死んで、いた。 死んで、いるはずだった。 首はあらぬ方向に折れ曲がり。 目鼻から血を吹き出し。 胸から骨が突き出して。 死んで、いるに決まっていた。 けれど。 死んで、いなかった。 その<鬼>は―― 痕拾遺録第九話「鬼が巡って」 くふふふふ。 鬼が。 否、その骸が。 喉から笑いを発した。 「そう怯えるな、アズ坊や。流石にこの様では爪も振れぬて」 宥めるように手を振ろうとして――それが砕けていることに気づいたか、腕を下ろす。 「……驚いたよ。まさか、そこまでしぶといとはね……」 「主も、もう五、六度も死ねば出来るようになるわな」 ひょいっ、と半ば砕けた体で器用に肩をすくめてみせる”蒼”。 「なりたくもないけどね……」 そう言いながら、乾いた唇をそっと舌で湿らせようとして。 梓は、自分がまだ<鬼>の姿でいることに気がついた。 「かはぁぁぁ……」 呼気とともに、全身を力が抜ける感覚が襲う。 ぼろぼろと、皮膚や爪が崩れて落ちていった。 「……ふぅ」 残骸を振り捨てて、軽く息を吐く。 「やはり、その方が見目良いのぅ」 「……ありがと」 素っ気なく告げると、蒼の顔が奇妙に歪んだ。 いや。 笑って、みせたのか。 「……ありがと」 もう一度、告げる。 蒼は、顔を歪めたまま、ぎくしゃくとした動きで、手近な切り株に腰掛けた。 「……良い、月じゃな……」 空を仰いで、ぼそりと呟いた。 「……ああ、そうだね……」 梓も、同じ様に月を仰ぐ。 そして、ふと思いついて、蒼の下へと歩み寄った。 何の気負いもなく背を向け、その足下へ寄りかかるように座り込む。 もう、脅威は感じなかった。 「……懐かしいの」 それは、彼女が死にかかっているからではなく。 「……そうだね」 殺気が消えているからでもなく。 「……レザムの<月>も美しいが……ここもなかなかよな」 勝てると驕ったからでもなく。 「……あたしは、どっちも好きだよ……」 ただ、思い出したから。 「……大婆ちゃん」 彼女が、己の祖母であったと。 前世で幼い頃、幾度となく抱いてくれたのだと。 「……」 「……」 言葉もなく、ただ時が流れる。 ――手加減してくれたのか? そんな疑問は、もう口には出せなかった。 この時間が。 この暖かさが。 それを聞いた途端、崩れると。 そう、思ったから。 「のぅ……アズ坊」 「ああ……」 「ニンゲンは、楽しいか……?」 ぼそぼそと、言葉が漏れる。 それを聞くだけで、よく分かった。 もう<エルクゥ>が身体から離れかかっていることが。 「さあ……だけど、あたしは楽しんでるよ」 「そうか……」 「六十年だか七十年だか生きて、それで終わるんだ。それで――また、零から始まるんだ。 だからかな……楽しいのは」 「……なれるかの、儂も……」 最早聞き取ることも難しい言葉が、たどたどしくこぼれ。 「……待ってるよ」 呟いた梓の頭に、ぽんと手が置かれた。 ――ああ、あたたかいな―― そう、思った。 それは、手の暖かさでなかったかもしれない。 それは、こぼれる血の暖かさであったのかもしれない。 それでも。 暖かいことに変わりはなく。 「……じゃあ、またな。大婆ちゃん……」 梓が目を細める。 そして、頭の上に――重みがかかった。 力の抜けた手の、重みが。 泣くべきところでは、なかった。 狩猟者としては。 静かに送るべきところ、であった。 エルクゥとしては。 死は、永遠の別れではなく――輪廻の輪への、旅立ちに過ぎないのだから。 だから。 これは、涙じゃない。 梓は、そう思った。 否。 そう決めた。 頬を伝うものは、流れた血だと――そう、決めたのだ。