雫の痕 参 〜しずくのあと さん〜 投稿者: 五老志乃
 …ッンンン!!
 椅子が砕ける。
 つい先ほどまで僕が座っていた椅子だ。
 破壊したのは「マルチ」。
 充電を終えたばかりのメイドロボだ。
 ざわめきが店内を支配する。
 ウェイトレスの悲鳴。
 混乱する支配人。
 そして何事が起きたのか理解していない大勢の人々。
 その視線が僕達に注がれていることを感じないはずもない。
 突然の出来事だった。

 レジ横で充電をしていたメイドロボが立ち上がった。
 その姿は視界の隅に納めたものの、僕は話に夢中で、気にも止めなかった。
だが、そのロボットが歩き出し、しかも僕達の近くで立ち止まったとなれば話
は別だ。
 不思議に思い、僕達は顔を上げる。
 そこで僕の目に入ったのは、僕に向かって殴りかかろうとするメイドロボの
姿だった。
 咄嗟に椅子から滑り降り、それをかわす。
 何の取り柄もない僕がそれを避けることが出来たのは、偶然と言えばそうか
も知れない。ロボットの攻撃が鋭いものでなかったことも幸運の一つだった。
 そして椅子が砕けた。
 僕は驚いた。
 メイドロボに、こんなに力があったのだろうか?
 廉価版のメイドロボに、こんな攻撃力が必要なのか?
 上を見上げ、そのロボットを見つめる。
 その右腕は関節がよじれ、金属の輝きを所々剥き出しにしている。
 その壊れた腕は再度引き上げられ、今にも僕に向かって振り下ろされるとこ
ろだった。
「危ない!」
 耕一さんが叫びながらロボットを殴りつける。
 その一撃を受け、そいつはウィンドウを破り、歩道へと吹き飛んだ。
 道行く人が、それを中心に輪を作る。
「大丈夫か、祐介君。」
 大丈夫ですと答えながら、僕は体を起こす。
「耕一さん…!」
 柏木さんの、怯えた様な、そして驚いた様な小さな声が、耳に聞こえた。
 僕と耕一さんは同時に柏木さんを見、そして同時に、震える柏木さんが指さ
す方向―――外を見た。
 そこには、立ち上がるメイドロボ。
 割れたガラスで切れたのだろう。ずたずたの制服をまとい、そればかりでな
く、至る所の皮膚が切り裂かれ、その下の白銀のボディが見え隠れしていた。
 余程の衝撃を受けたのか、関節部分で火花を散らしながら、右足を引きずり
引きずりこちらに向かってくる。
 一歩。
 一歩。
 また一歩。
 その歩みは遅いものの、しかし確実に。
 …ガコッ!!
 だが、やはり無理がかかっていたのだろう。
 メイドロボは激しい音を立てると、全身から煙を出し、崩れ落ちた。
「一体どうしたんだ?」
 耕一さんが汗を拭いながら言った。
 僕も不思議だった。
 あのメイドロボは確かに僕を狙っていた。
 初めて来た喫茶店で、そこで働くメイドロボに狙われたのだ。
 何故だ?
 全く想像もつかない。
 様々な思念が渦巻き、だが全く考えがまとまらない。
 そして、更なる混乱が訪れた。
 人の間を擦り抜けて、なびくはオレンジともとれる茶色の髪。
 あれは…どこかで見たことが…確か…
「…来栖川の…セリオ…?」
 柏木さんが代わって答えてくれた。
 あれは来栖川の、マルチタイプと同時に開発された企業用高性能メイドロボ
「セリオ」だ。
 そう確認した時だった。
 セリオが、飛びかかって来たのは。


