ももとせに、ひととせたらぬ…… 投稿者:ギャラ
「じゃあ、次、マルチ来て」
「あ、はい」
 長瀬主任に呼ばれて、マルチがとことことメンテナンス・ルームに入る。
 入れ替わりに出てきたセリオは、椅子の上に見慣れない本が置いてあることに気がついた。
「――パスカル?」
 工学の最先端とも言うべき来栖川電工の開発室には似つかわしくない、それは、人間存在に
ついて記された哲学書であった。



 話は、三日前に遡る。
 その日、マルチは掃除を終えて、TVの前に座り込んでいた。
 ――立派な主婦っていうのは、昼間はワイドショーとか見てゴロゴロしてるもんよ。
 前日遊びに来ていた、志保の言葉が頭の中に甦る。
 ――わいどしょー、ですか。
 主婦がそうするのならば、メイドロボとしてもやはり見習わねばなるまい。
 それが志保の冗談だとも知らず、マルチは少しずれた使命感に燃えてTVのチャンネルを
捻った。
「……えぇーっと」
 チャンネルを変えるたび、様々な番組が画面に映る。
「……あれ?」
 今度は新聞を広げて、TV欄を注意深く見つめる。
「……わいどしょー、今日はお休みなんでしょうか?」
 「ワイドショー」という名前の番組があるわけではないのだが、そうと知らないマルチは
腕を組んで考え込んだ。
「……仕方ありません。今日はごろごろはやめです〜」
 そう言えば、まだ朝使った食器を洗っていなかったはずだ。
 マルチは立ち上がって、TVを消そうとスイッチに手を伸ばした。
 ちょうど、その時。
『メイドロボが心を持つなんて、ナンセンスですよ!』
「……え?」
 耳に飛び込んできた言葉が、動きを止める。
 マルチは何かに見入られたかのように、TVの画面を見つめたまま動かなくなった。
『だいたい、あれは機械でしょう? 心を持った機械なんて、いつ暴れ出すか分からない。
 危険だし、第一気持ち悪いじゃないですか!』
『そういう人間中心主義が独善的だって言うんです! 身体が機械で出来ていようが肉で
 出来ていようが、たったそれだけの違いで価値が変わるとでも言うんですか?』
 それは、最近進歩の著しいメイドロボの――特にプログラム、或いは心についての討論番組で
あった。
 曰く、あれらの反応はどれだけ人間味があろうとプログラムされたものに過ぎない。
 曰く、人間の心も外部からの刺激によって長い時間をかけてプログラムされたものであり、
本質的な差異はない。
 曰く、人間に対する服従を刷り込まれたものを人間と対等と見なすのは、偽善的な自己満足
にすぎない。
 曰く、人間ではない「心を持ったもの」の誕生は人類に新しい可能性を示してくれるはずで
ある。
 曰く。
 曰く。
 曰く。
「……」
 様々な意見が飛び交う。
 もしここに倫理学者がいれば「社会倫理と個人倫理の混同」と切って捨てたであろうそれは、
単に個々人の嗜好の押しつけ合い――感情的ながなりあいに過ぎなかった。
 だが。
 だが、それでも――
 その日。
 マルチは本屋に出かけ、さんざん悩んだ挙げ句、初めて自分のためだけに金を使った。



「……とまあ、そんなわけでマルチは悩んでるらしいんですな」
 そう言って、長瀬主任はさも旨そうに煙草の煙を吐き出した。
「……」
「源五郎!」
「あ、失礼。煙草はお嫌いで? ……え、嬉しそうに見えますか?」
 話し相手が顔を僅かに――本当に僅かにしかめたまま頷くのを見て、彼はその長い顎を
撫でまわした。
「そうですね……嬉しくないと言えば嘘になりますか。私たちの娘が、そこまで成長したって
 ことですからね」
「……」
「は? 手助け、ですか? ……私たちは科学者であって、哲学者じゃありませんからね。
 こういった問題には何とも……」
「……」
「え? お嬢様が? ……ええ、それは勿論かまいませんが」
「お嬢様! そのような事に関わっておられる場合ではありませんぞ。そもそも、そのような
 詰まらぬ事で悩むなど、精神の鍛錬が足りぬ証拠でございます!」
「……親父らしいと言うか何と言うか……」
「黙っておれ、源五郎!」
「……」
「は? ですが、お嬢様!」
「……」
 ふるふる。
 微かに、けれど決然たる意志を込めて首を振る。
 こうと決めた時の、彼女の意志の強さを知っているだけに――こうなると執事は、黙って
頷くしかなかった。
「……」
 女性が軽く会釈し、席を立つ。
 その背中を追おうとして――執事は未だ茫洋とした風の息子の顔を睨みつけた。
「お嬢様に詰まらぬ事を吹き込みおって、このドラ息子が!」
「……そりゃないでしょうが。そもそも、墓参りの日程の話し合いに、わざわざお嬢様を
 連れてきたのは親父の方でしょうに」
「それはお嬢様が、お迎えの最中に寄ってもよいと……ええい、もういい!」
 憤然とした様子で、足音も荒く去っていく。
 その背中が見えなくなってから、長瀬主任はもう一度煙草に口を寄せた。
「自分の心、ねえ……私らが考えちゃいかん分野なんだよなあ……」
 吐き出された煙は、天井の隅にわだかまって、漂い続けていた。



