深く、抜けるような青空。
どこまでもどこまでも続く、ペルシアンブルーの空。
風が僕の髪を揺らす。
あの日と同じように。
あの日と同じこの場所で。
「祐介、祐介じゃないか。」
野太い声が僕を幻想の世界より連れ戻す。振り返った僕の目に、叔父の姿が飛び込んできた。
「叔父さん。」
「久しぶりだな、祐介。帰っていたのか。どうだ、大学にはもう慣れたか? 一人暮らしは大変だろう。」
叔父は嬉しそうな笑顔を浮かべ、煙草に火を着けながら僕に話しかけてきた。
ふと覚えるデジャブ。
ああ、そうだ。あの時の叔父の姿だ。
あの時も叔父は煙草に火を着けて、ここで僕に話をしたんだ。
二年前のあの時も―――
もう、二年にもなるのか。
思い出すと、まだ胸の奥に痛みを覚える。
でも、やっぱり僕は叔父に感謝すべきなんだろうな。
あの時叔父が僕を巻き込まなければ、僕が瑠璃子さんと話すこともなかっただろうから。
そんな感慨に耽りながらも、僕は叔父と他愛もない会話を続けた。
どこか儀礼的な、でも突き放された感じはしない、いわゆる世間話という奴だ。
十分ほど話し続け、ぼちぼち職員室に戻ろうとした叔父が、ふと思い出したかのように僕に尋ねた。
「そう言えば祐介、お前、屋上なんかで何をやっていたんだ?」
確かに、普通の卒業生が寄る場所ではないかも知れない。でも、僕にとっては…
僕は微笑みを浮かべると、一言、
「この空が、見たかったんです。」
とだけ言った。
そう、大学に戻る前に、この空をもう一度見ておきたかったのだ。
瑠璃子さんとの思い出に包まれた、この空を―――
「よいしょ…っと。」
ずり下がりそうな肩のバックを、もう一度引き上げる。
アパートはすぐそこだ。
肩に掛かる重みに苦笑しながら、親の愛情は結構だけど、今度からは余計な食料は送ってもらおうと、そう心に決めた。
角を曲がり、目の前の公園に入る。
この公園を通れば近道なのだ。
真っ暗な公園。
僅かに配置された水銀灯が白い光を放っているものの、その光は周囲の闇に飲み込まれ、公園を照らすことさえ出来ていない。
僕は、この公園を通る度に思い出す。
月島さんの心の中を。
あの時、たった一人でうずくまっていた、月島さんの姿を。
今も、こんな闇の中に二人はいるのだろうか。病室はあんなにも白く輝いて、そして瑠璃子さんも変わらぬ姿で眠り続けているのだろうに。
「瑠璃子…さん…」
瑠璃子さんの姿が目に浮かぶ。
今の姿ではない。二年前の姿だ。
あれ以来、僕は瑠璃子さんの姿を見ていない。
面会謝絶、と言う物理的な障害もあった。
でも、何よりも、瑠璃子さんがそれを望んでいないと、そう思うから。
「僕も、ずっと大好きだよ…」
明日もし晴れていたら、大学の屋上に行こう。
晴れた日はよく届くから、ね、瑠璃子さん。
…ッン…!!
音にもならない鈍い響きが公園中に広がり、僕は現実に引き戻された。
慌てて周囲を見渡すと、左前方にある水銀灯がひしゃげ、地面を照らしている。
水銀灯が倒れた、と言うことに気が付くまで、少しばかりの時間が必要だった。
慌ててそちらに向かう。
一体何があったのだろう。
水銀灯の根本に何かある。あの何かがぶつかり、水銀灯をへし折ったのだ。
近付くと、その物体がよく見えてきた。
あれは…人間!?
信じられなかった。
だが、確かに足下に倒れているのは人間の、それも女の子の姿だった。
左肩が赤く染まり、猫のように体を丸めるその姿は、苦しそうで、今にもどうにかなりそうで、とても頼りない。
「だ、大丈夫ですか?」
慌てて抱き起こし、そして顔を見る。
…っ……!
二度目の驚愕。
僕の知り合いだ。
同じサークルの、同じ学年の女の子。
物静かで、優しくて、人見知りはするけどとても明るくて。
僕はこの娘(こ)を気にしていた。
いつも目の端でこの娘を追っていた。
だって似ているから。
僕と話す前の、同級生の瑠璃子さんに。
何もなければこんな風になったんだろうな、って瑠璃子さんを思わせるから。
「か、柏木さん!?」
彼女の名前は柏木楓。
柏木さんが倒れている。
僕の腕の中で。
血を流しながら。
どうしよう?
考えれば考えるほど分からなくなった。
どうしたんだ?
どうしたらいい?
僕が慌てる間にも、柏木さんは苦しそうな表情で倒れている。
どうしよう?
