「二人の盲人」 作者:カレルレン
 浩之は、購入したメイドロボの電源を、つけたり切ったりする日々を繰り返してい
た。起動したメイドロボの名前を呼んでみたり、肌の感触を確かめてみたり、瞳を覗
き込んでみたり、匂いを嗅いだりしてそのたびに愕然とし、暗く深い淵に潜り込んで
いった。

 あかりは浩之の家に続く道を歩きながら、何回目かのため息をついた。時折吹く風
に肩をすぼめ、もう夏も終わりだというのに薄着で家を出たことに後悔をしていた。
 おそらく男女の仲になったと思われるメイドロボを、浩之が購入したと知ったとき
あかりの心は揺れ動かずにはいられなかった。そしてそのメイドロボに以前の輝きが
なく、落ち込む彼の背中を見て、あかりの心はさらに震えた。
毎日のように浩之に会いに行くが、彼は暗い部屋に閉じこもり、さらに暗い穴に閉じ
こもってしまっていた。あかりにとって重苦しい日々が続いていた。

 浩之は今日もメイドロボを起動させた。低く重い機械音が薄暗い室内をぐるぐると
まわり、天井にぶつかって跳ね返り、浩之の鼓膜の前で止まる。
浩之がマルチ、マルチと何度も呼びかけたりしてみるが、昨日までとなんら変化のな
い反応。なにも映さないメイドロボの瞳を覗く浩之の頭の中は、ぐちゃぐちゃとした
疑問と不安に、今にも砕け散りそうだった。
 どうしてマルチは戻って来ないんだ。苦労しておまえの身体を手に入れたのになん
でおまえはいないんだよ。壊れてるのかこの身体じゃ戻ってこれないのか。おまえは
今どこにいるんだでっかいコンピューターの中にまだいるのか。そんなとこにいない
ではやく俺の側にきてくれよ。そんな真っ黒い目なんか見たくないよ笑ってくれよ。
なんで笑ってくれないんだやっぱり壊れてるのか。それとも怒ってるのかなんで怒っ
てるんだ俺が何かしたのか。おまえを怒らせるようなことを俺がしたんだな。あかり
か。あかりとのことを怒ってるのかそうなんだな。あいつと寝たことを怒ってるんだ
な。違うんだよあれは寂しかったんだ。おまえがいなくなってから俺は寂しかったん
だよつらかったんだ。あやまるよ許してくれもうあかりと寝たりしない誓うよ。おま
えが好きだから愛してるからあかりよりおまえが欲しいから。だからかえって来てく
れよ目覚めてくれよ。お願いだ。
 浩之の目は真っ赤に充血していた。砂糖に群がる赤い蟻のようだった。

 季節の変わり目にはいつも何かが大きく動く。それは気温だったり、太陽、葉の色
、気持ち、心とか。季節の変わり目にお葬式が多いのはきっと、生き続けようと頑張
っていた人の気持ちが、季節の移りによって、もうだめだという絶望に変わるから。
そう考えるのはわたしだけかな。
 浩之の家の前に立つあかりは、この家がさらに重い空気に支配されていることに気
づいた。あかりは沈み込む自分の心を奮い立たせるために、自分の気持ちに素直にな
ろう、と誓った昨日のことを思いだそうとする。
 昨日、あかりは生理の三日目ということもあり、心身ともに最悪の状態だった。遅
い夕食前のトイレの中で、消臭剤の鼻を擽る匂いに苛立ちながら、下腹部から吐き出
した赤い血を眺めていた。
 わたしは女なんだ。だから血がでるんだ。浩之ちゃんがメイドロボを買っても、マ
ルチちゃんが戻ってきても、戻らなくても、メイドロボを壊しても、浩之ちゃんのこ
とを忘れても、わたしは女なんだ。わたしは浩之ちゃんが好き。トイレで血を吐く限
りわたしは浩之ちゃんが好きなんだ。この気持ちに素直になろう。
 庭の草木の匂いを嗅ぎながら、あかりは玄関に向かう。肺に空気と想いをいっぱい
貯めて、浩之ちゃん、と大きな声で呼んだ。以前の浩之はあかりにちゃんづけで呼ば
れると、いつも照れた顔を隠しながら怒った。あかりにはそれが心地良かった。怒ら
れるのが好きだなんてわたしは変態かも、マゾヒストなのかも。でもいいの、わたし
は女だから、自分の気持ちに素直になるの。
 あかりはもう一度浩之の名を呼んだが、やはり返事がなく、いつものように鍵のか
かってないドアを開けて、靴を脱ぐ。玄関に飾られた百合の花。茎が萎れ頭が垂れて
いる。昨日まではちゃんと咲いていたのに、もう枯れちゃうのかな。

「あかり。」

階段を登りきって、部屋に入るなり、浩之の叫ぶような大きな声が、あかりの体を突
き刺した。

「どうしたの?」

あかりは優しく微笑む。

「マルチがさ、マルチが笑ったんだよ。」

浩之の耳のうしろのあたりで汗が光る。

「うん。」

「本当さ、マルチが俺のこと見て笑ったんだよ。」

浩之はメイドロボのまわりをぐるぐるまわり、髪や肌をべたべたと触り続ける。薄暗
い室内で浩之だけが踊るように動いていた。まるでサーカスのピエロ。あかりは観客
になりすまし、部屋の隅で微笑みを絶やさないように、注意深く佇んでいる。

