思いの乗る乗り物 投稿者:仮面慎太郎 投稿日:6月26日(月)00時29分
 「おぅ雅史、それじゃ先上がっとくぜ」
 「うん、それじゃ」
 学食を出た俺は、のろのろと教室を目指した。暖かくいい天気だ。できれば中庭辺
りで、一眠りといきたい所だな。
 教室に入ると、珍しくあかりが熱心に本を読んでいた。別にあかりは、本を全然読
まない、という訳ではないのだが、本の虫というタイプでも無い。基本的には、すす
められて手を出すタイプなのだ。だから、あいつの読んでいる本は当たりが多い。ほ
とんど本を読まない俺でも、あかりがすすめる本は読んで面白いと思う。なんという
かスラスラ読める。引き込まれるという奴か? まぁ、とにかく俺は本の感想をあか
りに聞きに言った。
 「よっ、あかり」
 あかりは本から目を上げて、俺を見つけると、「なーに、浩之ちゃん」と微笑んだ。
 「何読んでんだ?」
 「これね・・・」と言いながら、あかりは本の背表紙を俺の目線に持ってきて「手
話の本なの」と続けた。
 「手話ぁ? おまえどうしたんだよ」
 見ると<手話・初心者入門編>と書かれていた。
 「うんとね、この前の日曜日、お母さんと一緒にお料理学校の生徒さんに誘われて
 手話の舞台見に行ったの」
 手話の舞台・・・ そんなのがあるのか。しかし、あかりが手話の舞台ねぇ。
 「それがちょっといいなって思って・・・」
 手話か・・・ こいつはすぐに感化されるからな。でもまっ、特別興味があるわけ
じゃないけど、覚えておいても悪くないかな・・・ 
 「俺にもちょっと見せてくれよ」
 「うん。じゃあさ放課後図書室に行かない? もう一冊あったから」
 放課後か、特に用事もないな。俺はパラパラッとページをめくり「おう、いいぜ」
と答えた。しかし・・・
 「そんな面白そうな事なんで教えなかったんだよ」
 「えっ、あ、ごめん」
 「はは〜、わかったぞ。一人でマスターして、俺や雅史に自慢するつもりだったん
  だろ」
 少しふざけた口調で俺は言った。あかりもそれがわかったらしく「へへー、ばれち
ゃった」と笑いながら返した。
 「ばれちゃったじゃねーよ」
 「あっ」
 そう言って俺はポスッと、あかりの頭を軽く小突いた。


 放課後、俺はあかりと一緒に図書室に行った。図書室は予想以上に賑わっていた。
 よく見ると手話のほかに指文字や外国手話、空文字など色々な種類が所狭しと並ん
でいた。その中で俺はあかりと同じ本を取ってきて、さっそく始める事にした。
 「えーと、まずは挨拶だよな」
 やはり、こんにちは、さようならは覚えたい。
 「浩之ちゃん、浩之ちゃん」
 俺はあかりを見た。それを確認するとあかりは、右手を頭にもっていき、その後両
手の人差し指同志を折り曲げた。
 「・・・ なんだそりゃ」
 「へへへ、こんにちは、だよ」
 あれが<こんにちは>か。なかなか面倒くさいな・・・
 「えーとまず・・・ こうか」
 俺は頭に右手を乗せた。
 「違うよ浩之ちゃん。あのね、おでこの前でこう・・・」
 と人差し指と中指を立てて、忍者みたいにした。
 「それでね、次に・・・」
 今度は顔の前で人差し指同志をお辞儀させた。
 「これがこんにちは、だよ」
 ほほー、なるほど。なかなか難しいな。
 「よし、どっちが多く覚えられるか競争だ」
 「う、うん」
 こうして俺達は暗くなるまで勉強した。


