痕拾遺録 第四話「鬼が目覚めて」 投稿者:ギャラ
 ……ん……
 頭が重い。
 頭の芯に砂でも詰め込まれたかのように朦朧とする意識。
 朧げな視界に、何か赤いものが見えた。
 地に倒れ伏す身体。
 真っ赤に映えるのは、そこから流れ出す血の色。
 それは、どこか見覚えのある風景。
 ・
 ・
 ・
 ……リズエル!?
 アズエルの意識は、その認識と同時に一気に覚醒した。


 痕拾遺録 第四話「鬼が目覚めて」


 ぴちゃり。ぴちゃり。
 降りしきる雨が頬を濡らしていく。
 真っ赤な雨だ。
 ……血の雨だ。
「……はぁ」
 少女は物憂げに溜息をついた。
 目の前で今だ血を吹き上げ続ける、さっきまで人間の女だったものを見つめる。
 生命の炎が、最後にかすかに揺らめいて消えゆくのが見えた。
 ……何の興も覚えない。
「何故にわしはこうしておるのやら……」
 ……魂も摩耗し、心も擦り切れた生物に、何故本能だけが残るのか。
 ……己の生命にすら倦んでいる者が、何故他者の生命を求めるのか。
 少女は、惚けたようにただ立ちつくしていた。
 その光景はまるで一幅の絵画のようで、その場には時間の流れが存在しないような、そんな
錯覚を見る者に覚えさせるほど、空虚な印象を抱えていた。
 ──だが、ここにも無粋な乱入者は存在した。
「……あ、”蒼”さーん! 探したよぉ!」
 元気そのもの、といった感じの声をあげながら、もう一人少女が現れた。
 年の頃は十三、四といったところだろうか。可愛い、と形容してもどこからも文句は
出ないだろう。……もっとも、その瞳を見なければ、の話だが。
 ……エルクゥ特有の金の瞳を。
「……あ……また、狩ってたんだ」
 新しく現れた少女が、首のない死体を見て複雑な表情になった。
 ”蒼”と呼ばれた方の少女は、先刻までの空虚な表情が嘘のように、嬉しげに笑った。
 ……いや、嘲笑った。
「捨ておけ。本能に従ごうたまでのことよ」
 ……知性なきけだもののようにな。
 心のどこかで誰かが嘲笑った。
「で、何用じゃ?」
 心中の声を無視して、蒼は尋ねた。
 それは、奇妙な光景と言えた。
 十歳にすら満たない少女が、ほんの数年とはいえ明らかに年上の少女に尊大とすら
言えそうな口調で問いかけているのだから。
 ……しかも、身に纏う雰囲気は、明らかに蒼──年下の少女の方が、遙かに老成して
いるのだから。
「あ、うん。えっとね、紫さんが帰ってきたから、一度帰ってくるようにって白さまが……」
「左様か……ご苦労なことよな」
 笑いを含んだ口調で呟くと、蒼は死体を無造作に片手で担ぎあげた。
「こんなに派手に狩っちゃって……また碧さんや灰お兄ちゃんが怒るよ?」
「要らぬ心配よの……あれらが怒るなどと、あるはずもないわ」
 溜息まじりの少女の言葉に、変わらぬ笑いを返した。──後半は聞こえないように声を
落として。
 そのまま大きく跳躍し、三跳びで中央公園を出た。
 跳び上がるために上を向いた途端、空に浮かびあがる真円の月が目に飛び込んできた。
 ……今宵は満月か。
 レザムと同じような月を見て、僅かに目を細めた。
 ……月の明るい日は、つまらぬことばかり考えてしまう。既に考えることなど諦めて
久しいというのに。
 ……これも月の魔力というものか。
 肩に担いだ死体の位置を直し、振り返ることなく跳び続ける。
 血に濡れた顔は、月の光の下で、まるで泣きじゃくった後のようにも見えた。



 目の前で、リズエルが倒れている。
 ──いや。殺されようとしている。
 アズエルの脳裏に、古い記憶がよみがえった。何百年も前の、古い、古い記憶だ。
 そう。
 あの時も、リズエルはこうして殺された。
 ニンゲンとの共存を望んだがために、裏切り者として。
 愛する妹の命を奪ってまで尽くした同族の手によって。
 ──もう、二度と。
 もう二度と、そんな事はさせない。
 ──絶対に!
「うあああああああああああああああっっっ!!」
 アズエルが吼えた。
 酷使された肺に激痛がはしり、喉の奥から熱いものがこみあげてくる。シャツが血に染まり、
口元からあふれた血が地面にこぼれ落ちる。
 だが、その痛みさえも心地よかった。
 全身を歓喜とともに力が駆けめぐる。
 久しく忘れていた感覚。
 ……自分の真の姿を取り戻す感覚!