 映るモニターを見ながら男は思った。
 意外に長く保つ。
 来栖川本社からの妨害がもっと徹底したものになると思っていたが…
 お陰で奴を襲う機会に恵まれた。
 襲え、生命(いのち)の炎を持たぬ者よ。
 奴の力を我が目に示せ!
 貴様等の存在意義はそれしかないのだから。
 奴の炎はそれ程美しいものではない。
 だが、奴以外の誰が、あの時手出しが出来た?
 奴を調べる必要があるのだ。
「…耕一…我が甥…」
 男は頬についた大きな傷をまさぐりながら、画面の男に向かって話しかける。
「耕一よ…もうすぐだ…」
 男の脳裏に、長髪の若者の姿が浮かんだ。
 壁にもたれ、生気のない瞳の若者の姿が。
「貴之に危害を加えた奴は…」
 モニターの中では、耕一が襲いかかるメイドロボを次々に破壊している。
「…特に貴様わぁぁぁぁ!!!!」
 男は力任せに拳を叩き付けた。
 壁に、秘密保持の為異常なまでに丈夫に作られたはずの壁に、拳を中心にし
た巨大な陥没が出来る。
「…かならず…ころしてやる…」
 男の―――かつて柳川という名前を持っていた男の笑い声が、虚空に響いた。


「…早く何とかしなさい!」
 荒々しい女性の声が響いた。
「TV局の方は手配したんでしょうね!?」
 振り向きながら、自分の数倍は年を重ねた男性に向かい、女性は詰問口調で
命令する。
 女性は若い。
 その大人びた容貌と黒く長い髪が、本来の年齢よりも高く見せているかも知
れないが、女性は二十代の後半にも属さぬであろう。
 有無を言わさぬその声に、背広姿のその男性は怯えながら答えた。
「はい。HM−12型の充電を、指示が有るまで行わない事…全国ネット、全
 てのTV局で流しております。また同様の指示を、該当地を中心に、広報用
 飛行船で流して…」
 だが、女性はそれ以上の発言を許さなかった。
「分かった…続けて広報活動は怠らないように。それで、研究所の方とはまだ
 連絡が付かないの?」
 後半の言葉は、コンソールに向かうオペレーターに向けられている。
 だが、その返事は振り向いたオペレーターの表情が物語っていた。
「…続けて。」
 ため息と共に指示を送る。
 女性は深々と椅子に座り、もう一度大きなため息をついた。
 彼女の名前は来栖川綾香。
 来栖川家のお嬢様だ。
 だが、只の飾りではない。彼女は大学生ながら、現在来栖川グループの経営
に参加しているのだ。表向きは父親の後ろ盾が有ってのこととなってはいるが、
その実、彼女の才能に口を挟む者は誰も居なかった。
 そして今、その綾香お嬢様は非常に焦っていた。
 来栖川グループの中でもトップを争う来栖川エレクトロニクス。
 その最新作が暴走しているのだ。
 原因ははっきりしている。
 研究所より、異常な指示が出された事だ。
 衛星との連絡を密にするHM−13型はあっという間だった。
 廉価型のHM−12型の通信機能は、メンテナンス用の簡略化されたものし
かないから、映る映像をモニターする程度の事しか出来ないはずだが、こちら
は充電中の隙を狙われたのだ。
 唯一の救いは、現象が一部の地域に集中していることか。暴走したメイドロ
ボは、ある一都市のみに限定されているのだ。
 綾香は再びため息を付いた。
 全くこれからどうしたら良いのだろう。
「…映像がつながりました!」
 オペレーターの喜ぶ声が、聞こえた。


 鋼の腕がちぎれ飛ぶ。
 耕一さんの拳が緑のメイドロボを吹き飛ばす。
 柏木さんの蹴りが茶色の奴を崩れさせる。
 恐ろしい光景だった。
 耕一さんと柏木さんの力は絶対的だ。
 茶色のメイドロボの動きは、素人目に凄いものがあったが、それ以上の動き
を二人はしている。緑色は問題外だ。
 だが、それでもメイドロボは次々に現れる。
 一体を潰したとしても次の奴が。
 それを倒してもまた次が。
 そしてそれ以上に恐ろしい事は、メイドロボが決して引かない事。
 腕が飛んでも、脚が砕けても、それでも奴等は襲いかかってくる。
 人間以上の力で。
『メイドロボにこんな力が必要なのか?』
 僕の疑問は呆気なく解決された。
 殴りつけたメイドロボの腕を見れば良い。
 指は曲がり、腕は折れ、軸となる細長い金属片が飛び出して―――限界以上
の付加がかかっているのだ。
 僕達が限界と考える力は、意外に弱い。
 それは無意識の内に体を守っているからだ。
 肉体が壊れぬように、無意識に力を押さえているのだ。
 だが、そう考えなければ?
 肉体を破壊しても良いと思って攻撃すれば?
 結果がこれだ。
 僕はそれを知っていた。
 知っているのだ。
 だが、人間そう考えても出来るものではない。
 そう、何らかの力が外部から働かなければ。
 何らかの力が…外部から…
 僕は、自分の立場も考えず、そんな事を考えていた。
 その時。
 緑色の奴が、目の前に迫っていた。
 二人の間を抜けて来た奴だ。
 メイドロボの右腕が振り下ろされて―――僕の頬を擦り抜けた。
 頬が僅かに切れ、血が飛んだ。
 右腕は僕の背後のビルを殴り、そのまま砕け散る。
 その時、僕は見た。
 メイドロボの、その瞳を。
 深くよどんだ、無垢なる瞳。
 闇夜の中の、深い緑の湖の色をした…
 …ドロリとよどんだ…
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
 僕の口から、悲鳴が上がった。


