痕拾遺録 第七話「鬼が崩れて」 投稿者:ギャラ
覚えてる方が少なそうなので、あらすじ。

 痕の初音ちゃんEDの後。
 レザムから地球へと来た九体の鬼は、ダリエリ達が既に転生に入り、今すぐ帰還することが
不可能であると知る。
 そのままならば、転生を待って帰還するだけであっただろうが、「狩猟」に出た鬼の数鬼が
柳川と遭遇。貴之を狩られた柳川は怒り、鬼達と戦う。その場では決着はつかなかったものの
「ニンゲンに味方するエルクゥ」の存在を知った彼らは、皇家四姉妹が存在する可能性に
思い至り、その排除に動き出した。
 一方、柏木家の人々は彼らとの和解は不可能と判断。彼らが「狩猟」を始める前に力ずくで
止める事を決意した。

 梓の完全覚醒、柳川との協力、鬼の襲撃による耕一の負傷を経て、ついに全面対決が勃発。
 柳川の邸もろともの自爆によりエルクゥは二鬼倒れたものの、戦いはまだ終わりそうもない……

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 山を登っていく、その後ろから、爆音が響いた。
 千鶴には、それが何処から聞こえてくる音なのか、振り向くまでもなく分かっていた。
「お、お姉ちゃん……家が……」
 初音の震える声が聞こえる。きっと、驚いて目に涙でもためているのだろう。
「大丈夫よ」
 振り向きもせずに、それだけを告げた。そのまま、足を止めずに山道を進む。
 しばらく逡巡していた四人が、再び歩き出したことを気配で悟って、千鶴はさらに足を速めた。
 ととと、と小走りの足音が聞こえる。
「千鶴姉。ひょっとして、柳川さんは……」
「気にすることはないわ」
 自分の横に並んだ梓に、できるだけ冷たく聞こえるよう、答えを返す。
 そう、彼女らは何も気にすることはない。
 全ての罪は、自分が背負うべきものだから。
 ぎり、と握りしめた拳から、僅かに血が滴る。
 掌に食い込んだ爪が、痛みを伝えてくる。
 だが、その痛みでは、心の痛みを誤魔化すことはできなかった。
 涙の代わりに血を滴らせながら、それでも千鶴は、許しを乞おうとは思わなかった。



 痕拾遺録 第七話「鬼が崩れて」



 その影に気がついたのは――やはりと言うべきか、楓が最初であった。
「……お待ちしていましたわ」
 まるで親しい客人を迎えるような、柔らかい声音が響く。
「思ったよりも早かったんですのね?」
「――そこを退きなさい」
「あらあら……せっかちですわね、リズエル様は」
 千鶴の凍てつくような声も、女性の柔らかい調子に絡め取られて、あえなく消える。
 とは言え、その柔らかさは針を含んだ真綿のそれであったが。
 くすくす、と笑いを漏らす。
「申し遅れましたわ。わたくし、”碧”と呼ばれておりますの。今後ともよろしく――」
「帰って、くれないか……?」
 小さな声がした。
 そこにいる全員の目が、一斉に声の主に向けられる。
 その視線を感じながら、耕一は噛みしめるように言葉を続けた。
「頼む……。俺は、鬼がどうとか、そんな事はどうでもいいんだ。ただ、俺たちの事なんか
 放っておいて帰ってくれるなら……」
 すうっと、碧の目が細められる。
「……仰りたい事は、それだけですの?」
 その目に浮かぶ光は、侮蔑か怒りか。
「……」
「それなら、こちらから申し上げる事は何もありませんわ。裏切った者は忘れても、裏切られた
 者は忘れない……そういう事ですわ」
 冷たく告げられたその言葉に、千鶴の顔に苦渋の色が浮かんだ。
「やはり、貴方達はそのために……」
「ええ。ダリエリ様達の救助も、目的ではありますけれど、ね――」
 くすり、と碧が笑いを零すと同時に。
 夜空を裂いて落ちた一筋の光が、彼らが一瞬前まで居た場所を、粉微塵に打ち砕いていた。



「……やはり、この程度でどうこう出来る様な方々ではありませんわねぇ」
 土煙の向こうから声が聞こえる。
 ズボンに付いた埃を払いながら、千鶴は冷然とした声で答えた。
「最初から、そのつもりだったのでしょう?」
 はっきりとした答えは無かったが、くすくすと笑い声が聞こえる。
 それが、何よりも明らかに相手の心の内を語っていた。
「一人ずつ、なぶるつもりですか?」
「まさか。わたくし達がそのような非道い事をすると思ってらっしゃいますの?」
 わざとらしく、心外そうな表情をして見せる。
 それに対して、千鶴の表情は動かない。冷たい、張り詰めた雰囲気を纏ったまま、静かに
睨み続ける。
 暫くして。
 碧の顔からも、拭い去るように表情が消えていった。
「――ただ、伺いたい事がありましたの」