「はわぁ〜……」
 巨大な――それこそ、大の大人が十人くらい並んで通れそうな廊下を歩きながら、マルチは
口を大きく開けて周りを見回していた。
 きょろきょろと動いていた視線が、目の前にある女性の背中に向いて止まる。
 来栖川芹香。
 それが、その女性の名前だった。
『なんか、先輩――来栖川芹香さんって、覚えてねぇか? お前が高校に来てた時、三年だった
 人なんだけどな。その人が、お前と話がしたいんだと。明日、俺はバイトがあるんだが……
 一人で大丈夫か?』
 昨晩の浩之の言葉が思い出される。
 覚えては、いた。
 だが、ほとんど面識はないに等しい相手だったし、何より今さら呼ばれる理由はまるで
思いつかなかった。
 彼女は、いっそ羨ましくなるくらい静かな動作で、自分の少し前を歩いている。
 どんな表情を浮かべているのか、こちらからは窺えなかった。
「あ、あの……」
 沈黙に耐えかねたマルチが、口を開こうとした、ちょうどその時。
「……」
 ――ここです。
 そう小さく呟いて、芹香はドアにそっと手をかけた。



 そこは、二言で言うなら、奇妙かつ雑然とした部屋だった。
 三言で言うなら、奇妙で、雑然としていて、けれど清潔な部屋だった。
 そして、一言で言うなら。
「……物置、ですか?」
 ふるふる。
 芹香が首を振る。
 だが、マルチの目にはそこは物置――それも、相当に奇妙な物置にしか見えなかった。
 古びた番傘がある。
 何百年前のものかも分からない提灯がある。
 棚の上で、雛人形が辺りを睥睨している。
 まだまだ、奇妙なものが沢山あった。
 どれもこれも古びている。
 そして、何よりも奇妙なことに。
「……何だか、誰かに見られてるような気がします〜」
 監視カメラとか、そういった類のものではない。
 もっと生気に満ちた、悪く言えば不気味な視線だ。

 ――ももとせに ひととせたらぬ つくもがみ――

「え?」
 マルチが振り向く。
 その目の前で、軽く目を閉じたまま、芹香はもう一度言葉を紡いだ。

 ――くじゅうとくねんたちければ ものにもかみがやどるべし――

 言の葉が、静かにマルチの心に染み込んでいく。
 それを見てとって、芹香はそっと問いかけた。

 ――自分に心があるのかどうか、不安なのですか――?

「……分かりません」
 マルチが俯いて首を振る。
「……ご主人様が幸せで、人間の皆さんが幸せで、わたしも幸せで……それでいいと思って
 いました。心があるかどうかなんて、気にしたこともありませんでした……」
 その目から、数滴の滴がしたたり落ちた。
「……でも」
 それ以上、続けられなかった。
 ただ嗚咽を漏らすマルチ。
 その手に、芹香の両手が柔らかく重ねられた。
「……」
「……心はあるって……どうして、そう言えるんですか?」
 しゃくり上げるマルチの頭を、芹香の手が優しく撫でる。
「……」
「……物には心があるから……ですか? でも……どうして……」

 ――「物」も「者」も「もの」なれば 心なき「もの」あるはずもなし――

 詠いあげるような調子で、芹香の口から言葉がすべり出る。
 決して大きくはないが、信じられないほどよく通る声だった。
「……?」
 マルチが、きょとんとした顔で目を丸くする。
 その腕をとって、芹香は部屋の中央へと進み出た。

 ――物は九十九年、猫は百年、人形は十年――

 ――全て心は宿るのです――

 ――ならば――

 ――何故、貴方は悩むのです――

 それは、錯覚であったのかもしれない。
 だが、確かにマルチには見えたのだ。

 番傘の柄に湛えられた笑いが。
 提灯の破れ目に込められた視線が。
 雛人形の唇に浮かべられた微笑みが。

 それは、錯覚であったのかもしれない。
 それでも。
 確かにマルチには見えたのだ――



 その夜。
 帰宅した浩之は、いつもと僅かに違う我が家の様子に首を傾げた。
「あ……ご主人様ぁ」
 ぱたぱたとマルチが出迎えに来る。
「……なあ、マルチ?」
「はい?」
 マルチはにこにことしている。
 いつもどおり――いや、いつも以上だ。
「なんか、今日、いつもより念入りに掃除してねえか?」
 そう言うと、マルチは本当に嬉しそうな、そして誇らしげな顔をした。
「はい! 感謝の印なんですぅ!」
「……感謝?」
 ――今日は何かあったっけか?
 浩之が首を捻っている間に、マルチは鞄を持って居間へと向かい――
 入る直前に、足を止めた。
「あ、そうでした」
 そして、振り返って。
「おかえりなさい!」

 ――おかえりなさい――

 その時。
 マルチの声に重なって誰か――或いは何かの声が聞こえたような、そんな気が、した。



 ちなみに。
 マルチの買ってきた本は、今では立派な鍋敷きとして、その職務を全うしているそうである。