雫の痕 弐 〜しずくのあと に〜 投稿者: 五老志乃
 電波が、飛び込んでくる。
 否、それは電波なんて呼べないほどの、弱い力。
 人混みの中を歩くと、稀にこんな事がある。
 それは、人の抱く「強い想い」。
 強すぎる想いが、それと気付かぬ内に電波となって飛び出しているのだ。
 その想いは、時に優しいものであり、時に辛いものであり、時に美しいもの
であり、特に醜いものであり―――それでも僕は雑踏を歩くのは好きだった。
なぜなら、人の生きてることを確かめることが出来るから。生きているという
実感に触れることが出来るから。
 世界はこんなにも輝いている。
 瑠璃子さんが僕に教えてくれたことだった。

「あそこです。」
 隣を進む柏木さんが、立ち止まって指を指した。
 その先には小綺麗な喫茶店がある。
「あそこで耕一さんが待っています。」
 確認するように言葉を繋ぐ。
 一度だけでもいいから話がしたいと、僕はあの男―――柏木耕一に呼び出さ
れたのだ。
 僕は、柏木さんに続いて喫茶店のドアをくぐった。
 すると、レジの横で眠るように座るメイドロボが目に入った。最近売り出さ
れた人気商品で、確かマルチ、とかいう奴だ。
 人間そっくりで、尚かつ安いところが人気の機体だったはずだが、なるほど
確かにそっくりだ。もし知らなかったら人間と間違えていただろう。よく見る
と手首から何本化のコードが延び、その先は横のノートパソコンに繋がれてい
る。パソコンの画面には、SD化されたマルチと、充電中の文字が映し出され
ていた。
「長瀬さん。」
 柏木さんが不思議そうな表情で、僕の顔を覗き込む。
 メイドロボに気を取られていた僕は、突然視界に入った柏木さんの顔を見て、
あからさまに驚いてしまった。
「…どうかしたんですか?」
「い、否、何でもないよ…」
 いぶかしげな様子を見せながらも、柏木さんは店内の一つの席を指さした。
そこには、こちらへ向かって手を振る、一人の男性が座っている。
 柏木耕一―――彼だ。
 僕と柏木さんはその席に向かって行き、軽く頭を下げると、柏木さんは彼の
隣へ、僕は二人の正面の椅子へと腰をかけた。

 10分後。
 僕と耕一さんの会話は平行線を辿っていた。
「じゃあ、どうあっても協力できない、と。」
「さっきから言ってる通りです。耕一さんだってあれが何なのか教えてくれな
 いんでしょう。」
 あれ、とはもちろん以前出会った獣のことだ。
「君が協力してくれる、と言うまでは、ね。」
「…だったら僕の答えも変わりません。」
 二人の間に挟まれて、戸惑う柏木さんが可哀想だとは思う。
 でも、僕の「ちから」は使えない。
 使っちゃいけない。
 あの夜だって、制御しきれなかった自分に腹を立てているというのに。
 そして何より、何より誰かを傷つけるために使うなんて到底御免だ。
 黙り込んだ僕の姿を見て、説得は無理だと諦めたのだろう。耕一さんはコー
ヒーを一口飲むと、大きなため息を付いた。
「…分かった。君の助けは諦めよう。」
「分かってくれましたか。」
「ああ、正直もったいない、とは思うが、余り巻き込みたくない、と言うのも
 事実だからね。」
 そう言った耕一さんの瞳は、遙か遠くを眺めるような、澄んだ泉を思い起こ
させるほど清らかだった。
 考えてみればこの人も不思議な人だ。
 あの超人的な力、そして謎の獣との戦い―――一体この人はどういう人なの
だろう。
 勝手かも知れないが、僕は耕一さんに強い興味を抱くのであった。
 出来得ることなら、耕一さんとはこれからも話し合っていきたい。
 これからは友人として、耕一さんのことをもっと知りたいと、そう思った。
 身勝手な話だ。
 耕一さんから差し伸べられた手を、たった今振り払ったばかりではないか。
 だが、耕一さんの言葉は予想を裏切るものだった。
「でも、友人としては付き合ってくれるんだろ? これからも、ね。」
 驚いて耕一さんを見る。
 耕一さんも僕と同じ様な気持ちを持ってくれたのだろうか?
 今僕が無意識のうちに「使った」なんて事はないはずだ。
 見れば、先ほどまで重苦しい表情で成り行きを眺めていた柏木さんも、いつ
もの笑顔を取り戻している。
「…もちろんです、耕一さん。」
 僕は右手を差し出した。
「宜しく、祐介君。」
 耕一さんも右手を重ねる。
 僕たちは互いに笑みを浮かべると、その後は他愛もない会話に突入するのだった。