 空から落ちてきた光を避けて跳び退いた時、梓は自分の判断が間違っていた事に気づいて
舌打ちした。
 一瞬の浮遊感の後、重力に引かれて身体が下降する。
 だが、その先には。
「――ちっ!」
 咄嗟の判断で身体を丸める。
 急斜面に叩きつけられた梓の身体は、そのままごろごろと転がり落ちていった。
 樹木や石が身体を撲つ。
 たっぷり一分近くも転がって、ようやく梓は平らな地面に落ちて止まった。
「まったく……ヨークの砲撃とはね。油断してたか?」
「――ほう。主が来たかえ、アズエルよ」
 近くの岩陰から聞こえた声に、反射的に立ち上がって拳を構える。
 だが、声の主は梓の殺気にも構わず、無造作に姿を見せた。
「誰か一人くらいは落ちてくるかと思うてはおったが、な」
「……?」
 梓の眉が顰められる。
 見た目は、せいぜい十歳くらいか。目が赤くなければ、可愛い女の子だと思っていたかも
しれない。
 だが、その気配は人間のものでは無く。
 何よりも、憶えのある気配だった。
 ……誰だったか。
 必死に記憶を探る梓の姿が可笑しいのか、鬼の少女はころころと笑い、
「忘れるとは少々冷たくないかえ――嬢や?」
 その言葉が。
 幼い頃から聞き続けてきた言葉が、梓の……いや、アズエルの記憶を一気に引きずり出す。
「大婆ちゃん!?」
 だから、梓には、驚きの声を上げる以外に出来る事はなかった。



「お分かりでしょう? わたくし達が何を伺いたいのか」
 ……分からない。
 そう偽る事は、簡単であったかもしれない。
 だが、それは出来なかった。
 エルクゥ同士の精神感応がどうとか……そんな理由ではなく、それは千鶴が、リズエルが
自ら望んで背負った十字架だったから。
「……ええ」
 静かに、頷く。
 こんな日が来るかもしれないと、覚悟はしていたはずだったのに。
 それでも、唇の震えを止める事は出来なかった。



「阿呆よな、主らは」
 大婆、と呼ばれた少女が切って捨てる。
 古い記憶が身体を金縛りにしようとするのを感じながら、梓は無理矢理に笑いを浮かべて
みせた。
「……そう思うかい?」
 にやり。
 ややぎこちないながらも笑えた事に安堵して、梓は言葉を続けた。
「けど、好きなように生きろってのは、あんたがよく言ってた言葉だろ、大婆ちゃん?」
「”蒼”と呼んで欲しいものじゃがな。この仕事の間は、そう呼ばれる事になっておるのよ。
 ……少なくとも、身体は主よりも若いしの」
「はっ、その言い草が年寄りくさいんだよ!」
 鼻で笑う。
 だが、その声の奥底に脅えが潜んでいる事を、梓自身が一番よく分かっていた。
 この少女は……蒼は、彼女の十倍以上の人生経験を積んでいるのだから。
「相変わらずじゃの、アズ嬢は。もう少し先祖を敬う事を覚えられんのか?」
「悪いね。けど、仲間を殺そうとするような一族を敬う気は無いよ」
「ふん……」
 今度は、蒼が鼻で笑う番だった。
「――主は、気づいておらんのじゃな」
「え?」
 嘲ると言うよりむしろ哀れむような蒼の口調に、梓の顔に戸惑った表情が浮かんだ。



「どうして、人間との共存を唱えたのか……でしょう?」
 千鶴の言葉に、碧は満面の笑みを浮かべて頷いた。
 その眼だけは、笑っていなかったが。
「それも、破滅すると分かっていながら……と付け加えておきますわね」
 その言葉を聞いて、千鶴が痛みを堪えるように顔をしかめる。
 その様子に、今度こそ完全に笑みを浮かべて、碧は山から見える街の灯に目をやった。
「あれから数百公転周期……狂った方は、どれ位いましたの? そして……」
 ぎりり。
 握りしめた千鶴の拳から、血が滴り落ちる。
 まるで、血の涙のように。
「――どれだけ、死にましたの?」