「やっと、マルチが俺のものになったんだ。俺の愛したマルチだ。俺、マルチの笑顔
が好きだよ、目も、髪も、身体の全部が。匂いも好きだ。俺、マルチの匂いが大好き
だ。なんかミルクみたいな甘い香りがするんだ。ミルクといっても、朝パンといっし
ょに飲む肉の匂いがするミルクとは違うぞ。なんだろう、そうだ粉ミルクだ。粉ミル
クみたいな匂いがするんだ。お湯に溶かす前の粉ミルクみたいな匂いだ。」

あかりは浩之に近づき、黄色い花びらの描かれたハンカチで、彼の額や鼻の上に吹
き出す汗をふき取ってやる。顔の筋肉が異常なほど硬くなっているのがわかった。
首筋に青黒く這うみみずのような血管、シャツの上からでもわかるほどひくつく腹の
筋肉、鳥肌を立たせる腕、がたつく膝、黒く汚れたツメ、床に冷たく転がる薬の瓶。

「あかり、ちゃんと俺の話聞いてるのか。おまえ今どこにいるんだよ。聞こえてるの
か。粉ミルクの匂いなんだぞ。おまえは知ってるのか。」

あかりはハンカチをしまい、動かないメイドロボを見た。もう、うんざり、同じ話。
いままで何回も聞いた。なによ粉ミルクなんて。わたしなんて今日、ディオールの香
水つけてるんだよ。お母さんに借りたんだよ。はやく目を覚まして、いつものように
わたしを抱いてよ。狂って泣きながら抱いてよ。強く唇を吸ってよ、いい匂いがする
から。

「マルチは怒ってたんだ、おまえと寝たから怒ったんだ。俺誓ったよ、もうあかりと
寝たりしないって。そしたらマルチが笑って粉ミルクの匂いを俺にくれたんだ。いい
匂いがする甘い匂いだ。俺は蟻だ。蟻なんだ甘いものが好きなんだ。あかり、おまえ
の体は酸っぱいよしょっぱいよ。おまえの乳首や脇やふとももをなめると汗の匂いで
しょっぱいんだよ。なんでおまえはあまくないんだ。聞いてるのか。」

浩之はめちゃくちゃに手を振り回してながら喋り続ける。オエッオエッと時々、喉を
詰まらせる。

「聞いてるよ。蟻なんでしょ。」

「蟻だよ、あかり、見えるか。ずっと俺の頭の中にいたんだ。でかい巣だ。」

浩之はメイドロボの肩を抱き寄せ、何度も唇を吸う。怖いよマルチ、体が灰色になる
みたいだ。目の前も真っ暗だ、これが夢じゃないのが解るよ。だから死ぬほど怖いん
だ。あかりに殺してもらいたいよ。

「もう寝たほうがいいよ、昨日も寝てないんでしょ。疲れてるんだよ。ぐっすり寝れ
ば蟻なんか見えなくなるから。」

「あかり、俺帰りたいよ。ここから帰りたいよ。寒いよ、もっと暖かいとこに帰りた
いよ。」

テーブルの上の、昨日あかりが作ってあげたスパゲティーから鼻を衝く匂いが漂って
いる。乾いたケチャップが赤黒く変色している。

「蟻だ。あかり、蟻だよ。やっと気づいたよ。こいつがマルチを壊していたんだ。」

「やめてよ、浩之ちゃん。もういいよ、わたしと寝よう。もう嫌がらないから。わた
しと寝てよ。」

「うるさい。誰がお前と寝たりするもんか。マルチと約束したんだ。もうあかりと寝
ないって、誓ったんだ。お前も蟻なんだよ、マルチを壊す蟻なんだよ。」

嗄れた声を吐き出した浩之は、メイドロボを押し倒し、服を剥ぎだした。いろんなコ
ードがブチブチと千切れる。あかりが止めようとすると、浩之の手の甲が頬を張った。
手に髪が絡まり引っ張られて、あかりはとても痛くなって視界が滲んだ。そんなのわ
たしのせいじゃないもん。誰に誓ったていうの?誰もいないじゃない。わたしだって
誓ったんだよ。昨日、血の固まりに誓ったんだよ。蟻なんてどこにもいないよ。どっ
かに行っちゃったのは浩之ちゃんのほうじゃない。笑わせないでよ。
 
 浩之は仰向けに倒れているメイドロボに跨り、マスターベーションにふける。全身
にぷつぷつと白い汗を出し、目を真っ赤にしている。部屋の重力が増し空気が沈み込
み、気持ちの悪い匂いが沈殿する。メイドロボと浩之の素肌が擦れ合う音、汗と混じ
りあったディオールの匂い、全く差し込まない太陽の光と薬の瓶、マスターベーショ
ンの感触。ああ、この人はもうダメなんだ。
 やがて浩之のうめき声とともに、フローリングの床に白い精液が飛び散り、あかり
の子宮は昨日の誓いを思い出す。白く広がる精液が生理の血と同じに見える。浩之ち
ゃんもわたしと同じようにその白い液体に誓ったんだね。
                              (終)
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こんにちは、カレルレンです。今回は退廃的な話が描きたかったんです。上手くいか
ないです。村上龍とかを意識して執筆したんですが、どうでしょう・・・
次回も浩之の話を描こうと考えてます。「藤田浩之 31歳 冬」(仮)

レス書こうと思ったんですが、まだ過去の作品読ませていただいてる途中なので、次
回にまわします。感想等くれた方々、もう少し待ってください。すみません。