「クーラーボックス・ベイビーズ」 投稿者: カレルレン

 秋。
 一日の力を使い切った太陽が徐々にオレンジ色に傾く。使命を終えた木々の
葉が、風に巻かれながらくるくると飛んでいる。からからに乾いた風が、空と
アスファルトの上を舐めるように滑っている。
 オレは、時折制服の中に滑り込む風に肩をすぼめた。身を切る寒さに、自然
と帰宅する足の進みが、ゆっくりとしたものになってしまう。

「こらこら、浩之。そんなしょぼくれた歩き方しちゃって。まるでおじいさん
みたいよ。」

 三歩ほど前を歩いていた綾香が、振り向きざまに言った。綾香の紺色の髪が
靡く。身を切るような冷たい風も、綾香の髪のまわりでは滑らかな南風のよう
だった。

「へーへー、もうオレはじじいなんだ。温室育ちのお嬢様にはかないませんで
すじゃあ。」

「あはは、何言ってんのよ。」

 オレの皮肉を込めた言葉を綾香は軽くかわす。
 綾香のまわりで暖かく回っていた風は、あとからあとから吹き続ける新しい
風に押し出されて、街に拡がっていく。立ち並ぶ住宅の窓ガラス、家を仕切っ
ている高い塀、アスファルトを埋め尽くす枯れ葉、弱々しく燃える太陽のオレ
ンジ色、オレの学ラン、綾香の香水かコロンかシャンプーの匂い、冷たい秋風
の乾いた音は、下校中のオレ達のまわりを経て、世界中の秋空に拡がっていっ
た。

「お前、寒くないのか?」

 オレは、軽いステップを刻む綾香の背後から聞いた。

「あなたと違って鍛えてられているのよ。」

 白く伸びた腕を肩より上に持ち上げ、舞い散る枯れ葉をたたき落として綾香
は言った。薄いピンクのリップを埋め込んだ唇が、真一文字に結ばれていた。

「さすがだな。」

 そう言ってオレは綾香の横に並ぶ。

「あら、あなただって練習してるじゃない。」

「オレなんか全然ダメダメさ。綾香や葵ちゃんには到底及ばないよ。」

「そんなことないわよ。」

 綾香は風に大きく靡く髪を右手でかきあげた。指の間からさらさらとこぼれ
落ちる、綺麗な髪だ。こめかみから流れた数本が、ピンク色に光る唇の端にく
っつく。

「オレは葵ちゃんの練習相手になってただけだ。」

「あなたもいい線いってると思うわ。」

「そうかぁ?」

「そうよ。大会にも出場すればよかったのに。」

「いいんだよ。今回は葵ちゃんの応援に徹したんだから。」

 綾香はふふふっと笑い「あなたの応援のおかげで葵も優勝出来たのかもね。」
と言った。

「そうかな・・・」

「・・・そうよ。」

 綾香が僅かに視線を落とした。いや、落としたというより外したというべき
かな。ピントのずれたカメラのように。
 暫く無言で歩いた。
 隣に並んで歩きながら、時折綾香の顔を盗み見る。綾香は単調に歩を進めな
がらも、眉ひとつ動かすわけでもなく、まるで「何もしたくないわ。」とでも
言うような淡々とした表情をしていた。ただ、綾香の髪は思ったより長く、常
に湿ったように艶やかだった。
 大会が終わってから綾香と会うのは今日が初めてだった。大会前は葵ちゃん
の練習相手をしていたので、時々会うこともあった。しかし、特に親しいわけ
でもなく、綾香から見ればオレはライバルである選手の練習相手でしかないは
ずだ。だから、今日、校門で綾香の待ち伏せをくらったときは驚いた。何の目
的なのかは知らないが、気まぐれなのだろうか。
 真横から見える綾香の顔からは何も読みとれなかった。

「・・・残念だったな。」

 訳の分からない綾香の行動と、並んで歩く沈黙に耐えられなくなって、オレ
は思い切って言った。それと同時に綾香の身体が微かに震えた。そしてふうっ
とため息とついて、

「うん。」

 と弱々しく頷いた。

「僅差だったと・・・思うぜ。」

「ふふふ、ありがとう・・・でも、私より葵のほうが強かった、強くなってい
た。それだけのことよ。」

「・・・ホントに引退しちまうのか?」

 綾香は少しだけ間を置いて、「ええ。」と答えた。「もともと、家のほうも
私が格闘技にのめり込んでいることに批判的だったしね。」

「よく・・・そんなあっさりとやめられるな。」

 疑問だった。綾香の引退宣言は衝撃的だった。なにより優勝した葵ちゃんや
オレを驚かした。以前から考えていたことだとしても、それまでの綾香の取り
組み具合からは想像も出来なかった。
 敗北という事実は綾香にとって、オレが思っているよりも残酷で切ないこと
だったんじゃないかな。

