「あの 素晴らしい愛を もう一度」 投稿者:カレルレン
                  一

 わたしの頭や心の中で音が暴れています。
 手に持ったスポーツバックを放さないように、ぎゅっと強く握って、わたしは電車
を降りました。赤や緑や黒の、いろんな人の服を見ながらホームを歩きます。電車が
レールを軋ませる音、革靴やヒールがコンクリートをたたく音、構内放送と男の人と
女の人の話し声、それらが絡み合って一つの騒音を奏でます。指揮者のいないオーケ
ストラです。
 たくさんの音に身体を叩かれながら、駅を出ました。夏の強い日差しに、自分の目
がカメラアイになったように視界が狭まって見えます。オーケストラの曲目も変わっ
て、車のクラクションやタイヤの削れる音が演奏されています。アスファルトの焼け
る匂いに鼻を衝かれました。
 メモを見ながら、迷子になったような不安な気分を抑えつつ、乗るべきバスを探し
ます。すこし端が破れた白いメモ用紙には「K県Y市M区N町1446 Tハイツ2
02号室 柏木耕一」と書かれてました。わたしは「N町経由」と書かれた4番線の
バス乗り場を見つけて、次のバスが来るまで緑色のベンチに座って待つことにしまし
た。スポーツバックを置いて身体の力を抜くと、涼しげな風が通り過ぎ、わたしの髪
を撫でていきます。耕一さんのように優しい風。わたしの髪を撫でてくれる大きな手
。うっとりとするわたしの耳に、三車線道路を走るたくさんの車のバッファローのよ
うな声が聞こえました。首筋から胸の汗がブラウスの中をつーっと滑り、パンツのゴ
ムのところで溜まっていました。


                  二

 夜になると決まって耕一さんはわたしの髪を撫でてくれます。
 雨の日も風の強い日も、柔らかい枕に顔を埋めて目を瞑っていると、耕一さんは現
れてくれます。耕一さんの手がわたしの唇や胸や太股を滑り、唇が頬や首筋やお腹を
擽ると、わたしの耳たぶは真っ赤に燃えます。恥ずかしくなって俯くと、わたしの目
に小さな胸と、もじもじする指と、寡黙ぎみな性格が映って、何か大事なことをいい
たいけれど何も言えません。情けなくなって涙ぐむわたしの髪を耕一さんの大きな手
は優しく撫でてくれました。わたしは自分が捨てられた猫になったような気がしたけ
ど、耕一さんの黒い目にわたしがしっかりと映っていたのでとても気持ちが良かった
です。
 耕一さんに髪を撫でられた次の日はすごく気分がよくって、苦手な体育の跳び箱や
長距離走も全然苦しくありません。あんまり嬉しくて、夜に現れる耕一さんのことを
千鶴姉さんや梓姉さんや初音に話しても、よかったわね、とか、ちゃんと寝てる?、
とか、大丈夫?、とか全然相手にしてくれません。かぼちゃの煮物の黄色い匂いとか
、湯気を立てるご飯の白い匂いとか、焼き魚の銀色の匂いとかがすごく気持ち悪くて
、わたし一人が耕一さんのことでうきうきしていて、すごくみじめに感じて涙がでそ
うになったから、トイレに逃げ込みました。トイレの鏡の中のわたしは、大切に大切
に守っていたものが壊されたような顔になっていました。こめかみから頬に垂れてき
た汗を拾うと冷たくて、大切に守ってきたものが砕けて溶けた後の雫のようだなあと
思いました。
 ぐすぐすと泣きながら眠ったその夜も、耕一さんはわたしに会いに来てくれました
。いつものように耕一さんの手と唇に愛されていると、いつか耕一さんの夢が見られ
なくなる日がきたらどうしよう、と不安になってきました。そんなことを考えてると
耕一さんの手と唇の感触が薄れてきて怖くなって、わたしは一生懸命に耕一さんこと
を思い出そうとしたけど、突然耕一さんの顔や体の形や声を忘れてしまって、本当は
耕一さんなんてはじめからどこにもいなかったんじゃないか、て疑ってしまいました
。そんなこと考えちゃいけないってすぐに気づいたけど、もう遅くて、耕一さんの姿
はほとんど消えてしまっていて真っ白い影しか残っていませんでした。わたしは泣き
ながら耕一さんのこと、どれでもいいから覚えている部分を探し続けていると、それ
は色とか形とか音ではなくて、燃える火のような耕一さんの胸の匂いなんだってこと
に気づきました。それはわたしの頭ではなくて鼻が覚えていることでした。
 耕一さんの家に行ってみよう。唯一、耕一さんを覚えている鼻に、もっと耕一さん
のことを思い出して欲しくて、強く決心すると気持ちがすごく軽くなって、耕一さん
の手と唇も戻って来てくれるような気がしました。


