『藤田浩之恋愛論』第五話「浮気と恋愛論」 投稿者: 竹洞カレル
 一人で登校するようになって一週間が経とうとしていた。つまりあかりとの喧嘩も7日
目になったということだ。それまでは、あかりに起こされないと始業のベルに間に合わな
いことも多々あったのに、どうしたことか、この一週間はきっちりと目が覚める。身体が
一人立ちに向かって成長しているのだと理解したい。
 一人静かに学校への道を行く。朝空のキャンパスを、木々が健康的な緑色で染めていた。
真夏に向かって、風景は夏色に変わりつつあったが、オレの心は灰色のままだった。

 校門前の坂道で、前を行く見慣れた後ろ姿を見つけた。志保だ。いつもだったら朝から
ヤツのキンキン声を聞くなんてまっぴらゴメンと避けて通るところだが、今朝はちょっと
違う。オレの胸に好奇心が渦巻いていた。矢島からの告白を志保はどう受け止めているの
か気になった。そして、からかいたかったのだ。オレは気配を押し殺して斜め後ろから志
保に近づいた。志保はのろのろとした歩調で、俯いていた。おかしいな、と思った。男か
ら、しかもルックスのいい矢島から告白されたのだから、もう少し浮かれ気分を表に出し
ていてもいいはずだ。なのに、とぼとぼといった感じで歩き、今にもため息が聞こえてき
そうな俯きようはどうしたことだろう。志保もひとりの女子高生だ、もしかしたら、突然
の告白に驚き、想い悩んでいるのかもしれない。
 オレははじめて志保に仄かな親近感を覚えた。種類こそ違えど、オレも志保も恋煩いと
いう病気に陥っているのだ。高校の制服を着た女の子が、学校前の坂道で、髪で表情が見
えないほどに俯き、とぼとぼと歩いている姿は、完璧に思えた。完璧な恋する女子高生だ
った。どうお返事したらいいのかしらと悩んでいるのだろう。
 そっとしておいてやろうと思い、さりげなく脇を通り過ぎようとしたが、志保の想い悩
む表情が見たいという好奇心に負けて、そうっと覗き込んでみた。その直後、思わずオレ
は半歩後ずさりして、うろたえてしまった。
 隠された志保の俯いた顔は想い悩んでいるのではなく、ほくそ笑んでいたのだ。気味が
悪かった。志保のその表情は、突然の告白へのお返事に悩む女の子のものではなく、まる
で、捕まえた獲物をどう料理しようかと舌なめずりする大蛇のようだった。見てはいけな
いものを見てしまったという恐ろしさがこみ上げてきて、志保に気づかれないように追い
越した。

 教室に向かう途中の廊下に、矢島がいた。矢島はすれ違う知り合い全員に、おはよう、
今日も元気かい? 俺も元気だ、人類皆元気で今日も平和だ天国だ、あっはっは、とでか
い声で挨拶をしていた。こいつには告白したけど断られたらどうしようという不安感はま
ったくないのか、と呆れたが、それ以上に、同情してしまった。あまりに哀れに思えて、
矢島を避けて教室へ向かった。

 毎朝教室に入ってからやることがあった。あかりに挨拶することだ。喧嘩をしてからも、
一日一回は声をかけるようにしている。自然消滅する恋人がたくさんいる、と以前読んだ
雑誌に書いてあったが、それは避けたかった。それに、朝一番に声をかければ、その日の
あかりの機嫌が解る。まるで姫のご機嫌を伺う家臣のようで情けなかったが、仕方がない。

「あかり、おはよ」

 どきどきしながら、オレは言う。あかりはふとこちらを向いて一拍ほどオレの表情を見
てから、

「おはよう、浩之ちゃん」

 と挨拶を返す。そしてすぐに他の女友達と話を始めてしまう。いつもと同じだ。あかり
の小さな背中が、ごめんね、まだ怒ってるの、と言っている。きっと漫画だったら、オレ
の両目からワカメのような涙が流れ出ているだろう。すべては時が解決する、と志保は言
っていたが、その時はいつやって来るのだろう。不安だ。

 解決するのを時にだけ任せているのは不安だ。オレはその日の放課後、西音寺女学院へ
向かった。綾香からも、カラオケに行っただけでやましい気持ちはなかった、ということ
をあかりに言ってもらおうと思ったのだ。

