一番長い日 投稿者:風見 ひなた
 いつも通りに目を覚まして、数分間布団の中でまどろむ。
 この朝の現とも夢とも知れない時間こそが至福といえるのかも知れない。
 とはいえいつまでもこうして布団の中にいるだけでは学校にたどり着けることはない。
 僕は勇気を出して布団から出る。
 出迎えるのは心の芯まで凍てつくようなあの冬の寒さではなく、思わずため息をもらし
そうに温かい春のぬくもり。
 これまでは気付かなかったこの温かさに、春の訪れを実感する。
 いつもと変わらないハムエッグとトーストの朝食を平らげてから、自転車に乗って学校
に向かう。肩を切る風までがなんだか温かく、嬉しくなった。
 通り道で見覚えのある赤い長髪の女の子が走っているのを見つけて、思わず声をかげる。
「おはよう、沙織ちゃん!」
「あっ、祐君!」
 彼女も僕を見つけて挨拶を返してくれた。
 今日も彼女は時間ぎりぎりに走って学校に来るようだ。
「もうちょっと早く起きたらいいのに……」
 僕が呆れた風をそよおって話しかけると、彼女は猫みたいな笑顔を浮かべて走りながら
肩を竦めて見せた。結構器用だと思う。
「だって、この時間じゃないと祐君に会えないでしょ?」
「僕は自転車だからいいんだけどね」
 彼女の言葉にどきっとしながら、僕は下手な言葉を返す。
 我ながらどうしようもない。
 自転車のスピードを速めるのも遅めるのもわざとらしくって嫌になってしまう。
 しばらくお互いに無言で走っていると、学校が見えてきた。
 僕の脳裏に一瞬去年の冬の夜の学校を思い出す。
 だけど、あれはもう昔の話になってしまった。
 今あの部屋に行ってももう月島さんはいない。
「三年生……卒業しちゃったね」
 沙織ちゃんの言葉に、僕は頭の中を読まれたような気分になってどきりとした。
 それとも沙織ちゃんはあの夜のことを思い出してしまったんだろうか。
 僕はどぎまぎしたが、沙織ちゃんはやっぱりあの笑顔で肩を竦めて見せた。
「祐君には好きな先輩とか、いたのかなぁ?」
 なんだ。やっぱり重いすごしじゃないか。
 僕はほっと安堵の息を吐きながら首を振る。
「いいや。特にいなかったよ」
「私はね」
 僕は走りながら沙織ちゃんは言った。
「生徒会長の月島さんが気になってたよ」
 僕は今度こそ驚いて沙織ちゃんの顔を盗み見た。
 沙織ちゃんはふと寂しそうな表情になって呟いていた。
「なんだかね……なんだか、あの人の眼が叫んでたみたいに見えたんだ。助けてくれ、僕
をここから助けてくれって……」
「うん……」
「でも!」沙織ちゃんはばっと顔を上げると、明るく笑って見せた。「なんだか卒業式の
時はすっきりした眼で旅立っていったから、やっぱり思い過ごしだったんだねっ!」
 違うよ。
 それは思い過ごしなんかじゃないんだ。
 月島さんは君の思ったとおり、本当に苦しんでいたんだよ。
 僕は沙織ちゃんの顔を見て、答えた。
「ああ……その通りだね」