                  三

 家の電話のメモ帳から、破って持ってきた紙に書かれた「N町」でバスを降りると
、正面に素敵なファンシーショップがありました。ショーウィンドウに飾られた、ウ
サギとリスのぬいぐるみ、汗でベトベトの両手をガラスに押し当てながら見ていると
、ピンクのエプロンを着た店員さんと目が合って、気まずくなってあわてて離れまし
た。
 時々、何匹ものたくさんの蝉がはりついている電信柱にびっくりしながら、そこに
記された住所を頼りに住宅街を進みます。真っ白な太陽が真上にあって、わたしの足
下に黒い水たまりのような影を作っています。アスファルトに陽炎が立ちます、ゆら
ゆらゆらゆら。耕一さんのアパートにどんどん近づいていると感じて、わたしの気分
はうきうきして、まるでピクニック気分でした。スポーツバックを大きく揺らしなが
ら歩くと、バックの中の、寝ている梓姉さんに無理を言って作ってもらったお弁当が
かちゃかちゃ鳴りました。お弁当のことを考えたら急にお腹が減ってきて、わたしが
大きな門と大きな木のある家の敷石に座ってお弁当を広げると、もしもし、あなた、
何をしているの?、と背後で声がしました。振り向くと、花模様の綺麗な和服を着た
おばあさんが、ここはお弁当を食べる場所ではありませんよ、と言いました。ごめん
なさい、わたしがあたふたとお弁当を片づけていると、あちらに公園がありますから
そちらでお食べなさい、と微笑みながら教えてくれました。
 四角い石が敷き詰められた公園は、ちいさいけれどたくさんの緑の木に囲まれてい
て、お弁当がとても美味しく感じられました。甘い卵焼きやカニクリームコロッケの
油がご飯に染み込んでいて、懐かしい味がします。油でテカテカと光るプチトマトな
んて真っ赤な水晶のようで、食べるのがもったいないくらいでした。
 わたしも料理の勉強しないといけないなあ、今度、梓姉さんに教えてもらおう。そ
んなことを考えながらお弁当を食べていると、綺麗な音が緑の木と暖かい風を縫いな
がら聞こえてきました。その音を目と耳で追っていくと、大きな木の木陰から真っ白
な頭のおじいさんが現れました。おじいさんは黒と白のタキシードを着て、足と体で
リズムを刻みながら、肩にかけたバイオリンを弾いてました。たぶん有名なクラシッ
クだと思うメロディが、水色の空に向かってくるくると巻きあがっていきます。それ
まで目を瞑って弾いていたおじいさんが、目を開けてわたしのほうに笑いかけました
。
 演奏が終わってからわたしが拍手をしていると、おじいさんはバイオリンを鞄にし
まいながら近づいてきました。

「ありがとう、お嬢さん。私の演奏はどうでしたか?」

「素敵な演奏でした。」

 わたしがどぎまぎしながら話すのを、おじいさんは軽く笑いながら、ありがとう、
ともう一度言いました。近くで見るおじいさんのタキシードは泥だらけで、白く見え
たシャツも本当は黄色いしみだらけでした。

「君はどうして、私の演奏を聞きに来たんだい?」

「お弁当を食べてるだけです。偶然聞いていただけです。」

「分かっているよ、君はソノコ君なんだろう。私のことを怒っているんだろう?」

 わたしは、違います人違いです、と首を振ったが、いいんだよ分かっているよ、と
おじいさんは隣に腰掛けました。おじいさんは裸足でした。

「君にはすまないことをしたと反省している。」

 わたしは何のことか分からなかったけど、ただおじいさんの白髪がばさばさでタキ
シードも汚かったのに、甘い蜂蜜みたいな匂いがして、強く拒絶出来ませんでした。

「覚えているかい?ふたりで樅や楓や白樺の林道を自転車で走ったことを。木々は明
るく滴りを落としていたね、風で靡く君の髪は美しかったよ。」

 おじいさんはわたしの手を握って、あの時は本当に楽しかったね、と言いました。
わたしはすこし怖くなって、はい、はい、と頷くことしかできませんでした。

「ソノコ君はあのことを怒っているのだろう?君の最後の手紙へのわたしの返事を。
君が私なんかを好いてくれていたのは、痛いくらい分かっていた。でもあのときの私
は君と結ばれてはいけなかったんだよ。」

 おじいさんは一瞬永く目を瞑り、次に開けたときは目をうっすらと赤く染めていま
した。それはお箸で掴んだプチトマトのように、涙で綺麗に光ってました。

「はじめての接吻の後、ふたりで群馬の里の林道で唇を触れあった後、君はおそらく
羞恥と清らかな満足に打ちひしがれて、人形のように目を伏せていたけど、私は見て
しまったんだよ。君の胸に下がったメダイヨンに映る自分の顔を。なんともまあ情け
ない顔でしたよ。君との接吻になんの欲情もわかなかったのですよ。そして、君から
婚約の催促のような手紙がきてしまった。私は拒絶の返事を送った。」