「それは解るけど、どうして僕も連れて行かれるの?」

 と、隣を歩く雅史が愚痴った。

「バカ野郎、責任の半分はお前にもあるんだぞ。お前が、綾香とカラオケに行ったことを
あかりに言ったりしなかったら、こんな面倒なことにはならなかったんだぞ」

 そう言って無理矢理納得させようとしたが、ホントは男一人で女子校へ行くのは抵抗が
あったからだ。

「僕、今日も部活があったのに」

「部活とあかりとどっちが大事だ」

「サボったことがバレたら退部ものだよ」

「部活はサッカー部だけじゃないだろ、オレにはあかりしかいないんだ」

「僕にだってサッカーしかないんだよ」

「あかりとサッカーを一緒にするな」

 西音寺女学院はミッション系のお嬢様学校だ。校門から品位の高そうな女の子達が黄色
い声を発しながら出てくる。共学校に通うオレと雅史には異世界に住む妖精のように思え
た。隣町にある聖愛女学園という風俗店のような校名の、尻も軽ければ頭も軽そうな女子
高生とは違うニオイがした。美女率が、高そうだった。
 そんな妖精の国への入り口前に、汗でYシャツを濡らせた男子高生が二人立っているの
だ。とにかく居心地が悪く、そして目立った。

「ひろゆき〜、守衛さんが僕らを睨んでるよ」

「怖じ気づくな、別に悪いことしてるわけじゃないんだからよ」

 とは言ったが、男子禁制を高らかに宣言する女子校の校門前に立っていると、なにかい
けないことをしているようで、興奮する。

「あら? 藤田さんじゃない?」

 校門から見たことのある顔が三つやってきた。一緒にカラオケに行ったミキとキョウコ
とサヤだった。

「どうしたの?」

「今日もどっか連れていってくれるのかしら?」

「この前のカラオケ楽しかったわ〜」

 三人の妖精は元気いっぱいだった。お嬢様であり女子校という制限の多い生活は、退屈
なのだろう。不憫に思えた。

「ひ、浩之、この人達ともカラオケに行ったの?!」

 雅史が驚いている。まずい、と思った。また雅史の口からあかりへと、良からぬことが
伝わりそうだ。

「いや、今日はさ、綾香に大事な用があって来たんだ」

 オレは雅史の無視して、三人の妖精に言った。

「え? 綾香? もう少ししたら出てくると思うわ」

「ずるいわ、綾香ばっかりモテるのね」

 妖精達は皆一応に可愛い。オレは決して君たちを見捨てたりしない。

「あら? こちらの方は?」

 妖精の目に雅史が映った。

「こいつは佐藤雅史、中流家庭育ちの17歳、サッカー部所属、趣味はハムスターの飼育、
オレ達の学校でレオ様と呼ばれているんだけど、今日はオレのかわりにこいつがお嬢様方
のお相手をいたします」

 そう言ったら雅史は真剣にうろたえた。

「あら、そうなの?」

「ディカプリオよりリバー・フェニックスに似てらっしゃるわ」

「こんなに短い間に男性のお友達が増えるなんて嬉しいわ、お父様に紹介しなくちゃ」

 妖精達は雅史の腕に手を回し、うふふと微笑んだ。雅史は真っ青になった。

「ひ、ひろゆき!?」

 女の子に優しい雅史は、その手を振りきることが出来ずに、三人の妖精に引きずられる
ようにして、道の向こうに消えていった。

「あなた、酷いことするわね」

 雅史と三人の妖精が見えなくなった直後、綾香がやってきた。

「なんだ、見てたのか」

「途中からね」

 帰国子女の綾香は三人の妖精とは違い、お嬢様っぽさが欠けている。そのかわりに気さ
くさがあった。日本式のお嬢様ではなく、欧米式のお嬢様だった。寿司ではなくステーキ
を食べて育つとこうなるのだろうか。胸が大きかった。