 「すごいね浩之ちゃん。もうほとんど覚えちゃったの?」
 「へっ、まあな・・・」
 4、5日で、俺はあの本をマスターした。と、いっても基本的な挨拶と手話の歴史
とかだけなのだが・・・
 「やっぱり浩・・・」
 「浩之ちゃんはやれば出来るんだ、だろ」
 「えっ、うふふ・・・ うん」
 まったく・・・ あかりのそれは耳タコだ。テストのたびに聞いてる気がする。
 「ったく、ほら帰るぞ」
 「あっ、待って」
 俺は無視して校舎から出た。少し図書室にいたので、人の数はまばらになっていた。
 その時、校門の所でうろついている人影があった。ここのラフな私服で、どうやら
生徒ではないらしい。
 「どうしたの、浩之ちゃん」
 あかりが駆け寄ってきて尋ねた。
 「・・・なんでもねぇよ」
 そう行って歩き出そうとした所、さっきの人影が意を決したように校門をくぐった。
まだ若い女性のようだ。女性は困ったような顔をしてゆっくり歩いている。唐突に顔
を上げて俺達二人を見つけた。一瞬躊躇して声をかけてきた。
 「あの・・・」
 ずいぶん大げさな手振り。よく観ると両耳に補聴器らしき物を付けている。
 「あの、スミマセンが・・・」
 ゆっくりと、丁寧に発音してくる。ここはせっかく覚えた手話の出番だ。まさか使
うとは思わなかったが、やってみよう。
 「えーと・・・」
 パッパッパッ・・・ (こんにちは)
 すると女性は、ぱっと顔が明るくなり、「手、大丈夫、ですか?」と聞いてきた。
 パッパッパッ・・・ (どうかしましたか?)
 しかし、女性は少し困ったような顔をしてただけだった。
 「あれっ?」
 パッパッパッ・・・ (どうかしましたか?)
 「・・・なんの・・・ようです・・・か?」
 女性が聞き返してきた。あれっ、なんで伝わってないんだ? これであってるハズ
なのに・・・ 俺は仕方なく大きく頷いて答えた。
 「この、学校に、長瀬先生は、いますか?」
 長瀬・・・ 聞いた事がない。あかりを見ると、同じような顔でこちらを見ている
 「えーと・・・」
 困っていると後ろから「浩之さーん、神岸さーん!」という声が聞こえてきた。マ
ルチだ。
 「ハァハァ・・・ こんにちわー」
 こんな時間に帰るなんて、また掃除をやらされてたな・・・
 「こんにちわー」
 マルチは女性にも挨拶を忘れなかった。しかし、俺達が神妙にしていると、
 「あのっあのっ、どうかしたんですか?」
 と聞いてきた。
 「・・・この、学校に、長瀬先生は、まだ、いますか?」
 「長瀬先生ですかー」
 次の瞬間!
 「いいえ、長瀬先生という方は、こちらの学校には、おりません」
 と、なんと手話を使って話し出した。女性はパッと明るい顔になって、別の教師の
名前を聞いていた。
 俺は答えているマルチを見てハッとなった。俺はバカだ! 何をいい気になってい
たんだ! 何もわかってないじゃねぇか! 最低じゃねぇか! 何をしてるんだよ!
 マルチは相手の目を見ながら、一言一言に言葉をのせて伝えている。相手にわかっ
てもらおうとしている。それに比べたら俺はなんだ! ただ形だけを真似て! それ
じゃ伝わるわけねぇじゃねぇか! そもそも伝えようとすら、してないじゃないか! 
今だって女性はマルチの目を真剣に見続けている。
 話が終わったらしく、女性はこちらを見て「ありがとう」といって校舎に向かった。
 「浩之ちゃん?」
 「んっ、あぁ・・・」
 俺は、あかりとマルチに連れられるように校門から出た。


 「・・・それで、あの人なんて」
 帰り道、俺の第一声はそれだった。
 「はい、あの方は卒業生でして、就職が決まったので長瀬先生という方にご挨拶に
  きたそうです。残念ながらもう転勤されたようですけど・・・」
 「・・・」
 「マルチちゃんすごいのよ、先生の名前みんな覚えているの」
 「・・・」
 「浩之・・・ちゃん?」
 後悔していた。無茶苦茶後悔していた。なんて、バカだったんだ・・・
 「浩之ちゃん・・・」
 「マルチは・・・ すごいな」
 「えっ、あっ、あの」
 急にふられて妙な声を上げている。
 「すごいな、マルチは」
 「あ、ありがとうございますー。私、メイドロボとして一生懸命やりました」
 違う・・・ そうじゃない。人のことをそこまで考えて。精一杯その人の事を想っ
て。一生懸命伝えようとして・・・
 「浩之ちゃんもすごかったよ。私びっくりしちゃった」
 違う! 俺は結局みせびらかしたかっただけだ。相手の事も考えずに。
 「浩之さん」
 「・・・」
 「あの方、浩之さんの事、とてもうれしかったって言ってました」 
 「マルチ・・・」
 「マルチちゃん・・・」
 辺りは、もう真っ赤になっていて、俺達三人の長い影が、道の先まで伸びていた。
そりゃマルチは元々介護用ロボだから技術はあるだろう。でも、伝えるってのはそん
な事じゃないんだ。伝えるって事は、本当は物凄く難しいことなんだ。技術じゃなく、
心で伝える・・・ 俺もいつかできるかな・・・
 目の前の少女を見ながら、浩之はそう想った。