 おじいさんはもうわたしの顔を見てはいません。頭の上を名前の知らない、灰色の
羽を持った鳥が通り過ぎました。

「あれからというもの、私は後悔の連続です。君が外務省につとめる男の良家と結納
をかわしたと聞いたとき、私はお恥ずかしい話ですが大きな衝撃を受けましたよ。ふ
ふふ、もう遅すぎるね。ふふふ。」

 おじいさんは、君の好きだと言っていた曲を弾こう、と言って、再びバイオリンを
構えました。バイオリンはとても古そうなものだったけど、ちゃんと手入れしている
のが分かるくらいピカピカと光ってました。わたしはソノコさんじゃないし、おじい
さんも耕一さんじゃないけど、わたしはおじいさんの演奏をとても聞きたい気分でし
た。
 その時怖い表情をした女の人が現れて、わたし達に駆け寄り、おじいさんの腕を掴
みました。

「おじいちゃん!また、知らない人を捕まえて!訳の分からないこと言って、知らな
い人を困らせないでって言ったでしょう!」

 おじいさんは腕を捕まれた瞬間から、だらっと首を垂らして、ううっと呻き続けて
ます。女の人は「KC」とプリントされたTシャツとジーンズを着て細い眉をつり上
げています。バイオリンが、がらんがらん、と音を立てて地面で回っています。

「ごめんなさいね。うちのおじいちゃん、あなたに何か失礼なことしなかったかしら
?」

「いえ、お話していただけです。」

 ジーンズを履いたぱさぱさの髪の人に怒られておじいさんはひどく落ち込んでいる
ようでした。

「おじいちゃん、痴呆が始まっちゃってねえ。本当はとてもいい人なの、迷惑かけて
ごめんなさいね。」

「バイオリンの演奏が素敵でした。」

「あら、そう? ありがとう。そう言ってもらえておじいちゃんも喜んでいるわ。」

 おじいさんの肩を抱いて公園を出ていくジーンズを履いた女の人に、あの、ここの
住所はどこでしょうか?、とメモを出すと、ああ、これなら、ほらすぐそこよ、と指
さした場所に赤い屋根の建物が見えました。わたしはおじいさんに、さようなら、と
言ったけど、ううっううっ、としか聞こえませんでした。おじいさんの目はもうプチ
トマトのように綺麗じゃなくって、わたしはおじいさんが耕一さんと同じとこに行っ
てしまった気がしてすこし羨ましかったです。きっと耕一さんはわたしとおじいさん
の間にいて、おじいさんには見えるけど、わたしには見えないし感じられない場所な
んだなあ、と思いました。


                  四

 赤い屋根の建物は、二つの狭い道路が交差する角にありました。耕一さんの部屋は
「202号室」なので二階にあるようです。「Tハイツ 入居者募集」と書かれた看
板を脇で見ながら、鉄骨の階段を登ります。カンカンカン、カンカンカン。鉄の板と
私が履いている白いパンプスがたたき合い、心をノックします。
 階段を登り切ると鉄製のドアが三つありました。真ん中が耕一さんの部屋です。
 ドアの前に立ちノブに手を回したけど、郵便受けにたくさん新聞が詰まっていて、
黄色やブルーのダイレクトメールもたくさん詰まっていて、わたしの胸にもいろんな
ものが詰まってきて、手を放してしまいました。
 ドアの前のコンクリートに体育座りをしながら耕一さんのことを想いました。お尻
は冷たかったけど、耕一さんの顔とか声とか匂いとか思い出そうとしていると、そん
なことも忘れて気持ちが楽になりました。
 日はだいぶ傾いて、風も冷たくなってきて、ふと足先を見るとパンプスから覗いた
親指の爪の、塗ったはずのペディキュアが剥げかかってました。むき出しになった爪
からいろんなものが込みあがってきて、涙が出そうになったから上を向いたけど、郵
便受けの色あせた新聞とダイレクトメールがたくさん目に飛び込んできて、瞼が信じ
られないくらい熱くなって、下唇を噛んで瞼をきつく結びました。
 部屋の前まで来たのに全然耕一さんのことが思い出せません。一生懸命になっても
頭の中に耕一さんは現れてくれません。家を出るとき優しくいってらっしゃと言って
くれた千鶴姉さんとか、文句を言いながらもおいしいお弁当を作ってくれた梓姉さん
とか、家で心配してる初音とかがぐるぐる回ってます。家に帰ったらごめんなさいを
言わなくてはいけません。
 公園のほうからバイオリンの音色が聞こえてきました。おじいさんが公園に帰って
きていて、今度はちゃんと黒い靴を履いてました。バイオリンから出てくる音は、水
色から朱色に変わった空にもくるくる巻きあがって、それがモーツアルトだったかシ
ューベルトだったか分からなかったけど、あんまりきれいな音だったから、我慢して
いた涙が流れ出して止まりませんでした。
                            (終わり)
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 こんにちは、カレルレンです。
 一生懸命に描きましたが、いかがでしょうか?改めて読み返すと、主役の楓よりお
じいさんのほうが目立っているような・・・精進精進
 次回も痕のお話を描こうと思います。HなSS、になるといいなあ〜