「・・・あっさり?」

 綾香がこちらを向いた。大きな瞳がくるりと光った。

「そんなわけないじゃない。私の大事なものなのよ。それをあっさりと他人に
渡せたわけないじゃない。」

 綾香の口調が尻上がりにきつくなっていく。オレはなにも言えない。

「誰にも負けないように努力してきたわ。障害だってたくさんあったわ。でも
がんばってがんばって手に入れたものなのよ。私の存在価値のひとつだったの
よ。それを取られたの。あなたに分かる?毎日流されて生きてるあなたに分か
る?」

 今までの綾香の印象をぶち壊すほどの荒げた口調に、オレは怯んだ。実際に
は身体はこわばって動かなかったが、オレの心がずるっと後ろにはじき飛ばさ
れたように感じた。

「あなたに分かる?」

 もう一度そう言った綾香の顎が、微かに震えていたのをオレは無視出来なか
った。身体の側面でぎゅっと握られた綾香の拳、少しだけつり上がった肩、白
く眩しい両脚、そして揺れる瞳。それら全てが弱々しく、細砂で積み上げた城
のように、ちょっとしたさざ波で粉々に流されてしまいそうだった。きっと今、
綾香の震える肩を抱いてやれば、意外なほど細い肩と柔らかい肌に驚くことに
なっただろう。

「・・・。」

 でもオレはそうしなかった。そのかわり、綾香の投げつける強い視線を真正
面で受け止め、それに負けないくらいの強い視線を返した。
 すっ、と柔らかい秋風が吹き、オレの前髪と綾香の艶やかな長髪を踊らせた。

「ふふふ、ごめんなさい。変な八つ当たりしちゃったわ。」

 少しだけうつむき、数秒間だけ瞼を閉じ、再び開いた綾香の瞳はもう揺れた
りしていなかった。

「いいさ。誰かに八つ当たりしたくて、校門でオレを待っていたんだろ。その
くらい、いいさ。」

 オレが頬を緩ませながら言うと、綾香の大きな目を弓形に閉じ、「ありがと
う。」と微笑んだ。その笑顔があんまりにも綺麗だったから、少し照れた。
 それから綾香は、溜まっていた雨を全て吐き出した青空のような顔で、

「ねえ、浩之。」

「ん?」

「今から私と一試合しない?」

 と言った。


 公園の芝生もオレンジ色に染まっていた。
 灰色の羽の、名前も知らない小鳥が夕暮れを告げ、乾いた落ち葉の擦れる音
と、芝生と空が直結していてどこまでも開けた公園。そこで綾香とオレは対峙
していた。

「おい、オレなんて相手になんないぞ。」

「いいのよ。強いか弱いかなんて関係ないわ。要は相手よ。戦ってみたい相手
とやるのが一番いいの。それに私の引退試合よ。引き受けてよ。」

 綾香は髪を後ろで軽く結うと、制服のベストを芝生の上に放り投げた。それ
はふわりと着地して、芝生と同じようにオレンジ色に染まった。
 オレには断る理由がない。
 綾香が構え、それに合わせてオレも身構える。葵ちゃんとの練習で身につけ
た、格好だけの構えだ。緊張した空気が流れた。オレが右足をじりっと前にず
らすと、踏まれた落ち葉が乾いた音を立てて砕けた。それが開始の合図になっ
た。
 突然、綾香の拳が目の前にアップで現れた。ほとんど条件反射的に両腕でガ
ードする。どすんと胃にまで響く衝撃がオレの身体を揺さぶった。痛い、と思
う暇もなく、今度は綾香の白い脚が視界いっぱいに飛び込んでくる。体重と腰
の入った綾香の蹴りは、またもやオレの身体をずらした。その繰り返しだった。
オレは終始防戦一方で、綾香の信じられないくらい強烈な攻撃をなんとか凌ぐ
ので精一杯だった。僅かな隙をついて放つオレの情けないパンチやキックも、
綾香の身体に触れることすら出来なかった。
 綾香は、そんなサンドバック状態のオレを相手でも楽しそうだった。瞳はキ
ラキラと輝き、結った髪がうなじのあたりをヒラヒラと跳ねていた。「強いか
弱いかなんて関係ないわ」と言った綾香の気持ちが分かったような気がした。
相手すら誰でも良かったんだ。とにかく汗を流して踏ん切りのようなものをつ
けたかったのだろう。事実、綾香の瞳にはオレは映っていない。綾香にとって
この公園は闘技場であり、芝生は畳であり、周りに立ち並ぶ木々は観客であり、
風のざわめきは声援であり、ペンキ塗りたてのベンチは審判員であったに違い
ない。綾香の引退試合なのだから。

