痕拾遺録第八話「鬼が微笑って」 投稿者:ギャラ
 ふらり……。
 闇の中で、なお黒い影が。
「――血が、血が、香る。声が、散る……命の炎が、咲いて散る……」
 愛しげ、とさえ言える調子で口ずさむ。
 ゆらゆらと、たゆたうように身体を揺らす”黒”を見つめて、”白”の名を持つエルクゥは
誰にともなく願った。

 ――死ぬのが、エディフェルではありませんように、と。

 ――エディフェルを殺すのは、自分でありますように、と。

 神にでもなく。
 仏にでもなく。
 何に向かってかも分からないまま――ただ、一心に願った。



         痕拾遺録第八話「鬼が微笑って」



 ごぶり。
 口元から、血が零れる。
 肉を貫く爪の感触を感じながら、千鶴は腕に力を込めた。
 ごぶり。
 一際大きく、血が零れる。
「あ……」
 そう呟いたのは、自分か彼女か。
 ――いや、きっと自分だろう。
 彼女の口は――声をあげられる状態ではない。
 ごぶり。
 また、血が零れる。
 ”碧”を名乗る、鬼の口から。
「リズ、えル、さ、マ……」
 弱々しく口が動き、碧がようやく言葉を発した。
 つい先刻、絶叫をあげた口とは思えないほどにそれは弱々しくて。
 ――泣いたら、少しは楽になれるかな。
 そんな思いが、千鶴の頭をよぎっていた。



 ――応応応応応っ!
 雄叫びが、轟く。
 自分の中の何かを、振り払うかのように。
 そして、そのまま、思い切り腕を振り回した。
 がぎっ!
 肉と肉がぶつかり合う鈍い音。
 それが耳に届いたと、意識するより早く。
 梓は、”蒼”に向かって大きく踏み出していた。
「ごめんっ、大婆ちゃんっ!」
 頭の中に浮かぶ顔……父と叔父の面影を打ち砕くかのように、拳を真っ直ぐ突き出す。
 二人の顔が、砕け散るのが感じられた。
 だが。
 ――ふわり。
 突然の浮遊感。
 そして、衝撃。
 どんっ!
「くはっ……!」
 樹木に叩きつけられた背中から、鈍痛が走った。
「それが、主の答えか…………阿呆が」
 梓の腕をとって投げ飛ばした姿勢のまま、逆さまになった背中が呟く。
 どんな顔をしているのか――梓の位置から、窺い知ることは出来なかったが。
「ならば、もう孫とは思わぬぞ……」
 ずるずると、樹から身体がずり落ちる。
 下になっていた頭が、ごつんと音をたてて地面にぶつかった。



「お見事……ですわ」
 ずるりと爪が抜ける。
 胸から血を流したまま数歩後ずさり、碧が唇に微笑を湛えた。
「不意打ちも出来ないとは……我ながら、嫌に、なりますわね……」
 つい先刻の狂乱が嘘のように、碧の様子はすっかり落ち着いていた。
 頭に昇っていた血が流れ出たから、というわけでもないだろうが。
「さすが、は……次期皇帝とまで、言われた……リズエル様ですわ、ね……」
 苦しそうな、途切れ途切れの口調でありながら、何処か楽しそうに碧が呟く。
「――私に、そんな資格はありませんから」
「……?」
 ぽつりと漏れた千鶴の言葉に、碧が無言で眉を寄せる。
 暫しの沈黙。
 そして、
「私は、ただの”姉”なんです――とても、愚かな――」
 吹き抜けた風が、血の匂いをたっぷりと含んで、また何処かへ去っていく。
 それが、この場には、どうしようもなく相応しく感じられて。
 千鶴は、微かに己が身を震わせた。



「あたしも、遠慮はしない……」
 梓が、立ち上がる。
 背中に走る痛みは、十分無視し得る程度のものだった。
「あたしは……」
 どくん。
 前屈みになった身体が、大きく脈打つ。
「アズエルだけど……」
 どくん。
 一回り身体が膨れ上がり、その表面を外皮が覆う。
「……だけど、梓でもあって……」
 どくん。
 爪が伸び、足下の地面が陥没する。
「……柏木家の次女、なんだよっ!」
 どくんっ!
 最後に一度、脈打って――<人間>は、そこから姿を消した。
 そこにいるのは、一匹の鬼。
 ……狩猟者形態への変化。
 女性の身でありながら、それを可能とする者も皆無ではない。
 だが、それは珍しいと言えるだろう。
 特に、それが二鬼もいて、相争うとあれば。
「……左様か」
 ばきっ、と音をたてて、碧の足の下で枝が砕けた。
 人の腕ほどの太さの、枝が。
「ならば、儂もレザムの長老として、主を喰らおうて……」
 梓よりは小柄ながら、威圧感では勝るとも劣らない。
 そんな鬼が、ゆっくりと爪を構えた。
「一度死んで、頭を冷やしてくるがよかろうて……」
「そっちが、ね……」
 全てが死に絶えたように静かな森の中、二匹の鬼が静かに向き合う。
 その間で、鬼気が重苦しく渦を巻いて。
「――死ねえっ!」
「――応っ!」
 そして、炸裂した。