 べきっ。べきべきっ。ばりっ。

 驚愕のためか動きを止めた鬼の目の前で、アズエルの身体が変化していった。
 身体が一回り膨れあがり、手に鋭い鉤爪が生える。
 胸の傷が、もりあがった筋肉によって塞がれる。
 そして……頭には誇らしげに伸びた二本の角。
 ──それが終わった時、そこには、もう一体の鬼が立っていた。
「グルルルル……」
 柳川が変化した鬼が唸りながら、アズエルとの距離をじりじりと詰めてきた。
「キサマ、カ……」
 憤怒に満ちた声で、奇妙な言葉を呟いた。
「キサマ、カァ!!」
 咆吼をあげ、柳川が一気に距離を詰めた。
 疾い。
 自分の身など考えもせず、ただ相手を殺すことだけを目的とした特攻だった。
 ──だが。

 がしぃっ!

 その柳川の攻撃を、アズエルは両手で受け止めていた。
 この程度の動きが見えもしなかった先刻までの自分が、どうしようもなく間抜けに思えてくる。
……さっきまではニンゲンだったのだから、仕方ないのだろうが。
「フン……!」
 柳川の両の手首を掴んだ両手に力を込める。
 柳川も、そのまま押し切ろうとするように両腕に力を込めてきた。
 ぎりっ、ぎりぎりっ……
 しばらく、そのままの状態で力比べが続く。
 押し負けたが最後、そのまま殺されかねない、命がけの力比べだ。
「クウウッ……!」
 アズエルの口から押し殺した苦鳴が漏れた。
 ゆっくりと、だが確実に、アズエルの方が押されつつある。
 ……まだ身体が本調子じゃないのか!?
 アズエルの心に焦りが浮かぶ。
 だが、それだけではないことにも気がついていた。
 この鬼──柳川が異常なのだ。
 柳川の手首は先程から握りしめられたままだ。いかにエルクゥが強靱とはいえ、アズエルの
力であれば骨にヒビが入っていても不思議はない。
 だが、柳川は痛みなど感じないかのように、ひたすら力をかけ続けてくる。
 それは、まさに狂気の沙汰であった。
 ……だからこそ、アズエルが押されているのだ。
 狂気の生み出す力に抗しきれずに。
「ガアアアアアッ!」
 アズエルが吼えた。
 だが、崩れはじめた均衡は戻らない。
 柳川の爪がアズエルの身体に迫り──

 ばしゅっ!

 血が飛沫をあげた。
 ……柳川の血が。
「……死留めることを忘れた、貴方の負けです」
 リズエルが、鬼の首筋に食い込ませた爪を引き抜いた。
 大きく開いた痕から血があふれ、柳川の身体から力が抜けていった。
 アズエルが先程受けた傷とは違い、エルクゥにとってすら命に関わりかねない程の深い
傷だった。
 安心したように、リズエルがよろけた。
 脚に重傷を負っているのだ。立って爪を振るえただけでも賞賛に値する。
「おっと。大丈夫かい、千鶴姉?」
 言ってから気がついた。
 奇妙な違和感。
 ……千鶴とは、誰だ?
 ……自分の目の前にいるのは、姉であるリズエル。「千鶴」などというものは、ニンゲン
として隠れ住む際の偽名でしかないはずだった。
 ならば、何故、自分の口から「偽名」が自然に飛び出したのだ?
(……疲れてんのかな、やっぱ)
 前世の記憶を取り戻してすぐに、戦闘形態に戻ったのだ。疲れない方が異常と言えるだろう。
 ニンゲンの姿に戻り、リズエルを抱え上げる。
「この傷じゃ、今夜はもう無理だな。帰ろっか」
 リズエルに苦笑を向けた。
 「そうしましょうか」などという反応を期待したのだが……
「え、そうね、そうなんだけど……」
 リズエルは目をそらしてごにょごにょ呟くだけだった。
「どうしたっての?」
「あ、あのね、梓。帰るのは、その、もちろんなんだけど……」
「だから、言いたいことがあるんだったらはっきり言えばいいだろ!?」
「えーっとね……」
 リズエルの視線が下を向いた。
 つられて自分も下を向く。
「あ……」
 赤面するのが自分でも分かった。
 戦闘形態になったということは、当然衣服などふきとんでいるわけで……
「エ、エディフェル! ごめん、服取ってきて!」
 悲鳴混じりの声は、自分でも恥ずかしくなるくらい情けなく聞こえた。



「そう……ご苦労さま」
 ヨークの中でも奥まった一室。
 紫の報告を受けた”白”は、軽く手を振って退室の合図を送った。どうせもうしばらく
すれば会議になるだろうが、少しの間でも一人になっておきたかった。
 無言のまま一礼して紫が立ち去った。
 一人部屋に残った白は、立ちつくしたまま、こみ上げる歓喜に身を委ねていた。
 ……リネットがこの時代に転生し、手の届くところで生きている。
 そのことが、例えようもなく嬉しかった。
 自分の腕の中でリネットの生命の炎が燃え尽きる様子を想像してみる。
 ……素晴らしかった。
 想像の炎ですらこれほど素晴らしいのだ。実際の炎は、何倍も美しいに違いない。
 ふふっ。ふふふっ。ふふふふふ……
 憎悪に身を焦がす鬼女は、それからしばらくの間、闇の中に笑い声を響かせ続けていた。
 葬送曲を奏でるかのように。