「…鬼?」
 綾香の口から、そんな言葉が漏れた。
 綾香の目の前に、綾香と同じ顔の、しかし微妙に異なる顔の女性が立っている。
 女性の名前は来栖川芹香。
 綾香の姉、もう一人のお嬢様だ。
 コクコク。
 綾香の声に、芹香は頷いた。
 芹香の頭には三角帽が乗り、背中には黒マント。
 服装は至ってまともなだけに、その二つの装備が嫌に目立って見える。
「………」
「…鬼払いがしたい、ですって?」
 ほとんど聞こえぬ芹香の声を、綾香が復唱する。
 綾香の声は、呆れた調子と、諦めの要素が含まれている。
「好きにしてちょうだい…」
 この非常時に何を言っているのだろう?
 今は犯人の目標が分かっただけで大収穫だというのに。
 メイドロボの目的は、ある一般人。
 一般人?
 あの二人が一般人な訳がない。
 綾香自身も格闘技をやり、しかもかなりの実力者。
 だから分かる。
 あの二人の動きは素人だ。
 少なくとも訓練されたものではない。
 いわば本能だけで戦っているようなものだ。
 それであの強さ。
 そして、二人は人間じゃない。
 動きも、力も、人間を越えている。
 犯人が二人に興味を持つのも当然と言えた。
 だが、犯人の目標はその二人ではない。
 その二人に守られた、ただの若者だ。
 犯人は一体何を考えているのだろう?

 己の思考に没頭し、綾香は芹香のことを完全に無視していた。
 今、魔術かぶれの姉に付き合う暇はないのだ。
 だが、芹香はそれを気にした風もなく、用意された小さな部屋へと入ってい
くのであった。


 うずくまる『奴』。
 どうした? お前の力を見せてみろ。
 それともあれは俺の勘違いか?
 柳川は笑った。
 邪魔はまだ入らない。
 だが急ぐ必要はあるのだ。
 早く見せろ! そして俺にその力を借せ!
 貴之の為に!
 再び柳川は、笑った。


 部屋の中には、五芒星を描いた魔法陣。
 暗闇に包まれ、明かりは二つの蝋燭のみ。
 漂うお香の匂いも加わり、ここが近代施設に囲まれた建物の一角だと言うこ
とを忘れさせる。
 その中央に、来栖川芹香は立っていた。
 右手に古めかしい本を持ち、左手で虚空に図形を描く。
 口からは小さな、だが確かな声で、聞き慣れぬ言葉が紡ぎ出されていた。
 その声は、虚空へと消え入り、そして何処かへと流れて行く…


「長瀬さん、どうしたんですか!?」
 柏木さんの呼ぶ声が聞こえる。
 だが、僕には届いていなかった。
 無数のメイドロボが、その体を破壊してまで迫ってくる。
 耕一さんがそれを蹴散らして…
 その瞳は、ドロリと濁り…
 僕は知っていた。
 僕は見たことがあった。
 この風景を。
 これとよく似た光景を。
 僕は知っているんだ!
「…ぁぁぁああああああ!!!!」
 僕は、いつまでも叫び続けた。
 悪夢を振り払うかのように。


