雫の痕 六 〜しずくのあと ろく〜 投稿者: 五老志乃
 鬼と化した柳川は、耕一と対峙していた。
「楓ちゃん…皆を頼むよ…」
 真剣な声で、瞳を柳川に向けながら、耕一は言った。
 楓はその声に頷くと、憎悪の爆発によって倒れた来栖川の両のお嬢様と、う
ずくまる祐介に向かって駆け寄って行く。
 耕一の手が胸に掛かり、シャツのボタンを外していく。
 耕一さんもそのつもりなんだ、と楓は思った。
 当然だろう。
 今も感じる。
 この鬼は強い。
 今まで戦ったどの鬼よりも。
 人間のままの耕一さんで勝てるわけがない、と。
 憎悪は、時としてより強大な力を与える。この鬼は、どんなわけか知らない
が、耕一さんに対する憎悪で一杯だ。
 でも、耕一さんはきっと勝つ。
 今までだってそうだった。
 だからきっと勝つ。
 勝つよね、耕一さん―――
 それは楓の願い。
 だが、楓は願いを自信と感じていた。
 耕一さんはいつも勝つ、だから今度もきっと勝つ…
 それは楓自身も認めたがらぬ不安のせい。
 不安が、楓の冷静な心を奪っていた。
 不安を不安と感じれば、それが現実に起こるような…
 そんな考えが、楓の心に生まれていたのだ。
 楓の気持ちを理解しえぬまま、耕一は変化した。地上最強の生物『鬼』に―――

 吼えた。
 どちらの獣も吼え、そして跳んだ。
 二つの影が交わる瞬間互いの致命の一撃が飛び交い、そしてその衝撃のまま
に影は離れる。
 位置を変え、両者は再び対峙した。
 柳川の腕が伸び、耕一を狙う。
 耕一はそれを僅差でかわし、己が渾身の掌打を繰り出す。だが、柳川は突き
出される腕を取り、そして投げた。
 始めからこれを狙っていたのだろう。耕一は壁に激突し、崩れたそれの起こ
した煙が室内に充満する。
 その中心を狙い柳川は跳び、鋭い爪を振りかざす。倒れる耕一にそれをかわ
す術はなく、故に耕一はそれを受けた。
 衝撃に、耕一の両腕から血が飛び出る。だが、致命には程遠いかすり傷だ。
耕一はその両の拳を離すことなく、それを握り締めた。
 ぐぎゃ…
 柳川の拳が嫌な音を立てた。
 指は有らぬ方角を向き、そして血潮が飛び散る。
 やった、と楓は思った。
 だが、次の瞬間その思いは打ち砕かれる。
 柳川はそれを意にも介さず、そのまま肩越しに身体を叩き付け、そして鈍い
音が響いた。耕一の、肋骨の折れる音が。
 苦痛に、耕一は思わず手を離す。
 その隙を逃す柳川ではなく、潰れぬ腕が、耕一の胸板を襲った。
 瞬間、跳び下がった耕一だったが、肉が剥げ、そして血液が宙を舞った。
「耕一さん!!」
 楓の叫び、そして
「…グゥォォォォ!!」
 苦痛に悶える耕一の声が、重なった。
 楓は決意する。
 そして、楓の身体に変化が起こった。
 見た目は変わらぬのにも関わらず、空気が変わる。
 周囲の温度が幾らか下がったような、そんな気配だ。
 ミシッ…
 楓の足下が、重さにあえぐ。
 楓もなったのだ。
 『鬼』に。
 そして楓は柳川へと向かって行く。
 敵わぬと知りながら、耕一を護るために。


『…いまも…大好きだよ』
 声が聞こえる。
 瑠璃子さんの声だ。
『…いまも…大好きだよ』
 瑠璃子さんだ。
 瑠璃子さんは僕に生きていけ、と、そう言ったんだ。
『…いまも…大好きだよ』
 瑠璃子さんは望んでいない。
 僕が瑠璃子さんの所へ行くことを。
 瑠璃子さん…瑠璃子さん瑠璃子さん瑠璃子さん瑠璃子さん…

 瑠璃子さん!!!!

 瑠璃子さんを裏切るのはもうごめんだ!

