……楓ちゃん、先に登ってくれるかい? 俺は後から登るから」
「あ……はい」
 ショートパンツとは言え、下から見上げられることに躊躇いがないではなかったが、
落ちた時には庇おうという耕一の心遣いが嬉しかった。
 ――これくらいなら、甘えてもいいですよね……?
 調子がよすぎるかもしれないと思いながら、胸の中でそっと呟く。
 そして、斜面に手をついて足掛かりを探そうとした――
 その瞬間、だった。

 ずざあ。

 頭上で、突然葉鳴りの音が響いた。
 続いて、見上げる暇もなく首筋に衝撃が走る。
「え……」
 とさっ。
 軽い音を立てて、楓の身体が地に横たわる。
 その横に降り立ったのは――
 それは、真紅に輝く眼をした、男だった。
「なっ……!」
 絶句する耕一を後目に、男は楓の身体を軽々と担ぎ上げる。
 その途中、男の目が耕一の姿を捉えたが――
 そこには、何の感慨も浮かばなかった。
 まるで、人間が蟻の姿を、気にもとめないように。
「お前、楓ちゃんをどうする気だっ!」
「ん……?」
 耕一の怒気の込もった叫びを受けて、初めて男が反応を見せた。
 だが、その目はあくまでも冷ややかで。
「黙れ、下等動物」
 呟く声にも、一片の感情も込もっていない。
 その態度に耕一の怒気が膨れ上がるが、男はまるで気にした様子もなかった。
「このっ……!」
「邪魔だ」
 がっ!
 殴りかかった耕一に対して、男は軽く腕で払った。
 片腕で楓を抱えたまま、空いた左手を振った、ただそれだけ。
 ただそれだけだが――
 それだけのことが、恐るべき結果をもたらした。
 決して小柄とは言えない耕一の身体が、まるで紙の人形のように軽々と吹き飛ばされる。
 めきり。
 肋が折れる嫌な感覚。
 それは、錯覚だったのかもしれない。
 しれないが――それでも、確かに感じたと、耕一はそう思った。
「ぐがっ……!」
 身体を捻って背中の初音を庇ったせいで、胸から地面に落ち、肋に激痛が走る。
 痛みと呼吸困難に足掻く耕一。
「……?」
 その様子を……正確には、その背中の初音を眺めていた男の眉がしかめられる。
「リネット、か……」
 ぼそり。
 男の口から、呟きが漏れた。
 その目が、しばし迷うように宙を彷徨う。
 だが。
「……まあ、いい」
 そう、呟きを残して。
 男の姿は、闇の中へ溶け去っていった。


 そして、後には。
「く……くそうっ……くそうっ……くそうっ……くそう……くそう……くそう……!」
 ただ、耕一の血を吐くような呟きだけが。
「くそうっ……くそうっ……くそうっ……くそうっ……くそう……くそう……くそう……!」
 深い、昏い、怒りを込めて。
 闇に包まれた山の中、殷々と響き続けていた――



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