そして、音が聞こえた。
獣の出す唸り声を想像して欲しい。
あんな音が、背後から聞こえた。
いる。
確かに何かいる。
その気配に総毛立つ。
こいつは人間の気配じゃない。大型動物の、どう猛な肉食獣のそれだ。
振り向けない。
振り向いたら殺られる。
額に汗がにじみ出る。
唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。
…使うしかないのか?
使いたくない。
でも…
背後の音が徐々に近付いてくる。
悩む暇はない。
覚悟を決めた、その時だった。
背後で、風が動いた。
肉と肉のぶつかる音が虚空に響いた。
巨大な物体が吹き飛ぶ音が聞こえた。
驚いて振り向く僕の目に、一人の男の姿が映し出された。
「逃げろ!」
男が叫ぶ。
「逃げろ! そして忘れろ!」
叫びながら、男は獣に向かっていった。
異様な光景が繰り広げられる。
獣は、化け物だった。
人間の数倍もあるその巨体。
青銅の体躯を覆う長い髪。
紅に光る双眸と、鋭い牙。そして手足に備える刃の様な爪。
正に、化け物だ。
その化け物と、互角の戦いをする人間がいる。
否、奴は人間なのか?
大地を砕く拳。
大樹を飛び越さんばかりの跳躍力。
そして、目にもとまらぬその動き。
夢を見ているような、とびっきりの悪夢を見ているような、そんな気持ち。
柏木さんを抱いたまま僕は、眼前に繰り広げられる幻想の光景に心を奪われていた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
眼前の戦いに、終わりが見え始めた。
男が、獣を圧倒している。
信じられない光景だ。
だが、それが事実だ。
獣の動きに疲労が見える。もうすぐ決着が着くだろう。
男の右手と獣の左手、男の左手と獣の右手が結ばれ、互いに渾身の力を込める。いわゆる力比べだ。
男が徐々に徐々に獣を押し返す。
これで決まりだ。少なくとも僕はそう思った。だが、それは間違いだった。
男の背後に、紅の二つの光が浮かび上がる。
二匹目!
いつの間に現れたのか、二匹目の獣がそこにいる。
だが、男はそれに気付いていない。
否、気付いたとしても、今の彼はどうすることもできないだろう。
「危ない!」
僕の叫び声と、二匹目の獣が飛びかかったのは、ほとんど同時だった。
男がそれに気付くが、もう間に合わない。
止マレ!!!
咄嗟に僕は「使って」いた。
獣達の体が硬直する。そして男はそれを見逃さなかった。
獣の腕を引きちぎり、二匹目にそれを投げつける。
腕の先の鋭い爪が二匹目の胸に突き刺さり、二匹目はバランスを崩して地面に落ちる。
獣達の絶叫が闇夜に響き、戦いの終わりを告げるのであった。
「君が…やったのか?」
獣にとどめを刺した男が、僕に向かって鋭い視線を投げつける。
「君は…何者だ?」
いぶかしげな男の声。
使うつもりはなかった。
二度と使わないと決めていたのに。
瑠璃子さんがくれた力。
電波の「ちから」。
男が歩を進める。
僕は柏木さんを守るように抱きかかえると、震えながらも男を睨み返した。
僕は負けない。
どんな奴でも、負けるはずがない。
でも、恐怖があるのも事実だった。
だが、柏木さんだけは守らなければいけない。
そう思っていた。
そして聞こえた男の言葉は、非常に意外なものだった。
「…その娘から…楓ちゃんから離れろ…」
殺意を込めた男の言葉。
だけど、その殺意は気にならない。
楓ちゃん?
今楓ちゃんって言ったのか?
「…柏木さんを知っているのか?」
信じられなかった。
男は柏木さんを守ろうとしているのだろうか?
男の殺意は薄れ、代わりに僕と同じ驚愕の表情が浮かんでいる。
「楓ちゃんを知っているのか?」
逆に尋ねてくる。
「柏木さんは同じサークルの友達だ。」
僕は言った。男は歩みを止め、半信半疑の様で再び尋ねる。
「…名前は?」
「長瀬…長瀬祐介。」
男は考え込むような表情で、僕を見つめた。
「お前は…一体誰なんだ?」
今度は僕の番だ。
こいつは人間じゃない。
でも柏木さんに敵意はないようだ。
一体こいつは何なんだ?
「俺の名前は柏木耕一。その娘の…」
一瞬言いよどむ。
「その娘の恋人だ。」
僅かに照れを浮かべながら、男は言った。
僕と彼―――柏木耕一はこうして出会った。
僕の日常の、終わる瞬間だった。
−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−・−
何なんでしょう?
たった今、他の皆様の作品を見ていたら思いついた文章です。
雫のTRUEと、痕の柳川シナリオの続きですね。
即興ネタなのでこの後のことは何も考えてません。
当然自分で何を書こうとしているのかも分かりません。
取り敢えず送ってみました。
皆様への感想は、申し訳ありませんが、また日を改めて送りたいと思います。
それでは再見。