雫の痕 七 〜しずくのあと なな〜 投稿者: 五老志乃
 風に揺られて青々とした木々がささやく。
 朝露が流れ落ち、清麗な雫となって地面に落ちる。
 日頃は有り得ぬ来訪者に怯え、鳥達が飛び立ち騒ぐ。
 耕一さんが、人の通らぬようになって久しい「元」道を切り開き、僕がその
後に続く。柏木さんに後方の守りを任せるのは男としてちょっと情けなかった
が、どう考えても僕より柏木さんの方が適任だ。
 今、僕達は深い山の中を進んでいた。

 鬼が去ったあの後、僕は病院のベットの上で目が覚めた。
 既に柏木さんと芹香さん、そして綾香さんは目覚めており、残り二人の被害
者―――耕一さんと源四郎さんも命に別状はない、と教えてくれた。特に耕一
さんは驚く程の回復力を見せ、普通なら助かるかも危うい傷を負っていながら、
二日の眠りの後目覚めた耕一さんには傷の痕跡すら見えなかった。鬼(柏木さ
んはエルクゥと呼んでいたが)の血のお陰だと、柏木さんは言っていた。
 耕一さんと柏木さんの話によると、あの鬼はかつて二人が倒した鬼の生き残
りの可能性が高い、と言う。ただし、以前からあれ程の力を持っていたとは考
えにくく、恐らくは何らかの原因でその真の力を覚醒させた鬼であろう、との
事だった。その根拠は、あの鬼が自らの意志で姿を変えた事だと言う。
 通常男の鬼はその内部に眠る意識に振り回され、本能のままに生きる野獣と
化す事が多く、己の意志で鬼になることは出来ないものだ、と言う。ましてや、
あの鬼のように目的を持って研究所を襲ったり、刑事に成り済まして進入する
という事はまず有り得ない、と。つまり、あの鬼が再び襲ってくる可能性は非
常に高い、と言う事だ。
 いつ襲われるか分からぬままで居るより、出来る事ならこちらから攻め込み
たい。普通、耕一さん達は柏木さんの力で鬼の居場所を捜すそうだが、あれ程
強い力を持った鬼は、その力の隠蔽能力も強く、柏木さんでも捜すことが出来
ないのだという。
 そんな僕等を見かね、芹香さんが協力を申し出てくれた。
 前準備もなく唱えたフラウロスの呪法により、芹香さんは立ち上がる事すら
困難な程に消耗していたのだが、無理を押して、芹香さんは「魔王オロバスの
呪法」を使ってくれた。鬼の残した衣服の一部を媒介に、魔王オロバスにその
存在を尋ねる呪法だという。

 そしてその答えに導かれ、僕達はこの山道を進んでいる。
 目指すは、この先にある病院。
 田舎に大病院を建てたは良いものの、周辺の人口が激減し、結局廃院になっ
たという、良く聞く話の病院だ。
 そこに、鬼が居る。
 僕は芹香さんに渡された護符・薬の類(たぐい)を山程身に付け、そしてそ
こを目指している。
 前を歩く、そして後ろに続く友人の為に。
 そして、これ以上の被害を、悲しみを防ぐ為に。
 僕達は、病院を目指した。


「まさかここまで来るとはな…」
 酷くよどんだ空間。
 重苦しい、神経の張りつめる空気。
 ぴりぴりと、大気の成分が直接僕の頭を刺激するような、そんな場所。
 奴は、そこで、病院の前で待っていた。
『エルクゥは互いの意識を信号化し伝え合うことができる』
 それは柏木さんの言葉。
 それは柏木さんが鬼を捜し出せる理由。
 鬼と鬼は、どこかで意識がつながっている。
 その力で僕達の接近に気付いたのだろう。
「…これ以上の危害は加えさせん…何があっても、だ!」
 奴は変化する。
 『鬼』に。
 憎悪の化身に。
 そしてそれに応じるように、耕一さんも変化する。
 闘志の化身に。
 そして柏木さんは優雅なる戦士に。
 その身を変える。
 戦いは、始まった。


 風が渦巻いた。
 鬼の突進に、風が巻いた。
 柏木さんが流れに乗ってその身を移し、鬼の視界から消える。
 耕一さんが突進を受け止めるべく、両の脚を大地に根ざす。
「…ウ…ォォォォォォン!!」
 鬼が吼え、右の拳が地面をえぐる。つぶてが宙を舞い、耕一さんの視界を隠
す―――それが狙い―――鬼はその力を利用して、己が肉体を宙にあげ、そし
て、耕一さんの姿は鬼の目の前にあった。
 耕一さんは鬼の動きを読み、そして動いた―――訳ではなかった。鬼の咄嗟
の動きを、恐らくは横に動いた柏木さんが伝えたのだ。その心の力で。
 耕一さんの腕が鬼の肩口を捉え、そのまま地面に叩き付ける。
 轟音と共に黒金の巨体が落下して、しかし鬼はその脚で大地を踏むと、再び
宙に跳んだ。
 狙いはもちろん耕一さんだ。重力に身を任せる耕一さんは、その攻撃をかわ
すことは出来ない。二つの影が交差して、鬼の一撃は確かに耕一さんの身体を
貫く、筈であった。
 だが、そこに三つ目の影が生まれる。
 柏木さんだ。
 柏木さんは耕一さんに飛びかかり、耕一さんは柏木さんの体を使い、二人は
本来有り得ぬ方向へと跳び去った。
 鬼の攻撃は虚しくも宙を裂き、そして攻守所を変えて、同じ光景が繰り広げ
られる。
 唯一異なったのは、鬼に柏木さんは居ないこと。
 つまり、鬼は耕一さんの鋭い爪を、まともに受けることになった。
 今度こそ鬼は地面に叩き付けられる。
「…凄い…」
 僕は思わず驚嘆の声を上げた。
 僕の役目は、二人のフォロー。
 二人が危ない時に、一時的に鬼の力を封じ込む、護符の力を解放すること。
 はたまたは、癒しを助けるこの液体を、二人の傷にかけること。
 魔術に造詣の浅い僕には、芹香さんのように鬼封じの呪法をかける事は出来
ない。また、完全に鬼の力を封じてしまっては、耕一さんと柏木さんの動きを
も封じてしまう。絶対的な力を持たぬ僕達にとって、それだけは避けねばなら
ない。故に、僕はフォローに徹するしかない。
 だが、今の状況はどうだ?
 耕一さんの鋼の爪は、少しずつ鬼の身体を傷付ける。
 もちろんそれは柏木さんの助けが有っての事だ。
 後に柏木さんに聞いたところに因れば、同じ状況下の耕一さんの動きを想像
すれば、大体の所は予想できたと、そう言っていた。奴と耕一さんには、どこ
か共通点があるのだと。
 だがその時の僕は、呆然と人外の戦いを見つめるしかなかった。