 蒼が不意に、寂しげな顔で目を伏せる。
 見た目とはそぐわない、年老いた寂寥を感じて、梓は息を飲んだ。
「狩猟者と獲物が共存するなぞ、所詮は夢物語じゃて……」
 嘆息しながら月を見上げる。
「何故なら、儂らは狩猟者じゃから。狩らずにはおれぬ生き物じゃから……」
 その横顔は、少女のそれではない。
 数えきれぬ程の年月を生きてきた、エルクゥの長老としての、生きることに倦み疲れた
横顔であった。
「情が移れば、辛くもなる。あくまで殺すまいとするなら……」
 視線が急に梓へと移る。
 貫くような鋭さと、諦めきった鈍さと。そんな二つを合わせ持つ視線に梓は動揺し、そして
動揺した自分に憤激した。
「――死ぬしかなかろうて」
 ぞくりと、梓の背中を何かが駆け下りた。



「――数えきれない位、死にました」
 心中を窺わせない冷たい表情で、千鶴が口にした。
「そしてまた、姉妹に、妻に……数えきれない位、殺されました。人間として死ぬために」
 千鶴の口調に、乱れはない。
 心の中がどうあれ、千鶴はそれを表に出す事はなかった。
「分かっていたのでしょう!? それ位の事は!」
 反対に、碧の口調は激しさを増していく。
 詫びて欲しい、などと思ってはいなかった。
 泣いて謝るなどと、考えた訳ではなかった。
 だが。
 だが、余りに冷たすぎるではないか。
 死んでいった同族達に対して、眉一筋動かさないなど。
「それなのに、どうして! どうして……ニンゲンとの共存などと、血迷った事を仰ったん
 ですの!?」
 碧は気づいていない。
 千鶴の拳から血が滴っている事に。
 自分が、リズエルへの憧れの反動として、必要以上に憤っている事に。
 そして、その事に、千鶴は気づいていた。
 だから。
「答えて下さい、リズエル様!」
「……もう、行きます。退いて下さい」
 だから、千鶴は、答える事が出来なかった。



「正直に言おう。この星に来た時、儂も迷うた」
 自分の手に目を落として、蒼がぽつりと呟く。
 その時になって、梓はようやく気がついた。
「……儂らと同じ外見の生き物を獲物と見てよいのか、と。死ぬ事なく転生を繰り返す儂らが、
 ニンゲンの一度の生を狩ってよいのか、と……」
 その手が、血に濡れている事に。
 かっと血が頭に昇る。
 だが、身体は動かない。
 ”梓”が怒り狂っても、”アズエル”は殴りかかる事を許さなかった。
「……じゃがな、所詮はニンゲンは獲物じゃよ。如何に見た目が似ておろうと、あれらは狩るべき
 獲物でなくてはならぬのよ」
 ゆらりと、蒼が立ち上がった。
 その手が梓、或いはアズエルに向かって差し延べられる。
 どちらに差し出された手なのかも分からないまま。
 ただ、人の血の臭いが鼻についた。
「同族の苦しみを見るくらいならば、ニンゲンを狩り殺した方が余程よい。じゃから……
 戻ってこい。我が孫よ――狩猟者の道へ」
 目の前で、真っ赤な手がゆらゆらと揺れる。
 記憶の中よりも遙かに小さくなってはいたが、それは、確かにかつて自分の頭を撫でて
くれた手に違いなかった。
 死を迎える前の、憔悴しきっていた父の手が。
 そして、自分達の為に家族と別れ、苦しみ続けていた叔父の手が、それに重なる。
「……」
 無言のまま、梓の手がふらふらと持ち上がった。



 背中で全ての言葉を拒絶したまま、千鶴は歩む。
「リズエル様!」
 碧の言葉は、最早届かない。
 かつて憧れ続けた背中が、皇族で最も優れた女性と謳われた彼女の背中がすぐそこに見えるのに、
それは果てしなく遠く感じられた。
 殺し尽くしたはずの感情が暴れ出し、持ち前の冷静さが崩れていく。
 その事が、碧自身、はっきりと感じられた。
「リズエル様っ!」
 彼女は、どう思っただろうか。
 千鶴も――リズエルも、崩れそうになる心を必死で堪え、ひびの入った仮面を泣きながら
支えていた事を知ったとしたら。
 だが、彼女がそれに気づく事はなく。
「――リズエル様あっ!!」
 ――届かぬならば、壊すしかない。
 碧の爪が、凶々しい光を放った。



 そして、二つの絶叫が響く。
 まるで一つであるかの様に、絡み合って。