 今日はテスト返却日。
 授業は採点基準の説明だけだから楽なもんだ。
 もっともあんまり勉強してなかった生徒にとっては学年末テストなんて処刑宣告に等し
いものなんだけど。
「長瀬君、どうだったの?」
 斜め前の席から顔を伸ばしてきた太田さんに、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「あははは……かろうじて追試はセーフだった」
「やっぱりねえ」
 したり顔で頷く太田さんに、僕は少しだけムッとした。
「じゃあ太田さんはどうだっ………」
 聞きかけて、止めておいた。
 しかし太田さんはかえって訊いて欲しそうに僕の顔を眺めていた。
「あれー?『太田さんはどうだったの』って訊かないのかなぁ?」
 わざとらしいことだ。
 僕はやっぱりわざとらしくため息をつくと、頭を振りながら答えた。
「どーせ太田さんのことだから優等生らしい点数とってるんだろ?」
「うふふ、アイアムパーフェクトォォォ!」
 ……案の定僕が逆立ちしてもかなわないような点数取ってる。
 太田さんは楽しそうだ。
 僕の後ろの方の席で女生徒達がひそひそと囁き合いながら、悪意の籠もった視線を向け
ているのが分かる。
 無理もない。あの日、太田さんが発狂した日に太田さんのイメージはクラスのアイドル
から狂人まで落ちてしまった。太田さんが退院してきた日、それまで親しかった女生徒が
掌を返したように冷たくなっていたことも僕は知っている。
 それでも太田さんはめげた風もない。
 内心傷ついているのかも知れないが、それを外見には出さない。
 それは本当はとても偉いことなんだと思う。
 この前、本当はどう思うか二人きりの時に訊いてみたことがある。
 すると、彼女はなんだか困ったような表情で言ったのだ。
「要らない関係を切っちゃって最後に残ってくれた人が本当の友達なのよ」
 そのとき、僕は瑞穂ちゃんと同じように友達と認められたのだと悟った。
 そして彼女はこうも言った。
「時間がみんな解決してくれる。楽しいことも喜びも永遠には続かないけれど辛いことも
苦しみもやっぱり永遠には続かないのよ」
 そういうことなのだ。
 だから、彼女は平気だ。
 昔の僕に訊かせてやりたい。無音の白黒映画はいつか終わり、音と色彩に溢れた現実が
また戻ってくるのだと。

 昼食を食べて、ひとしきり勉強が終わったらまた自転車に乗って散歩だ。
 なんてったって今日から春休み。本当はまだ春休みじゃないんだけど、もう明日の終業
式が終われば二週間だか三週間だか休みがやってくる。
 いつもは家で勉強する振りをしてライトファンタジー小説を読んだり、いたたまれなく
なって図書館にやってきたり。でも勉強するわけでもなくて、とりあえずぶらぶらしてみ
たりなんだかスケジュールだけでも埋めなくちゃ行けない気がしてそこそこ親しいヤツと
とどこかへ行く予定を立ててみたり。
 それがまた苦痛だった。
 色も音もない学校は大嫌いだったけど、休みはもっと嫌いだった。
 学校なら個性のない集団に埋没することで、自分自身が一番嫌っていた中身のない空っ
ぽな僕になることでなんとかやっていくことが出来た。だけど、休みになると僕は一人に
なってしまう。自分が孤独であるということを強く自覚して、それから逃げるためにじた
ばたと悪あがきして余計に苦しくなってしまう。
 時間の針が追ってくる。僕を追いつめに、そして僕をじりじりといたぶりながら休みの
終わりへと連れていく。それは煉獄の終焉、同時に大嫌いな学校の始まり。
 だけどもうそんな休みは居なくなってしまった。
 僕は今回の休みには何も予定を入れていない。
 あるがまま、好き放題にやってみるつもりだ。
 街には知り合いが居る。
 これまで道で会っても口をきかず気まずい思いをしていた人が居る。
 僕は彼等を会話をする能力を手に入れたのだから。もう僕は幽霊ではないのだから。

 本屋に行ってみると見知った女の子が本を選んでいる。
「やあ、瑞穂ちゃん」
「な、長瀬君。こんにちわ……」
 彼女は僕の視線に気付いて、慌てて本を後ろに隠した。
 別に嫌な趣味はないけど、やっぱり気になる。
「何で隠すの?」
「えっ、あの、その……」
 僕はちょっと意地悪な表情を作って瑞穂ちゃんの後ろにひょいひょいと回り込む仕草を
して見せた。
「へー、見せてくれないんだ。ふーん……人に言えない本を読んでるんだ、瑞穂ちゃんて」
「ち、違いますっ!」
 彼女は真っ赤になってしまった。
 ちょっとからかいすぎただろうか。
 少し反省していると、瑞穂ちゃんは本を差し出した。
 顔はまだやっぱりちょっと赤い。
「不思議の国のアリス……か。別に隠すことないじゃない」
「だって、高三にもなってこんなのが好きだって分かったら笑われるし……」
「別に笑わないけど」
 僕は本心から言った。
 何が恥ずかしいんだろうか。
 メルヘンなものを読んで恥ずかしいのなら、それを書く方はもっと恥ずかしい。
 もっともこれは単にメルヘンって言うにはちょっとキツいかもしれないが……。
 瑞穂ちゃんは顔を真っ赤にして呟くように言った。
「私……この本の中の唄が好きなんです」
「唄?」
「はい。なんだか……とても安心してしまう唄」
 僕はもう一度本を眺めてみた。
 そんな唄……入っていただろうか。
 或いは鏡の国のアリスの方かも知れないが。
 僕はしげしげと本を眺めてから、呟いた。
「……買ってみようかな」
「え?」
「いや、ちょっと気になってさ」
 瑞穂ちゃんはしばらくじっと僕の顔を見つめていたが、やがてにっこりと笑った。
「はい」
 ちょっと温かい笑いだった。

