雫の痕 終章 〜しずくのあと しゅうしょう〜 投稿者: 五老志乃
 気が付くと、僕は暗闇に漂っていた。
『…さん…』
 誰だ?
 誰かが呼ぶ声がする。
『…さんって、お兄さんみたいだ…』
 誰だ、これは?
『…さん、これ、本当に撃てるんですか…』
 …これは僕に向けられた意識じゃない。
 これは…気付かなかった意識…
 戦いの緊張で、僕が気付く事の出来なかった誰かの意識…
 恐らくはこの場所に残った誰かの…
 意識を失い、何の防壁もなくなった僕の心の中に、誰かの意識が流れ込んで
いるんだ…
『…こいつ、俺を殺そうとしやがった…』
『…同僚との付き合いも大切だぞ…』
 これは…一体…
『…何だ、ちゃんと食べなきゃ駄目じゃないか…』
 これは…もしかして…
『…俺の…甥と姪…』
 耕一さんと…
『柏木…柏木耕一…キサマダケワ…キサマダケワァ!』
 これは…間違いない!
 鬼の意識だ。
 あの鬼の意識が、ここで呪詛のように念じていた残留意識が、僕の心の中に
流れ込んでいるんだ…
『…カユキ…タカユキ…タカユキ…』
 そしてその意識はいつしか一つに集まり…
『タカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキ
 タカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキ
 タカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキ
 タカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキタカユキ…!!!!』
 僕の瞳から、涙の雫が一つ、流れて落ちる。
『…貴之!!!!』
 鬼の残留意識は完全に僕の意識と同化して、そして、僕は、全てを知った…


 鬼達の戦いは続いていた。
 どちらも傷つき、そして苦しみ…
 もう良いよ…
 僕の瞳には、涙が溢れていた。
 僕の脳に集まったエネルギーが、一つの波長パターンを形成する。
 粒が帯になり、帯が波になる。

 止マレ…

 僕は、電波を使った。
 そして、鬼達の動きは止まる。
 耕一さんも、柏木さんも、そして遠い血筋の鬼―――柳川さんも…
 ぴくりとも動かない。
 ぴくりとも動けない。
 不思議そうな表情で立ち尽くす、三人の悲しい鬼達…
 柏木さんが、僕に気付いた。
「な、長瀬…さん?」
 驚愕の表情で僕を見る。
 その声に気付いた耕一さんも、柳川さんも、僕を見て驚いた。
 僕の周囲には、紫電が弾けているから。
 本来見えざるちからが、可視の域まで高められ、僕の周囲で弾けているのだ。

 僕は、高校の時に見た妄想の中にいるような気分だった。
 もうろうとした意識。
 身の毛のよだつような戦慄。
 圧倒的な力を持って、他人の生命をもてあそぶ、麻薬のような悦楽。
 僕の「ちから」…
 瑠璃子さんの教えてくれた、大切な「ちから」…
 その「ちから」が、目に見える程のエネルギーを持って、僕の周囲に集まっ
ているんだ。
「もう良いよ…」
 僕は、ぽつりと呟いた。
「もう、十分だよ…」
 僕の目からこぼれ落ちる涙は、一筋の流れとなり、僕の頬を伝って落ちる。
 新型の爆弾…
 世界を燃やし尽くし、破壊し尽くす…
 熱く、ねっとりとした殺りくの衝動…
 僕のその爆弾は、ゆっくりと、柳川さんへと傾き、そして流れていった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
 柳川さんの声が響いて…僕の電波は、彼の精神へと入り込む。目、耳、口、
皮膚、頭蓋骨…彼の身体のあらゆる場所から、僕の電波は浸透していった。
 僕の意識は、そして彼と同化する。
 僕の精神は、ゆっくりと、彼の精神世界へ入り込み…
 どんどんどんどん
 どんどんどんどん
 入っていく…心の中へ…


 眼鏡をかけた、気の強そうな男が独り、歩いている。
 暗闇の中、たった独りで…
 その足場は狭く、鋭い岩が刃物のように立っていた。
 その岩山を、男は裸足で歩いている。
 ザク、ザク
 ザク、ザク
 歩けば歩く程、上れば上る程、足場は狭まり、そして脚は傷と血にまみれる。
息も絶え絶えに、苦痛の表情を浮かべながら、しかし男は独り、黙って上り続
けていた。
「柳川さん…」
 僕は、その男に声をかけた。
 柳川さんは、その声に振り返り、僕を睨み付けた。
「何者だ…キサマ…」
 鋭い眼光。
 だが、僕はその瞳の中に、深い悲しみを見つけていた。
 この風景が伝えている。
 苦しくて、寂しくて、それでも他人を拒絶して…そして上を目指すことしか
知らない…
「貴之さんが、待っているよ。」
 僕は、柳川さんの質問には答えずに、そう言った。
 柳川さんの表情が、僅かに歪む。
「…貴之は、どこだ?」
 眼光が更に鋭さを増す。
 声に怒気が感じられる。
「…あそこに、いるよ。」
 僕は、切り立った崖の、その底を指さした。
 深い深い闇の底。
 僕はそこを指さした。
「あそこで、柳川さんが来るのを、ずっと待っているんだ…」
 僕の言葉に動揺する柳川さん。
 今まで被っていた冷徹な仮面が剥がれ、そして優しい、純粋な青年の素顔が
垣間見る。
「あんなところに、本当にいるのか?」
 半信半疑の声で、もう一度尋ねて来る。
「確かだよ。早く行ってあげてよ…」
 僕は笑みを浮かべる。
 満面の、笑み。
 柳川さんは未だ半信半疑のようだったが、しかし、それでも貴之さんの話を
無視出来ないのだろう。次第に、その足は断崖の底に向かって行く。
「早く、行ってあげて…」
 僕はもう一度そう言うと、柳川さんの背中をそっと押した。
 彼はもう振り返る事もなく、黙って歩みを進めていった。
 見れば、足の怪我は既に無く、そして歩く道は、柔らかなものへと変わって
いた。


