雫の痕 伍 〜しずくのあと ご〜 投稿者: 五老志乃
 目的は只一つ。
 それは我ら狩猟者の力を防ぐ「力」の持ち主に会う事。
 その「力」が自分個人に向けられるものならば、その源を止めるしかない。
 だが、その「力」を利用出来るとすれば?
 使ってやる。
 使って奴等を苦しめてやる。
 貴之の為にも…一人で待つ貴之の為にも…奴等は苦しんで苦しんで、尚苦し
み抜いて、そして死ななければならない!
 奴等が貴之を傷付けたのだから…

「柳川様、こちらへどうぞ。」
 源四郎老人の声が、柳川の思考を止めた。
 そう、今彼は来栖川の屋敷にいる。
 あの時、あの不意な戦いの時、脳裏に浮かんだ一人の「女」。
 その記憶を元に「来栖川芹香」のところに辿り着くのは、それ程難しい事で
はなかった。
 確かに、来栖川のお嬢様なら、あの時自分の邪魔をしよう。
 だが、それが本意でない事を伝えたらどうなる?
 来栖川をおとしめる事が目的ではなく、危険な力の持ち主を捜す為だったと
素直に説明すれば?
 あの女もあれ程の「力」の持ち主だ。
 あの「力」に気付かぬ筈もない。
 あの男の使った、メイドロボを一瞬で止めたあの「力」に。
 あの女も興味を持ったはずだ。
 それを上手く突く事が出来たら…

 そんな考えをしながら、柳川は老人の開けた扉の中へ入った。
 その部屋の中は、空っぽだった。
「…これはどういう事だ?」
 その詰問の声に、扉を閉める音が重なる。
「それはこちらが聞きたい事だな。」
 源四郎老人の声に、威圧の響きが加わる。
「…調べたところ、確かに柳川祐也、と言う刑事は存在した。」
 源四郎老人はゆっくりと柳川に近付いて行く。
「だが、2年も前に行方知れずになったとの事…貴様、何者だ?」
 源四郎は歩みを止めた。
 そこは一足で彼の攻撃の届く間合い。
 体重を後ろ足に乗せ、いつでも動ける構えを取る。
「…そこまで分かって、何故屋敷に入れた?」
 対する柳川は、未だに立ち尽くしたままで、しかも背後を取られている。だ
が、その声に焦りはなく、只事実を確認するだけの、事務的な響きがこもって
いた。
「悪い奴程尻尾を見せん。そんな輩(やから)を追い詰めるには、ある程度ま
 でそいつの策に乗る必要があるものよ。」
 自信に満ちた声。
 それは戦後の混乱期を拳一つで生き延びた男の自信。
 そして、絶対的に有利な立場を取っている、格闘家としての自信だった。
 今の彼は既に老人ではない。
 今の彼は、只一個の格闘者だった。
 そんな源四郎に対し、柳川はどうしたか?
 笑ったのだ。
 戸惑う源四郎を無視し、柳川の言葉が続く。
「確かに、只の爺(じじい)とは訳が違うようだな…」
 柳川の手が上がる。
 源四郎は全身の力を緩め、いかなる動きにも対応出来るように身構える。
 そして柳川は眼鏡を取り外し…
「だが、なまじ出来るだけに死に急いだな!」
 振り向き、拳が源四郎の腹に突き刺さる。
 源四郎は一瞬何が起こったのかすら分からなかった。
 彼は、どんな人間の、どんな行動にも対応出来た。
 そう、どんな人間でも。
 だが、柳川のそれは、彼の想像を遙かに超えていたのだ。
 源四郎は突然の衝撃と共に扉へ飛ばされ、そのままそれをぶち破った。
「ば、馬鹿な…」
 言葉と共に血が飛び出、源四郎はそのまま崩れ落ちた。
「獲物が狩人に勝つ事は有り得ん…」
 柳川の独白が、誰も居ない廊下に響いた。


 芹香さんが扉に近付く。
 それは突然の事で、誰もが呆気に取られた。
 だが、芹香さんはそんな僕等を気にした風もなく、どこからか紙で出来た人
型を取り出すと、それを扉の中央に貼った。
「来栖川さん…まさか!?」
 柏木さんが驚きの声で問いかけると、芹香さんはそれに振り向き、コクリと
頷いた。
「………」
「鬼専用の魔除けだから、貴方達も触っちゃいけません…って?」
 コクコク。
 僕の声に頷く芹香さん。貴方達―――もちろん耕一さん達の事だろう。
 鬼専用の魔除けだって?
 それはもしかして…
 呆気に取られる綾香さんと、気が付いた僕。そして柏木さんと頷きあい、事
実を確認する耕一さん。そんな僕等を横に、芹香さんは扉から離れ―――扉と
綾香さんを結ぶ直線上に立つと、手にお札の束を持ち、扉を向いた。
 部屋に緊張が走る。
 僕の手は汗が滲んでいた。
 だけど、緊張していたのは僕だけだったのかも知れない。
 芹香さんは飄々として変わった様子がないし、綾香さんは訳も分からず立ち
尽くしている。耕一さんと柏木さんは、芹香さんの様子見、と言った感じだ。
 僕の唾を飲み込む音が、嫌に響いた。
 そして、長いようで短い時が流れ―――足音が、聞こえてきた。