「うごわぁぁぁ!!」
 コンソールに向かう男の絶叫が響く。
 男はそのまま倒れ、動かなくなってしまった。
 同じものを柳川も感じている。
 同じ、我らを邪魔する力を。
 柳川すら、耐えるので精一杯。
 自分より遙かに劣るこの男が、耐え切れぬのも無理はない。
 精神を締め付けるような、体全ての力を奪うような、低い、小さな声が、呪
詛のように鳴り響く。
 何だこれは!
 奴か?
 あのうずくまる奴の仕業か?
 否、違う。
 感じるのだ!
 これは…女!
 女の姿だ!
 き…サマ…何者ダ!
 柳川の姿が、徐々に変貌していく。
 肉体が数倍に膨れ上がり、手足が丸太のように広がった。
 全身の細胞が、新たな命令の元に体を再構築しているのだ。
 耐える為に。
 この呪詛に立ち向かう為に!
 己の力を完全に解放する為に!
 柳川は、鬼になった。


 芹香の額に汗が滲む。
 鬼が抵抗しているのだ。
 一匹の鬼が倒れた事は感じた。
 だが、まだ一匹残っている。
 やらなければならない…綾香の為にも!
 芹香は汗も拭かず、詠唱を繰り返した。


「…抵抗が無くなりました! 今なら向こうを止めることが出来ます!」
 オペレーターが叫んだ。
 その顔には喜びの表情が浮かぶ。
 当然だろう。
 否、彼だけでなく、この場にいる全ての人間にその表情が浮かんだ筈だ。
 当然綾香にも。
「やって! 急いで!」
 綾香の声が響き渡った。


 柳川は思考をぶつけた。
 否、正確に言えば、そうイメージした。
『死ネ』
 そんな思考を女にぶつける。
 女の呪詛は確かに苦しいが、鬼の力を解放した以上耐え抜くことは出来る。
『死ネ』
 再び思考をぶつける。
 この現状を打破する為に。


 芹香のバランスが崩れた。
 そのまま倒れそうになり、すんでの所で踏み止まった。
 このまま倒れる訳にはいかない…
 鬼を…倒すまでは…
 芹香の声に先程までの力は感じられない。
 弱々しい声。
 だが、それでも芹香は詠唱を止めようとしなかった。


『死ネ』
 柳川の思考が流れる。

『………』
 苦しげな芹香の詠唱が響く。

 二人の人知れぬ戦いは、もうすぐ終わろうとしてる。
 人ならざるものの勝利によって…


 やめろやめろやめろやめろ
 やめろやめろやめろやめろやめろやめろ
 やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ
 やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ…
 止めてくれ!
 吉田さん…
 桂木さん…
 そして太田さん…
 こいつらは…このメイドロボ達は同じだ!
 彼女達と―――毒電波で操られた彼女達と!
 嫌だ…
 いやだいやだいやだいやだ
 いやだいやだいやだいやだいやだいやだ
 いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ
 いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!!
 もうこんな光景は見たくないんだ!!
「い・や・だ!!!!!!!」
 僕の悲鳴は、青空へ飲み込まれるように響き渡る。
 僕の「ちから」と共に…

 そして静寂。
 驚きの表情のまま、立ち尽くす耕一さんと柏木さん。
 僕は、目の前の、緑のメイドロボを抱きしめていた。
 涙を、流しながら。
「もう、いい…もういいんだ…」
 もうあんな悲しい人達は見たくない…
「お休み…ゆっくりと…」
 涙の雫が、きらりと落ちた。


「…ゥッ!!」
 柳川は声にならぬ悲鳴を上げた。

「……!」
 芹香は力を感じた。

 何ダ、コノ「力」ハ。
 何ダコノ「波動」ハ!
 狩猟者ヲモ遮ルコノ「力」ハ!
 柳川が見上げるモニターには、最早何も映っていなかった。

 鬼の思考はもう感じられなかった。
 それが途切れる瞬間、感じたものは何だったのか?
 強い、そして悲しい「ちから」…
 芹香の心に、響いた「ちから」…


 僕は「電波」を使った。
 僕の「毒電波」は、街中のメイドロボの動きを止めた。
 メイドロボだけ、を。

 僕は「毒電波」を使ったのだ…

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 予定より長くなってしまった第3話です。
 一応次で話は終わり。全4話です。
 即興で作った話がここまでなるとは非常に意外。
 それでは再見。