 引退試合の終わりはあっけなかった。開始からずっと強烈な攻撃を防いでい
たオレの腕が限界に達し、糸が切れたようにだらりと下がったガードの隙を縫
って、綾香の蹴りがオレの脇腹にめり込んだ。あまりの激痛と、一時的な呼吸
困難に耐えきれなくなったオレはギブアップした。


「大丈夫?ごめんなさいね。」

 脇腹を押さえて仰向けで寝そべるオレの隣に座って、綾香は言った。しかし
その目は「ごめんなさい」の目ではなく、「つき合ってくれてありがとう」の
目だった。

「久しぶりに気持ちのいい汗を流したわ。」

 脇腹への衝撃が喉にまできたのか、オレは喋ることが辛くなっていた。「素
人相手に遠慮なしか」と皮肉のひとつも言ってやりたかったが、綾香のこめか
みから頬に流れた一粒の汗が、あんまり綺麗だったから、やめた。

 空はすっかりオレンジ一色に染め上げられ、地上のあらゆるものの影を長く
のばしていた。隣で体育座りをしている綾香の頬もオレンジ色に上気している。
満足したように夕焼けを眺める綾香。きっと引退しても綾香は綾香なんだ。綾
香という人間を構成していた格闘技チャンプという肩書き。それを失った痛み
が両手で押さえた脇腹のあたりでうごめいた気がした。毎日、だらだらと生き
ているオレなんかに分かるはずのない綾香の辛さが、すこしだけ分かった。そ
れでもオレなんかが引退試合の相手で良かったのか、それが分からなかった。

「満足出来たか?」

 いまだに脇腹の痛みに苦しむオレは絞り出すように言った。嗄れた情けない
声だった。

「ええ、もちろん。」

「オレなんかが相手でも?」

 オレがそう言うと、綾香は夕日に向けていた視線をオレの瞳に移した。
 
「気になる?」と綾香。

「え?」

「なんであなたを選んだか、気になる?」

「ああ、気になる。」

「・・・私が身体を動かしたいなって思ったときに、丁度、浩之がそこにいた、
それだけよ。」

「・・・分からないな。」

 オレがほんとに分からないという顔をしていると、綾香はしょうがないなと
いう表情をして、ことん、とオレの胸に頭を乗せてきた。

「まだ分からない?」

 綾香は微笑みながら訊いた。
 オレが綾香の頭ごと上半身を起こしても、綾香はぴったりと頭をくっつけて
微笑んでいる。背中へそっと手を回して抱き寄せても、微笑んでいた。
 束ねて結った髪を右肩に垂らしているので、思っていた以上に華奢なうなじ
が見えた。
 側にそびえるようしてに立つ木の影が、オレ達を包んだ
 綾香がオレの胸の中で静かに顔をあげた。綾香の細い顎があばら骨を撫でた。

「答えは分かったかしら?」と、綾香が瞳を覗き込みながら言った。「好きな
だけ探してもいいわよ。」

 綾香の目の縁が、ふっと緩んだ。
 力を抜いて、オレの首筋に額を擦り付け、切なげなため息をひとつ漏らした。
 芝生で抱き合うオレ達のまわりを、冷たい秋風がまったく関係なく吹き抜け
た。綾香と触れあった腹から首が暖かかった。首を下げて、お互いの頬をくっ
つけると、そこも優しく暖かくなっていった。
 もう考える必要はなかった。あとはただ、胸の中にわき上がりつつある気持
ちに任せれば、それでよかった。

                         (終わり)
------------------------------------------------------------------------
 こんにちは、カレルレンです。こちらの即興小説コーナーに数ヶ月ぶりに投
稿しました。
 綾香がエクストリーム大会で葵に負けてしまった、という架空の設定を考え
ついて、そこから綾香の「核」のようなものに迫ってみようと思い、描きまし
た。構想段階では爽やかな青春モノだったんですが、いつのまにかしっかり恋
愛させてますね・・・。いまいち掴みきっていないキャラクターを扱うのは、
難しかったです。精進精進。
 では失礼します。