 そして僅かに時は遡る。
 ここは来栖川エレクトロニクスの地方工場。
 だが、一見何の変哲もないこの建物の中に、世界でも有数のコンピューター
が備えられていると知れば、誰もが驚くかも知れない。
 ここは、一見只の工場にしか見えないが、その実、来栖川HMシリーズの最
終チェックを行う研究所なのだ。
 そのため、ここに備えられているコンピューターは東京本社のものと変わら
ぬ、否、ある意味それ以上の性能を持っているのだ。
 今、この工場で動く影は二つしかない。
 いつもは、休日だろうと、百人近い技術者が働いているはずなのに。
 影の一つは思った。
 自分は運が良い、と。
 この研究所の、しかも主任クラスの人間に、自分たちと同じ血を引く人間が
いたのだから。
 彼は、あの時受けた不思議な力のことを思い返していた。
 半ば嫌がらせ。
 あの二人を苦しめるためだけに送り込んだ雑魚達だったが、思いの外上手く
いった。
 途中までは。
 あの時、その雑魚共に共鳴して現場を見る限り、柏木耕一の命は奪えたはず
なのだ。
 否、命まで行かなくとも、かなりの重傷を負わせることが出来たはずなのだ。
 だが、そこであの力を受けた。
 それは共鳴した彼の脳裏にも響いた、絶対的な命令。

 止マレ!

 そして彼の動きは止まった。
 二匹の雑魚の動きも止まり、そして暗転―――断末魔の悲鳴が聞こえた。
 あの力は何だ?
 柏木耕一のものではない。
 柏木楓のものでもない。
 ならば、あの時側にいたのは、気にもとめなかったひ弱な命―――あの若者だ。
 見つける必要がある。
 だが、同じ血の者達を使うには、あの街は広すぎる。
 だから自分は運が良い。
 街には、この数ヶ月で爆発的に広まった、命を持たぬ物体がごろごろしている。
 そして、奴らを操る事の出来る忠実な手下が、今自分の目の前にいる。
「邪魔者はいない…やるぞ。」
 どす黒い血液で紅く彩られた通路を通り、今コンピュータールームの前に彼
は立つ。
 手下と呼ばれた影は、手慣れた動作でその電子錠を開ける。
 2つの影が、中に消えた。


 僕と耕一さんは、柏木さんの話題で盛り上がっていた。
 昔の柏木さんのこと。
 高校生の柏木さんのこと。
 そして今の柏木さんのこと。
 隣で聞いてる柏木さん当人は、時に笑い、時に恥ずかしそうに俯いて、時に
は耕一さんの言葉を遮って。
 僕は嬉しかった。
 この二人は、本当に好きあっているのが分かったから。
 何があっても切れない「絆」を持っているから。
 僕も持ってる。
 でもそれは僕の思いこみかも知れない。
 そんなことはないと言いたいけど、確認する術はない。
 でも、この二人は違う。
 それを互いに感じ、そして知っているのだ。
 羨ましい、と思った。
 そして楽しい時間だった。
 レジの横でメイドロボが目を覚ましたのは、そんな時だった。


 それは、どこにでもあるような家庭。
 優しそうな表情で眠るメイドロボを囲み、子供達が騒いでいる。
「お母さん、マルチは?」
「マルチ、眠ってるの?」
 そんな声に苦笑しながら、母親らしい若い女性は答えた。
「もうすぐ目が覚めるわよ。そしたら遊んでもらいなさい。」
 だが、それでも待ちきれぬ様子の子供達は、尚も母親に食い下がる。
「もうすぐ?」
「いつ?」
「ほ〜ら、ここの数字が100になったら、よ。」
 指が示すディスプレイには「95」の文字が光っていた。
…96…97…98…
 カウンターが動き、子供達の声がそれに合わせて唱和する。
…99…100!
 覗き込む子供達に、マルチの緑の瞳が映る。
「…了解シマシタ…」
 喜び勇む子供達を制し、母親はマルチのコードを外そうとする。
 だが、それすらももどかしい様子で、マルチは動き始めた。
「…マルチ?」
 いぶかしげな表情を見せる母親。
 そして意に介せず、コード類を引きちぎり、立ち上がるマルチ。
「マルチ、どこへ行くの?」
 マルチは群がる子供を払いのけ、外へと向かう。
「待ちなさい、マルチ!」
 マルチは聞こえた風もなく、扉を壊し、太陽の下に出た。
 新たなる指令に従うために。