 胸の鼓動の高鳴りが聞こえる。
 手に握る汗を感じる。
 そして何より、色彩がある!
 僕は、あの世界には行かなかった。


 気分が悪い。
 自分の身体が自分のものではないような、そんな気分だ。
 息を荒げながらも、自分を取り戻す。
 胃の腑の物を全て吐き出し、そして僕は眼前の光景に目をやった。
 そこにはあの夜見た獣の姿。
 否、あれ以上の威圧を持った、二匹の鬼の姿が見える。
 そして、その間に飛び交う柏木さんの姿が…
 互角の戦いだった。
 頬に傷のある鬼は、柏木さんと、それと協力して戦う鬼に対し、互角の戦い
を繰り広げている。
 あの鬼が、耕一さんなんだ。
 助けなきゃ。
 耕一さんが怪我してる。
 助けなきゃ。
 だが、腹の底から異物が吹き上がろうとするような嫌な感覚。
 頭の中で金槌を持った小人が暴れ回る。
 全く集中出来ない。
 ちからを使う事が出来ない。
 それでも僕は手を伸ばす。
 彼等を―――僕の友人達を助ける為に。


 来栖川芹香は、そんな祐介を見つめていた。

 私がこの力を使うのは、お爺様、両親、セバスチャン、そして綾香の為だ。
 誰も居なくて寂しいから、力を得た。
 力があるから、家族以外誰も近寄らなかった。
 もっと寂しくなったから、もっと力を身に付けた。
 力があるから寂しい。
 寂しいから力が欲しい。
 力があるから、私はずっと独りだった。

 私よりも力のある人が居る。
 でもこの人は独りじゃない。
 だって歩いているもの。
 誰かと一緒に歩いている。
 誰かと一緒に、前に進んでいるよ…

 倒れながらも、来栖川芹香は祐介を見つめていた。
 そして彼女はその身を起こす。
 体中に痛みが走るが、それ程気にならなかった。
 綾香を捜し、無事である事を確認すると、彼女は部屋の隅へと歩を進めた。
 痛む脚を引きずりながら、それでも確実に。
 その先には、水が流れ込む水槽がある。
 水槽はひび割れていたものの、その流れは未だ健在で、彼女は誰とは無しに、
コクリと頷くのであった。


 死闘は続く。

 鬼が跳躍から腕を振るう。
 耕一さんがそれを流す。
 柏木さんが鬼を踏み台に、天井へと跳ぶ。
 バランスの崩れた鬼に、後ろ手に耕一さんの爪が閃く。
 鬼は自ら床に倒れ込み、その閃きをかわす。
 そしてその体勢の崩れた耕一さんに、鬼の丸太のような脚が襲い掛かり、柏
木さんがそれを全身で流した。
 これらの動きが、一連の流れに乗って絶え間なく続けられる。
 その動き一つ一つが大気を揺るがす衝撃を秘めている。
 揺れる屋敷が、それを証明していた。
 だが、互角ではない。
 耕一さんの胸から流れる血液は、それと同時に耕一さんの動きを徐々に奪っ
ていく。
 柏木さんの顔には汗がきらめき、その動きは既に限界を超えているように見
える。
 長くは保たない。
 このまま戦いが進めば、結末はあの二人の「死」以外あり得ない。
 そんなの嫌だ。
 僕と親しい人間が居なくなるのは、もう沢山なんだ。
 動け…動け!
 自分の身体が思うように動かない。
 ちからが使えれば…電波が使えればあんな奴…
 身体の底から沸き上がる不快感が、頭蓋の奥から吹き出す鈍痛が、僕の集中
を妨げる。
 電波が使えない…集められない…
 でもだからと言って、だからと言ってじっとしては居られない。
 僕はあらん限りの力を振り絞って、戦場へと這いずって行く。
 助けるんだ…あの二人を助けるんだ…
 …その為に電波がいるんだ…!
 目がくらみ、視界が瞬間暗転する。
 その時、瑠璃子さんの姿が見えた。

 あれっ?
 何だこレは?
 どウしたノ瑠璃子サん?
 誰がキみヲ泣カせたノ?

