薄紅色の風が吹けば、いずれ暖かな春が訪れましょう。 冷たい冬の終わる頃。 柔らかで心を溶かす白い雪のごとくに、はらはらと桜は舞い地を埋めつくさんばかりに零れましょう。 まるで薄桃色の布を敷き詰めた屋敷のようにそれは美しい眺めで御座いましょう。 その色彩は戦いに疲れた心をさぞ癒しましょう。さぞやさぞや、心温まりましょう。 なれば血を流し傷ついた武人が一人。 息絶え絶えに魂潰える死の淵で、霞がかった瞳に入る花の褥。それが現世離れせぬことがありましょうや? また其処に遊ぶ美しい姫君を見たのなら、どうして魂魄遂に境に入ると思わぬ事が出来ましょうや? 軽々と花踏み苑渡る、まるでその桜の精かと見紛うばかりの艶やかさは如何に。 ゆるゆると舞う花を染め付けに、己もまた薄衣空を切って楚々とした花に変じるは如何に。 とうとう胆力尽きた若武者が倒れしとき、驚いて駆け寄る端正な顔に浮かぶ心からの心配りは如何に。 そして美しい姫君が武人を介抱した時に、この好意が仇になると一体誰が知りましょうや? よもや姫君が若武者にとって憎むとも憎み切れぬ鬼の姫君であったとは。 誰も知らぬ桜の苑で、心優しい姫君が、瀕死の若武者に与え給うは心尽くしの看病三昧でしたとさ。 薄桃色の下敷を敷き、花より採った薬を塗って、呪をたて人払いをした挙げ句、三日三晩寄り添って過ごす事。 其れは未だ恐れを知らぬ愚かで無知な姫君の気紛れにあったので御座いましょうや? あるいは唯哀れとばかり思い、人に情けを掛けたのみのことであったので御座いましょうや? 否、否、其のどちらでも御座いませぬ。 鬼と生まれた身ながらも、これは因果か宿業か、優しい心を持つ鬼姫なれば。 同族の鬼に屠らるる人の姿、音には聴いても其の眼で見ては、よもや捨て置くことは出来ますまい? 必死の看病に、ようよう痕の癒えたる武人も、見目も心も麗しい鬼姫に心底から心惹かれたので御座います。 鬼姫とて桜の色の頬持つ乙女のこと、凛々しい若侍に想いの丈を浴びせられ、どうして心揺れぬ事がありましょうや? 桜小路の異界にて、懸想通じるその時までは長くはかかるなどあろう事もなきこと。 薄桃色の闇の中、褥も花も寝乱れて、舞う花静かに降り注いだもので御座います。 されど武人は人、鬼姫は鬼。 所詮古来より異ツ国に棲まう者は到底添い遂ぐことなど叶わぬ事。 桜の異界も幽玄にして、永遠に暮らすことは出来ませぬ。 蜜月と呼ぶにあまりに短く二人睦んだ桜の苑を畳み、泣く泣く去り行く鬼姫の、二の腕をそっと掻き抱き、 共に過ごせと縋る武人の、その真摯さに抗うことなど何故に姫に出来ましょう? 暖かな風の吹く散り際の桜小路で。 辺り一面に敷き詰められた花を踏み締めながら。 武人と鬼姫は舞う花に彩られながら涙の零れる接吻を交わしたので御座います。 哀れにも武人も鬼姫自身も知らなかったので御座います。 知って居れば何故にこれほど酷な事を思い付きましたでしょうや? よもや花踏みて遊ぶ鬼姫を、この場所から連れ出そうなどとは。 桜を踏みてこそ、地に墜ちた花以外の場所を歩けずしてこそ、花踏む鬼と称するのではありませぬか。 踏み桜のない世界では、鬼は生きては往けませぬ。 彼等がこの後どうなったのか、それは貴方様の方がよくご存じでありましょう……? 時は流れて数百年。 所詮、この世は諸行無常と申します。 人も鬼も物も風も、やがて全ては死に逝く運命なので御座います。 この薄紅色の苑でかつて起こった悲劇など、現在となりては誰も覚えておりませぬ。 されど人は言うので御座います。 夜桜の綺麗な月夜の晩に、桜小路の真ん中で、この世ならぬ美しい姫君が桜踏みて歩く姿を見ると。 ならばそれは、かつて数百年の昔、叶わぬ恋のために同胞に殺された鬼姫が陰に変じたのではありませぬか? 最も楽しかった頃、二人きりの結界の中で想い人と過ごした日々を偲んで本当の鬼になったのではありませぬか? 死してなお救われぬ魂。それが真実悲しからずして何で御座いましょう。 折しも、今宵は桜舞う月夜に御座います……。 「…………綺麗だね…………」 「……………………………………………………」 それは月夜の桜路。 朧霞のかかる夜空をほんのりと仄かな月明かりが照らしている。 桜が舞っている。まるで白雪のようだった。 青年は傍らで立つ小柄な少女の黒髪をそっと撫でた。 「……泣いてるの?」 「…………えっ?」 言われてからようやく少女は自分が涙を流していた事に気付いたように、そっと不思議そうに涙を拭った。 月光が少女の指先の涙を柔らかに照らし出した。 「何ででしょうね……。何だか知らないけど、とても、悲しくて……」 「悲しくて?」 「……嬉しい気分なんです」 さあっと薄桃色の風が吹く。 染め付けんばかりの花の嵐の中で、青年は少女の目尻を伝う涙を人差し指で拭って。 そっとキスを交わしたのだ。 ……いや、いや。私は間違っておりました。 最早花踏む鬼姫など、既に此処には居りませぬ。 彼女もまた呪を解かれ、何処かへと消え去ったので御座いましょう。 此処にいるのは数多の苦境と試練を乗り越えて、 ようやく想い実らせた何も知らぬ青年と少女に他ならぬので御座いますから。 後は桜と月だけが、何も変わらず静かに二人を見下ろすばかりなのでありまする。 終 ==================================================== なんだかとてもお久しぶりです(笑) 新しい奇想は特にありませんが、とりあえず語り口を変えると新しい味が出るのではということで。 偶にはシンプルな作品も良いと思うのですが(笑) あと、かなり『陰陽師』(当然小説版)の影響を受けてますが、パクリというわけではないと思いますので(笑) 単純ですから、綺麗な物にはすぐ影響されてしまうのですね……むう。 それにしても二年も離れていると、随分と腕も落ちるもので。SSはやはりある意味水物ですね(笑) この作品は先日大奮闘された西山先生に謹んで捧げさせて戴きたいと思います。 ……受け取ってもらえますように(笑) しかしネットから離れていると、どうも世事には疎くなってしまいますね(苦笑) それではこのSSについて貴重な助言を戴いたRuneさんと読んで下さった貴方に感謝を。