 瑞穂ちゃんと別れて僕は家の方へと自転車を走らせた。
 ちょっと肌寒くなってきたような気がする。
 春とはいえ、日暮れが近付くとだんだんと寒さが増してくる。
 僕は風邪をひかない内に家に帰るつもりだった。
 商店街をくぐって学校の側を通り抜ける。
 そこで、僕はぎょっとして自転車を止めた。
 水色の髪の女の子がグラウンドの片隅でぼんやりと佇んでいたのだ。
 行き場がなさそうに、ただただ立ちつくしている。
「瑠璃子さん!」
 僕が叫ぶと、彼女はやっぱりいつかと同じように無邪気な笑みを浮かべてこっちにちょ
こちょこと走ってきた。
「あ。長瀬君だ」
「あ、じゃないよ……どうしたの、こんなところで?」
 まさか……また月島さんが………。
 僕は胸の内にわき上がる黒い予感に思わず手の平にじわりとした汗を感じた。
 だが、瑠璃子さんは頭を振って僕の拳にそっと手を重ねた。
 冷たい手だ。
「安心して、違うよ」
「じゃあ、なんでこんな所で……」
 僕が問いつめようとすると、瑠璃子さんはさも当然そうにさらりと言った。
「見てたんだ」
「え?」
「見てたんだよ。聞こえなかったの?」
 聞こえたけれど、意味が分からなかった。
 彼女はしょうがないなぁ、と困っているような笑顔を浮かべて屋上に目をやった。
 僕にも見ろと言うことらしい。
 仕方なく僕も屋上に目を向ける。
 だがそこにはやはり何もなかった。
「春休みの間は見れないから」
 瑠璃子さんは不意に語りかけてきた。
 僕は瑠璃子さんの横顔を見ようと思ったが、なんだか見てはいけない気がしてどうして
も横を見ることが出来なかった。
「今の内にいっぱい見ておくんだ」
「何を見るの?」
「記憶」
 僕はもう彼女の顔を見る必要がなかった。
 繋いだ手からは何よりも雄弁に瑠璃子さんの想いが聞こえていた。
「色々あったよね」
「うん」
 僕は素直に相槌を打った。
「あそこでひざまくらしたよね」
「うん」
「あそこにきてくれたよね」
「うん」
「あそこで初めて出会ったんだよね」
「……うん」
 正確には初対面は屋上……あの場所ではない。
 だけど、そんなことは問題ではない。
 初めてコミュニケーションが成立したあの場所が、信じればあの場所こそが、何者にも
侵しがたい僕らだけの聖域なのだから。
「僕らは、あそこで、出会ったんだ」
 一語一語を噛みしめるように僕は言った。
 空白の時間。
 風が吹く。
 あの頃と違って春の風だった。
 風が収まってから瑠璃子さんは言った。
「あそこで……もう一度会えたんだよね」
「………うん」
 涙がこぼれた。
 時間を永遠に感じた。
 この繋いだ手を絶対に離したくないと強く思った。
 僕たちはごく自然にキスをした。
「冷たいよ、瑠璃子さんの身体」
「うん」
 今度は瑠璃子さんが相槌を打つ番だった。
「ずっとここにいたの?」
「うん」
「学校が終わってからずっと」
「うん」
「馬鹿だなあ」
「うん」
 僕は瑠璃子さんを抱きしめて、彼女を温めた。
 瑠璃子さんは僕にしがみついた。
 温かかった。
 それだけでいいと思った。
「………送ってくよ」
「うん」
 僕は瑠璃子さんを後ろに乗せて、自転車を漕ごうとした。
 ふと気付いて、瑠璃子さんに訊く。
「ねえ、家何処だったっけ?」
「隣町だよ」
「えっ」
 僕のひきつった顔がよっぽどおかしかったのだろう。
 瑠璃子さんはくすくすと笑いながら、小首を傾げて見せた。
「男の子に二言はないよね?」
「……仕方ないなぁ」