 二人の女性が、立っていた。
 一人は、先を迷うように。
 一人は、先を促すように。
 黙ったまま、ただ立っていた。
「……けほっ」
 軽い咳が出る。
 だが、それとともに零れた血は。
 決して、軽くはない量だった。
「あ……」
 それが合図となったように、静寂が崩れる。
 迷っていた女性が、ようやく口を開いた。
「エディフェルが、あの子が”裏切った”時……手を下したのは、私でした」
 震える手を、目の前にかざす。
 そう。
 あの時も、こんな風に手は真っ赤に汚れていた。
「皇家の一員として、当然の義務だと思っていました……せめて私の手で葬ることが、
 最後の情けだと、そう思っていました……」
 何の拍子か、手についた血が飛んだ。
 それは、千鶴の目の下を汚し。
「だけど、あの子を手にかけて、ようやく気づいたんです……」
 その顔を、まるで泣き顔のように見せていた。
「レザムなんて、同族なんて、どうでもよかったんだって……」



「かふっ……!」
 たった、一撃。
 それに、梓は全てを賭けるつもりだった。
 戦闘経験において劣る自分が勝つには、それしかないと、そう信じたから。
 そして、梓は。
 ――賭けに、勝った。
 蒼の身体が宙を舞い、ぼろ雑巾のようになって地面に叩きつけられる。
 その身体が元の姿に戻っていくにつれて、命の気配が衰えていくのが分かった。
 だが。
「……どういう、ことだ……?」
 本当に、勝ったのか。
 そんな疑問が、梓の頭にこびり付いていた。
 先刻の一瞬、蒼の爪の方が速かったように思ったのだが……。
 だが、答えを与えるべき者は、もういない。
 だから、梓は、その骸に向かって呟くしかなかった。
「手加減、したのか……?」
 くふふ……っ。
「!?」
 梓の眼が、見開かれる。
 ――死んだ、はずだ。
 それが、最初の思考だった。
「死んだ、はずだ……」
 言葉にしてみる。
 だが、それは消えることもなく。
 ぎょろり。
 血塗れの顔の中で、目玉が動いた。
「十度も死ねばな、この程度の芸は出来るものじゃて……」
 目玉が、梓を捉える。
 否、捕らえる、と言うべきか。
 蛇に見入られた蛙のように、身動きもとれないまま。
 梓は、立ち上がった蒼の姿を凝然と見つめていた。
 首が折れ、血にまみれた、姿を。



「笑っていたんです……彼らは」
 千鶴の独白は続く。
「これで懸念はなくなったって……狩猟を続けようって……。
 笑って、いたんです……エディフェルは、死んだのに……彼らは、笑っていたんです……」
 ゆらり、と千鶴の顔が上がる。
 それを見た碧は、己の身体がどうしようもなく震えていることに気がついた。
 怖い。
 こわい。
 コワイ。
 それは、さながら梓と蒼の逆写しのように。
 碧は、千鶴に圧倒され。
 そして、魅入られていた。
「それで、気がついたんです……。わたしは、姉だったんだって……。
 妹たちが幸せなら、それだけで良かったんだって……」
 びくり。
 碧の身体が、大きく震える。
 これ以上、聞いてはいけない。
 そう、思った。
 聞けば、何かが壊れる。
 そう、感じた。
 けれど。
 けれど――。
「だから、エディフェルが生まれ変わった時のために……もう一度、やり直せるように……
 人間との共存を訴えたんです……。
 同族の破滅なんて、どうでもよかった……」
「あ……」
 壊れた。
 壊れて、しまった。
 夢が。
 憧れが。
 リズエルという、エルクゥ最高の女性への憧憬が――音をたてて、砕け散った。
「そう、でしたの……」
 だが、悲しくはなかった。
 否。
 歓喜のみが、そこにあった。
 何故なら。
 リズエルへの憧れが壊れて――新たなるものが、生まれたから。
 この、千鶴というニンゲンは――リズエル以上に、素晴らしい。
 ただ、最後に、一つだけ。
「質問させていただいて、よろしい、ですかしら……?」
 千鶴が、無言で頷く。
「わたくしは、どうやら死にそうですけれど……詫びの一つも、いただけませんの?」
「……詫びは、しません」
 はっきりと、千鶴が口を開いた。
「詫びれば、過ちと認めることになりますから……。わたしにとって、あの娘たちのために
 他者を殺すことは、正義。だから、詫びはしません。
 殺すべき相手を殺したと、告げます……。胸を、張って」
 それが本心かどうか、凍りついた仮面は、その正否も窺わせない。
 だが、そう口にしたというだけで。
 碧にとっては、十分であった。
「……お見事」
 にこり。
 碧の顔に、笑みが浮かぶ。
 最高の、笑みが。
 そして。
「次の世で……」
 何を、告げようとしたのか。
 その続きが、千鶴の耳に届くより、早く。
 その身体は、道を離れ、木々の織りなす闇の中へ墜ちていった。
 最後に、血の匂いだけを残して。
 ぎり。
 千鶴の唇から、血が漏れる。
「ごめ……」
 だが、噛みしめた唇の間から漏れた言葉は、それだけで。
 それ以上は、言わなかった。
 そして、言えなかった。
 ただ、漏れた僅かな血の滴だけが。
 ぽたりと、地面に滴った。

 それが。
 それだけが――
 千鶴に許された、全てであったから。