 そして意識が戻る。
 僕は、人間に戻った柳川さんを母親のように抱き締めて、そして涙を流して
いた。
 彼の瞳はどんよりと濁り、深く沈む湖底の底を思わせた。
「長瀬…さん?」
 柏木さんの声が聞こえる。
 でも、僕はそれには答えなかった。
「…この人には、もう瑠璃子さんは居ないんだ…」
 深い孤独の中で生き続けた柳川さん。
 それを救ったのが、貴之さんだった。
 そして貴之さんも柳川さんに救われたんだ。
 まるで僕と瑠璃子さんのように…
 僕には、今も瑠璃子さんが居る。
 僕の心の中には、いつも瑠璃子さんが居る。
 でも…
「どんなに捜しても、柳川さんの瑠璃子さんは、もう、居ないんだ…」
 柳川さんは、貴之さんの死を認めることが出来なかった。
 だから、その現実から目を背けるために、耕一さんを憎んだ。
 そうしなければ、生きていく事が出来なかったから。
 でも…この現実には、もう貴之さんは居ない…
「…せめて瑠璃子さんと一緒に居た方が…良いんだ…」
 そう、柳川さんは、貴之さんの所へ行った。
 狂気の世界へと…
 柳川さんの瞳の光が次第に失われ、眠るように彼は、狂気の世界へと堕ちて
いった。



 屋上へと続く扉を開ける。
 重い、鉄で出来た灰色の扉。
 沈みかけた太陽が空いっぱいに広がり、瞳に入る全てのものを赤銅色に染め
ていた。
 鮮やかな赤い光が目にしみる。
 夕焼け空。
 灼熱の溶鉱炉からすくい上げたような太陽が、コンクリートの上に僕の影を
くっきりと映し出す。
 溶鉱炉の中の金属が、飴色になって熔け落ちるような、火花を連想させる、
線香花火の赤。綺麗で…鈍い赤。
 瑠璃子さんの色だ…
 僕は息を飲む。
 全てが赤い世界。
 赤く彩られた世界…
 僕は再び、この屋上へと足を運んだ。

 あの病院の中には、遺体があった。
 それは、白と言うには余りに黒い「白骨死体」。
 肉の色がこびり付いた、白骨死体だった。
 僕は知っていた。
 その死体は、二年前まで貴之と呼ばれていた事を。
 彼が、耕一さんと柳川さんとの戦いに巻き込まれ、そして死んだ事を…
 でも、何も言わなかった。
 柳川さんの事も、貴之さんの事も…そして柳川さんが、耕一さん達の『叔父』
と呼ばれる事も…
 耕一さん達は何も知らなくて良い。
 知ったところで悲しむだけだ。
 悲しむ人は、もう見たくない。
 悲しみの余り、苦しむ人は…

 事件が終わり、耕一さんは探偵生活に戻った。
 柏木さんは、大学生活の傍ら、その手伝いをしている。
 綾香さんは経営者として忙しく働き、芹香さんは魔道の探究に余念がない。
 柳川さんは…彼は来栖川の病院で、残りの一生を過ごすことになるだろう。
心の中に、貴之さんを連れながら…
 そして僕は…
 僕は、大学を休み、そしてここに居る。
 この屋上に。

『長瀬ちゃん、電波届いた?』

 そんな声が聞こえるような気がした。
「瑠璃子さん…」
 赤い、赤い世界。
 真っ赤な、瑠璃子さんの世界。
「瑠璃子さん…瑠璃子さんから貰ったちからは、悲しみをなくすためのちから
 だよね…」
 僕は誰とはなしに呟いた。
 瑠璃子さんが居ないのに生きていくのは、余りに悲しいものね…
 あれで、良かったんだよね…
 屋上に僕の言葉に応える人影はない。
 風が流れ、僕の体温を奪っていく。
 夕日の輪郭滲む。
 僕の瞳から、涙の雫が、一つ、また一つ…ゆっくりと流れて落ちる。
 今日だけで良いから…明日から、また歩いていけるから…今日だけは…

 僕は大声で泣き出した。
 涙はとどまることを知らず、次から次に溢れ出す。
 爆弾の炎の赤に包まれて、僕は、子供のように泣きじゃくった。
 夕日は、刺すように赤く、輝いていた。


               − 了 −

−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 ようやく終わりました。
 書き終えてみると、どうしても欠点が目に付きます。
 特に柳川と貴之の現状を説明しきれなかった、と言う点がどうしても…
 外伝風に書いてみようかな、とも思いましたがやめます。
 いずれ完全版をどこかで発表できれば、と今は思います。

 ご本人とは既にメールで意見を交換しているのですが、しもPN様の私への
感想の中に、批判をしても良いか、尋ねる文章がありました。それに対する返
答ですが、

 『誰でも、どんなものでも、批評・批判は大歓迎です』

 私は批評・批判には出来るだけ答えたいと思っています。ただ、このコーナ
ーはSSとその感想の為に開かれたコーナーなので、批評・批判はメールでし
てくれると嬉しく思います。可能な限り返答しますので。

 それでは再見。