 一人の老人が住まう家。
 マルチが充電する間老人の面倒を見ていた女性は、老人が寝たのを見計らい、
一息入れていたところだった。
 女性は思う。
 マルチが居てくれて良かった、と。
 マルチが居ない生活を考えて、女性は身震いした。
 自分の生活がめちゃくちゃになってしまう。
 お義父さんが嫌いなわけでは、もちろんない。
 だが、自分を犠牲にしてまで面倒が見られるか、と考えると、正直無理だと
思う。
 マルチが居てくれて、本当に良かった。
 マルチが動き出したのは、そんな事を考えていた時だった。
 充電が終わったのかと、マルチに声をかける。
 いつもの返事を待つが、返事はない。
 それどころか、マルチは勝手にコードを外し、外へと向かっている。
「…マルチ、マルチ…どうしたの?」
 慌てて追いかけるが、マルチの足は意外なほどに速かった。
 マルチがロボットだと言うことを久しぶりに思い出す。
「待って、マルチ! 貴女が居なくなったら家はどうなるの!?」
 女性の叫び声は、虚空へと消え、返ることはなかった。

 とある企業の会議室。
 上座に座る社長は、正にご満悦な体だ。
 この一月、来栖川のセリオを使ってきたが、予想以上の出来だったのだ。
 今まで人間の秘書を使ってきたのが酷く馬鹿げたことのように思える。
 決してミスを犯さない、しかも完全なデータベースとして使える万能ロボット。
 もちろん他人に与える印象などを考慮すると、人間が必要になる場面も多い。
 だが、最早高い給料を払い、高学歴の、尚かつ無能な秘書などを雇う必要は
ないのだ。
 今もセリオは会議の全てを録音し、データベースとして保存しているはずだ。
 もう一人、社長好みで給料の安い秘書を雇っても、二年もすれば十分以上に
元が取れる。
 全くセリオは優秀だと、小太りした社長は、会議も無視して、そう考えていた。
 そして、セリオが突然立ち上がったのは、その時だった。

 否、ここばかりではなかった。
 街中全てのHM−13:セリオと、一部のHM−12:マルチが、突然ユー
ザーの指示に反し、独自の行動を取り始めたのだ。
 彼女たちは街中あらゆる場所を歩き回り、そして何かを探し続けた。
 新たな指令の名の下に。


 そして再び来栖川研究所。
 壁一面に並べられたディスプレイには、一都市のあらゆる場所が映し出され
ていた。
 それはもちろん、セリオの、そしてマルチの見た映像だ。
 コンソールに向かう男は、後方に立つ男の指示に従い、様々な場面を、次々
に映し出す。
 そしてそれと同時に、来栖川本社から送り込まれる制御プログラムに立ち向
かっているのも、また彼だった。
 彼は男に向かって言う。
 長くは持たない、と。
 だが、男もそんなことは理解していた。
 専門家でこそないものの、男もかつては「エリート」と呼ばれる人種に属し
ていたのだから。
 長く持たせる必要はない。
 奴の姿を一瞬でも見ることが出来ればよい。
 そうすれば、今度こそ奴の姿を脳裏に焼き付けることが出来る。
 それで十分。
 それだけの情報からでも、奴を捜すことは容易いはずだ。
 かつて刑事と呼ばれた俺ならば。
 エリート刑事と呼ばれた、俺ならば。
 あわよくばもう一度奴の「ちから」を見ることが出来れば…
 そしてその時、男の視界に見知った姿が捉えられた。
 それは柏木耕一。
 その横には柏木楓。
 そして更に…
「見つけた。」
 その近くに奴が居た。
 男は、至福の笑みを浮かべるのだった。



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 ようやく形がまとまりました。
 思いつきだけで作った文章なので、続きも何もなかったのですが、何とかな
りそうです。後は書き上げるだけです。
 残念なのは、現在所用が多く、感想をまとめる余裕がないこと。
 皆様の文章は、一応4月分は全て目を通したのですが…
 いつかまとめて書きたいと思います。
 取り敢えず反応をくれたAE様と悠朔様に一言お礼を。

 タイトル、一応決めました。
 タイトルを付けるのは苦手なのですが、一応「雫の痕」でいきます。
 前回の「無題」は、「雫の痕 壱」に改題、と言うことでお願いします。
 では再見。