 瑠璃子さんの目元には、今にも溢れそうな涙が浮かぶ。

 ダレガキミヲナカセタノ…

 僕の発したその問いに、瑠璃子さんは直接答えなかった。
 ただ、一言だけ、呟いたのだ。

『長瀬ちゃんも…おんなじなの?』
 瑠璃子さんの瞳から、涙の雫が、一粒落ちた。

 そして光が戻る。
 その瞬間、僕は再び吐いた。
 今浮かんだ考えを、吐瀉物と共に体外へ出すように。
 吐いた。
 もう胃液しか出ない。
 それでも吐き出し続けた。
 気付いてしまった。
 否、どこかで気付いていた。
 僕の心の奥底に眠る「怪物」。
 何でも出来る電波を使い、欲望の赴くままに行動したいという、僕の願望。
 僕のエゴだ。
 そして瑠璃子さんは僕のもう一つの心。
 電波を使わないと、自分の為の電波は使わないと決めた僕の決意。
 瑠璃子さんと共に歩む僕だ。
 だからあの瑠璃子さんは『おんなじ』と言った。
 僕の中の怪物は月島さんと同じなんだ。
 己の想いのはけ口に、己の思うままに、己のちからを使った月島さんと。
「僕は…違う…」
 力のない声。
 それでも一言一言噛み締めるように、僕は呟く。
 そうだ、二度と繰り返さない。
「僕は違う…」
 自分の感情に任せた電波は、もう使わない。
 二人を助けたい、と言う僕の思いは、僕自身の力で遂げなければならない
―――電波に頼らない、僕だけの力で!

 そして僕は立ち上がる。
 先程までの気分がまるで嘘のように、不思議な程意識はしっかりしていた。
 近くに転がる壁の破片を手に持ち、そして戦場を見た。
 そこでは、僕の友達が命を懸けて戦っている。
 助けるんだ。
 僕の力で助けるんだ。
 僕は破片を片手に、戦場へと駆け出した。
「…ぅわぁぁあぁぁぁあぁ…!」
 僕の叫び声に、耕一さんが僕を見た。
 柏木さんも、戦う鬼も。
 僕はきっと死ぬだろう。
 でも、それでも良かった。
 瑠璃子さんを裏切るのは、もう沢山だ。
 その時、ガラスの砕ける音がした。


 水が流れた。
 部屋の中に、一筋の流れが生まれた。
 音の先に、芹香さんが立っていた。
 その小さな拳を真っ赤に染めて、割れたガラスの破片を手に持ちながら、水
槽に寄り添うように立っていた。
 紅の雫が、破片の先から流れて落ちる。
 小さな雫は流れに薄れ、直ぐにその姿は消えて行く。
 芹香さんは目を閉じて、空いた手は図形を描くように宙を泳ぐ。
「………」
 音は聞こえない。
 だが、何かを呟く事は口の動きで分かった。
 それが何を意味するのか、気付くのに時間はかからなかった。

「…グゥッ!!」
 鬼が、呻いた。
「…ッ!!」
 耕一さんが、膝をつく。
「…ぁっ…!」
 柏木さんが、崩れた。
 苦しむ「鬼」達。
 芹香さんの血の一滴が流れる毎に、彼等の苦痛は増していく。
 苦痛の声が部屋を支配し、そして水槽の水が尽きた時、芹香さんの身体も崩
れ、鬼は人へと姿を変えた。

 苦悶の表情を浮かべ、鬼だった男は荒い息を吐く。
 耕一さんは膝をついたまま、男を見つめる。
 柏木さんはその身を水に浸し、動けぬ程に疲弊している。
 水の流れと己の血液を用いた、魔王フラウロスの呪法―――悪魔に対抗する
力を持つ魔王の呪法―――だと、芹香さんは後に言った。
 だが、その時僕は呆然と立ち尽くすことしか出来ず、結果を眺める事しか出
来なかった。
 鬼が窓を破り逃げ出したのを見ても、何も出来なかった。

 僕は意識を失った。


−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 …「壱」であれ程単純に電波を使わせるべきではなかったと、今更思います。
祐介が「普通の高校生」だった事を忘れていました。

 珍しくレスを。

   >佐藤昌斗 様

   > 次回で完結ですか。ラストがどの様になるのか、次回が楽しみですね。

    あと1〜2話で今度こそ終わりです。


   >久々野彰 様

   > はぁ・・・PNの由来、不明ですか・・・(凄く個人的に気になる)。

    何故でしょう? 本当に大した理由はありませんよ。


 さて、残りは最後の戦いを書くのみ。もうしばらくのお付き合いを…
 それでは再見。