「本当にいいのかい?何のもてなしもしないで……」
「ええ。もう遅いですから」
 僕が答えると、月島さんは本当に残念そうな表情で門の側まで見送ってくれた。
「そうか。美味しいお茶菓子買ってきたんだけどな……。仕方ない、また来てくれよ!」
「はい。さようなら!」
 僕が片手を上げると、月島さんも手を振り返してくれた。
 自転車に跨って走り出そうとしてふと後ろを見ると、瑠璃子さんが月島さんの身体の影
から手を振っていた。
 僕はおかしくなって笑いながら手を振り返し、大きく自転車をこぎ出した。

 途中で喉が渇いたので近くのコンビニに寄ってペットボトルを買うことにした。
 適当に眼が付いたやつを一本抜き取ってレジに持っていき、外に出る。
「あっ、長瀬君!」
「あ」
 僕はどきっとして立ちすくんだが、声の主を見て息を吐いた。
「何だ……太田さんか」
 太田さんはちょっと薄目のセーターを着て僕の方を見ていた。
 自転車の側に立っていることを思うと、きっと自転車を見かけてコンビニから出てくる
のを待っていたのだろう。
 太田さんは憮然とした表情を作っているが、それが単なるポーズに過ぎないことは簡単
に分かる。
「何だとは失礼ねー。長瀬君、家はこの近くだっけ?」
「ううん、ちょっと用事でこっちまで寄ったんだ」
「用事……ねえ」
 彼女はしばらく反芻するように言葉を繰り返したが、突然沙織ちゃんみたいな笑顔を浮
かべた。
「ふーん」
「な、何?」
 怯んだ僕に向かって太田さんは明るい笑顔を向けて、
「もー、かっこいいなぁこのっ!」
 そう言っていきなり僕の背中を強く叩いた。
 しっかりばれている。
「な、何のことだよっ!」
 それでもこうやってとぼけるしかない僕がちょっと駄目だなあと思ったりもする。
 本当に悪いのは太田さんなのだけれど。
 太田さんは全て分かっている、と言うように大きく頷きながら自動販売機に向かって歩
いて行く。
 それから振り返って僕の方に缶コーヒーを一本投げてよこした。
「ほら、長瀬君受け取って!」
「わっ……とっと」
 僕はあんまり球技も得意ではない。
 それでも何とか缶を取り落とさずに受け取ることが出来た。
 春の夜でも落ち着くような温もりが手を温める。
「乾杯しよっか!」
 太田さんは自動販売機の前から動かずに言った。
 僕は意味が分からずに聞き返した。
「乾杯しよう!ねっ!」
「えっ、乾杯って……何にだよ?」
 すると太田さんはこの世にはこれしか解答がない、とでもいうかのようにきっぱりと言
った。ちょっと凛々しく見えた。
「決まってるじゃない」
 その笑顔が悪戯っぽそうな笑顔に変わって、彼女は夜空に向かって真っ直ぐに缶コーヒ
ーを突き上げた。
「何でもない日バンザイ!」

                 おしまい

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ひ:景気ついでにもう一作!
み:初めからこっちを下に持ってくればよかったのに(笑)
ひ:それにしてもどうしてしまったんでしょうか、風見は。なんかラブコメです(笑)
み:初めての正統派ラブコメなんですねぇ。
ひ:こんだけ書いてて一本もマトモなのがないってのはちょっと自分でも驚きだけどね。
み:でも最後のオチは結構よく見ますよね。
ひ:でも、雫の後日談ならまた違った意味を持って来るって事で……ちょっと苦しいかな。
み:最後にオチがあるって信じてた人ごめんなさい!
ひ:ところでよく考えたらこの話のヒロインって太田さんだな(笑)
み:いや、どーみても太田さんが一番愛が籠もってますって(笑)
ひ:それではこのへんで!「そーいやPS版予約してないや」風見ひなたと!
み:「綾香さん……また攻略不可なんですね(涙)」赤十字美加香がお送りしました!