「そうだ、あなた、神岸さんと喧嘩してるんですってね」

「何故お前が知ってるんだ」

「姉さんから聞いたのよ」

 驚いた。来栖川先輩まで知っていたなんて、志保のヤツ、どこまで噂を広げたんだ。

「こういう場合、喧嘩するほど仲がいいって言うのかしらね。確か日本には夫婦喧嘩は犬
も食わん、って諺があったわね」

 綾香はケラケラと笑った。笑い方も欧米風だ。欧米人に笑われると、日本人は強い劣等
感を抱く。

「他人事のように笑うな、お前にも責任の一端があるんだぜ」

「あら、どうして?」

 事細かに説明してやった。カラオケに行った日あかりとの約束があったこと、それを忘
れていたこと、雅史が仲介してくれたが余計にややこしくなってしまったこと、避妊具を
落として先生に怒られたことからあかりのオフクロさんが家にやってきたことまで、話し
た。その間綾香は、ふうんとか、へえとか、あらそう、と興味なさそうな反応しか見せな
かったが、避妊具のあたりでは頬を赤らめて笑った。

「謝ればいいじゃない」

 謝っても許してくれないから困ってんじゃねえか、アホ! と言おうと思ったが止めた。
女の子に向かって、アホ、はいけない。死んだ爺ちゃんが悲しむ。

「何度も謝ったんだけどさ、それでも許してくれないんだ。だから、暫く様子を見てるん
だ。その間オレもゆっくり考えようと思ってさ」

「考える? 何を?」

「愛についてだ」

 綾香は笑った。大きな声で腹を抱えて笑った。

「私を笑い死にさせるつもり?」

 心外だ。

「オレは大マジなんだぜ」

「ちょっと見ぬ間に、随分と格好悪くなったわね」

 えっ、とオレは驚いた。

「なんでだよ、愛を真剣に考えてると格好悪くなるのか」

「少なくとも私にはそう映るわ」

 綾香は笑いながら言った。理解できなかった。あかりが大好きだから、だから真剣に考
えているのに、それが格好悪いだって?

「そんなことあるかよ、過去も現在も、偉大な人物で大恋愛をしたヤツラはみんな恋愛に
ついて考えていたんだぞ、それを本とか絵とか彫像で表現してるじゃないか」

「でも、そういう人たちは総じて悲恋よ」

 絶句してしまった。

「与謝野晶子だってピカソだってロダンの弟子のカミーユだって、みんな悲恋よ。狂っち
ゃった人もいるんだから。そもそもそういう人たちは自分の悲しい人生すら、芸術にして
売り物にしてたのよ。浩之は文士でもないし画家でもないし彫刻家でもないただの高校生
でしょう? 芸術家が格好悪いとは思わないわ。かっこいいと思う。でもさ、思想だけ真
似たって、芸術家にはなれないわよ」

 オレは知らず知らずのうち、頭でっかちの男になっていたというのだろうか。解らない。
だけど、綾香の言葉には説得力があった。欧米育ちのお嬢様は、中流家庭の高校生にはな
い考えを持っていた。綾香を、尊敬した。

「高校生はさ、バカなんだから、頭なんかで考えずに行動あるのみよ」

「じゃあ、その行動ってのは、実際どうすればいいんだ?」

「そうねぇ、浩之はさ、今までいろいろ悩んでいたんだから、精神面はもう整ってるはず
よね」

 オレは頷いた。

「精神の次は肉体よ、精神と肉体のバランスが一番ね。健全の精神と健全な肉体」

 肉体、と聞いてオレは妄想した。溜まった欲望を綾香に向かって吐き出せというのか、
その豊かな胸に吐き出せというのか。欧米人は肉体によって悩みを解決するのだろうか。

「変なこと考えてないでしょうね」

 綾香はオレの視線に気がついて、胸を腕で隠した。

「スポーツよ、スポーツ。体を動かすのよ。むしゃくしゃするときは汗をかくのが一番よ」

 綾香はにやりと笑った。嫌な予感がした。そして、それは当たる。

「スパーリングの相手してね」

 オレは全力で逃げ出した。だが帰宅部のオレより、綾香は速かった。がっちり腕を捕ま
れた。欧米人は、日本人より力がある。

「さあ、ビシビシ鍛えてあげる。きっと気持ちいいわよ」

 綾香の高らかな声を聞きながらオレは、こんなことなら、と後悔した。こんなことなら
雅史を妖精に引き渡さずに、綾香に引き渡すべきだった。日本人は、黒船が浦賀にやって
きたときから、取引が下手だった。オレは坂本龍馬になれない。

(続く)

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