「負ケン…負ケン! 負ケン!!!」
 鬼が吼えた。
 大気が震える程に。
 それは全ての生き物を圧倒する、生物の頂点に立つ怪物の咆吼だった。
 その声に、僕は震えた。
 心が、怯えた。
 生き物全ての心、その奥底に眠る根元的な『恐怖』。
 人が暗闇を恐れるような、獣が炎を恐れるような、そんな『恐怖』。

『…タ…ユキ…』

 え?
 恐怖に震える僕の、頭のどこかで声が響いた。
 一瞬気を取られるが、目の前で繰り広げられる光景に、その声は次の瞬間、
既に僕の頭から離れていった。
 耕一さんも、柏木さんも、僕と同じ恐怖に縛られた。
 それは僕とは違い、ほんの一瞬でしかなかった。
 だが、死闘の最中では、正しく致命的な一瞬。
 鬼はその隙を見逃さず、必死の腕(かいな)を振り上げる。
 その一撃は、跳び去ろうとした耕一さんの、右のすねに食らい付いた。
 耕一さんの肉が弾け、紅い血潮が大地に降り注ぐ。
「…ッ…!」
「耕一さん…!」
 耕一さんの呻き声と、柏木さんの叫び声が、深山に響き渡る。
「…っ!」
 僕は、声にならない悲鳴を上げた。
 脚をやられた。
 尋常ならざる獣の戦いにおいて、それは絶対的な弱体化を意味する。
 僕は駆け出した。
 この薬を、この薬を耕一さんに渡さなきゃ。
 耕一さんを助けなきゃ。
 柏木さんと瞳があった。
 無言で頷く僕と柏木さん。
 二人の意識は同じもの。
 耕一さんを助けなきゃ。

 倒れる耕一さんに、鬼の腕が振り下ろされる。
 一発、二発、そしてまた…
 耕一さんは倒れながらもそれを受け止め、致命傷を避けようとする。
 一発、二発、そしてまた…
 だがいつまでも続くものではない。
 早く耕一さんを助けなきゃ!

 柏木さんが鬼に跳び、蹴りを打つ。
 鬼の気が柏木さんを一瞬向いて、そこで耕一さんの身体が跳ねて鬼を振り落
とす。
 僕がそこに駆け寄って、そして薬を渡そうと―――

 ブンッ!

 鬼の剛腕が、横に振られ―――その腕は、僕の肉体を、弾き飛ばした。
「長瀬さん!」
 柏木さんの声を聞きながら、僕は宙を舞った。
 激しい音と共に僕は地面に飛ばされて、そして意識を失った。

−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 最終話ものびました。故に二つに分けます。


   >悠 朔 様

   > 次で完結になるのでしょうか? 五の最後の部分、胸が痛かったです。
   > 結局誰が悪かったのでもなく、ただ何かを間違えてしまったから。
   > そう思ったから、祐介の叫びが悲しかった。
   > ああ、六で壊れないことを誓った祐介が私を責める……。

     八本目で一応完結です。まさかここまで続くとは…
     でも、本当の意味での完結ではなく、祐介、耕一、先輩の3キャラ
    による物語は、もう少し続きそうです。ただ、リーフとはかけ離れた
    ところで話が展開しそうなので、ホームページを作ったときにでもゆっ
    くり出していくつもりです。
     ところで痕で四姉妹が記憶を取り戻したら…耕一を含んだ五人は幸
    せになれるのでしょうか? 「キズアト−心の戦い−」の続き、楽し
    みに待っていますね。


   >AE 様

   > ああ、こういう祐介もあるんですね・・・(って、まだ未プレイな
   > んですが)。
   > 鬼を開放した耕一と対称的(と私は読んだのですが)なところが良
   > かったです。

     一応そう言う意図はありました。気付いてくれて嬉しいです。
     雫は「高橋・水無月作品」として原点となる作品だと思います。
    リーフ作品が好きなら、やって損はないと思います。
     私はTo HeartでSSは思いつかない人でしたが…AE様の
    作品(特に「恋する乙女は。」)について友人と話し合った際、ふと
    思いついた事があります。雫の痕が終わったら、書いてみようかと思っ
    ています。

 それでは再見。