「う…ぁぁわぁぁぁぁ!!」
 人のものとは思えぬ叫び声。
 そんな声が扉の向こうから聞こえてくる。
 鬼が居るのだ。
 目を凝らせば、扉全体が青白い膜に包まれているような、そんな気がする。
その青い光は人型で集約され、人型は光に耐えかねたかの様に、青い炎で少し
ずつ燃えていく。
 大丈夫なのか?
 人型が燃え尽きてしまったら、鬼が入ってくるのではないのか?
 そんな心配を胸に芹香さんを見ると、彼女はもう次の準備に入っていた。
 手にしたお札に火を着け、一枚一枚投げ捨てる。
 お札は宙で燃え尽き、黒い灰を床に撒き散らす。
 口からはいつもの調子で、聞き取れたとしても音の羅列にしか聞こえぬ言葉
が流れ出していた。
 そして突如それが飛び出す。
 それは目に見えぬ「何か」。
 だが、一個の塊として存在する「何か」。
 それは確かな質量と勢いを持って、扉に突進した。
 扉は円を描くように砕け、その向こう側にあるモノと共に壁に激突する。
 轟音が響き、僕達はここで初めて鬼を見た。
 それは鬼と呼ぶには余りに普通な男性。
 右の頬に大きな傷がなければ、どこにでもいそうな男性だった。
 本当にあれが鬼なのか?
 耕一さんなら分かるのかも知れない、そんな思いに捕らわれて、一瞬耕一さ
んを見る。だが、耕一さんは悠然と立ち、少なくとも表面上は何の変化も見せ
なかった。
「…こ、小娘…がぁ…」
 「塊」に押されながら、やっとの事で顔を動かした鬼が、芹香さんを睨み付
ける。その口から牙のような物が覗いた気がしたが、それは鬼という名に囚わ
れた僕の気のせいだったのかも知れない。
 芹香さんは灰を撒き続け、それに従い「塊」の圧力は増しているのが分かる。
 これで全てが解決するのか?
 そう思った時だった。
「こ、こう…い…ち…?」
 鬼が、耕一さんを睨んだ。
 否、その時初めてこの鬼は耕一さんに気付いたのだろう。
 そして次の瞬間、鬼の瞳に一つの感情が沸き上がった。
「柏木…耕一…きサ…マ…だケワぁ…」
 ぶんっ!!!!
 その感情は確かな衝撃すら伴い、部屋中を吹き抜ける。
「…うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
 絶叫。
 僕の絶叫。
 黒く、ドロドロした感情。
 深く濁った、山中の沼地のような―――それは、強い負の感情。
「キサマノ…前デ…コンナ姿ヲォ!!!!」
 矜持に燃えた鬼の一言。
 誇りを込めたその執念が、芹香さんの「ちから」を凌駕する。
 鬼の肉体が変化する。
 人のそれから、戦いのそれへ。
 獣の姿―――天空を貫く二つの角、人間の胴回り程もあるその腕(かいな)、
鋼の鎧を思わせる筋肉の束、そしてそれらを支え、尚力の余る両の脚―――そ
れは正しく『伝説の鬼』の姿だった。
「…オォォォォォォン!!!!」
 吼えた。
 鬼が吼えた。
 そして更に強い「負の感情」が流れ込む。
 それは『憎悪』。
 それは『殺意』。
 物理的な力すら備えた、感情の流出であった。
「柏木耕一…貴様ノ前デコンナ姿ハ見セレン…貴様ヲ殺スマデハ!!」
 今や呪縛を離れ、両の脚をしっかと踏み締める『鬼』。
「…ぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 声にならぬ悲鳴を上げて、僕はその場にうずくまった。
 それは強すぎる感情。
 それは激しすぎる『憎悪』。
 鬼の発する波が、僕の心に眠る負の感情を揺り起こす。

『…何もかも、あなたが悪いんだ。』
 やめろ…
『お前なんか壊れてしまえ…』
 やめろ…!
『ずっと一人で泣いていればいいんだ!』

 やめてくれ!!!!

『…るりこ…ぼくを…ゆる…して…』

 これは僕が憎しみに囚われた記憶。
 真実が見えず、己の感情に囚われた結果起こった現実。

『…お兄ちゃん…私…もう…許してたよ…』

 最も大事な人の心も分からず、己の憎悪のままに行動したその結果。
 僕の心の奥底に、消えることのない痕(きずあと)として残った想い出。
 僕はこの事件を忘れていけない。
 忘れたら生きていけない。
 でも、思い返すことは出来ない。
 思い出したら、きっと逃げてしまうから。
 瑠璃子さんが居る世界に逃げてしまうから。
 瑠璃子さんに必要以上の助けを求めてしまうから。
 だから奥に仕舞っていた想い出。
 それを鬼の憎悪が呼び起こした。
 僕と同じ憎悪を持った『鬼』が。

「…ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 僕はうずくまり、そして叫び続けた。
 この現実から逃げるように…

−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−

 「伍」が予想以上に長くなり、結局二つに分けました。
 文中、耕一が柳川を見て何の反応もないのは、楓・柳川シナリオでは、耕一
は柳川のことをほとんど覚えていない、と思われるからです。耕一が柳川のこ
とを鬼だ、と認識するシナリオは梓シナリオだけなので。

 WAのSSが大量にありますが、私WAまだやってないので中身が分かりま
せん。後でまとめて読むことにします。
 それでは再見。