月光 投稿者:アスタロッテ 投稿日:3月13日(火)00時53分
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 落日が風景を紅く染めている。
 赤光のなかに黙然と佇む青年の肢体は、鮮血に濡れてさらに紅かった。
 かれの服を彩る血痕のなかに、かれ自身が流した血は一滴もまじっていない。すべて、かれに殴り倒された相手からの返り血であった。
 青年は、むしろ苛立たしげな表情で低く舌打ちした。
 「情けないね――。俺を殺してくれると云うから期待したのに、このざまかよ」
 かれのまわりには、十指に余る数の若者たちが倒れている。腹を低く抑えて呻いている者もいれば、ありえない方向に曲がった腕をかかえて涙を流している者もいた。
 重度の外傷を負っていることを除けば、かれら全員に共通している要素はたったひとつ――その顔に張り付いた恐怖の色だ。
 コンクリートの路面に這いつくばってとりどりに呻く男たちは、ひとりのこらず隠しきれない恐怖にがたがたと震えていたのだ。驚くべきことに、かれらの恐怖の源は、特に精悍とも屈強ともみえぬこの青年なのであった。
 男たちのひとり、長い髪を赤く染めた若者が、佇立する青年を力なく見上げた。体格だけで云えば、かれはこの青年より頭半分も背が高く、肩幅も10pは広い。しかしかれの右足は激痛の泉に浸っていた。華奢にすらみえるこの青年が、ひと蹴りで軽く蹴り折ったのだ。
 「あんた、なにものだ」
 全身の勇気を振り絞って赤毛の若者は云った。
 「い、いったいなにものなんだ? 空手でもやってるのか? 柔道か? ボクシングか?」
 しかし、問いかけながら、若者は心のなかでみずからの問いを否定していた。
 青年の強さは空手や柔道といった技術で身につくレヴェルをはるかに超越していた。ボクシングの世界チャンピオンでもかれには勝てないだろう。どれほど鍛えていてもかれらは人間だが、この青年は――なにかべつのものなのだ。
 青年の唇が自嘲の形に歪んだ。
 「おれか。おれは鬼さ。お前たちをいじめるために鬼ヶ島からやってきた人喰い鬼だよ。一応、人間の名前も持っているけどな。おれの名は」
 一陣の風が吹き抜けた。
 落陽の光がかげろうのように揺らいだ。
 「柏木耕一だ」

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 耕一がアパートに帰りついた頃には、すでに夜のとばりが深く降りていた。
 血まみれの上着を公園のごみ箱に投げ捨てて、ここまでTシャツ1枚で歩いてきていた。寒くはない。かれの身体は人間の身体ではないのだから。「あの人」と同じ、「鬼」の身体なのだ。
 ぎしぎしと音がする階段を上がって自室の前に立ったとき、玄関の鍵が開いていることに気がついた。かけ忘れたまま外出しまったのだろうか。ありえることだ。1年前のあの日から、なにかと自暴自棄になっている自分に、耕一は気付いていた。
 それに、べつに泥棒に入られてもかまわないのだ。仲がよくなかった亡父が遺してくれた遺産が口座には溢れているし、この部屋には大切なものなどないのだから。
 たったひとつ、奪われて困るものがあるとすれば、箪笥の奥に閉まってしまった「あの人」の写真だが、あんなものを盗んでいく者はいないだろう。もしそんな奴がいたら、この「力」のすべてを使ってでも探しだしてその罪を悔やませてやる。
 耕一の「力」は、それに目覚めた1年前よりさらに強力になっていた。おそらくは、歴代の「鬼」のなかでもこれほど強大な力をもつ者は希有だろう。
 もうすこし早くこの「力」を制御できていたら。
 それは、かれがこの1年で何千回となく繰り返してきた考えだった。壊れたレコードプレイヤーが奏でる音楽のように、耕一の思考はいつまでもそこから抜け出せないでいる。
 部屋の扉をあけて、灯りがついていることに驚いた。この部屋の鍵を持っているのは、かれ自身と大屋を除けば、この世で3人だけだ。
 耕一の眼前にひっそりと坐った少女は、そのなかのひとりだった。濡れ羽色の髪を長くのばした十六、七歳の美少女。
 「おかえりなさい、耕一さん」
 祐一はほっと息をついた。
 「なんだ、楓ちゃん、こっちに来ていたのか」
 柏木楓は、その言葉には応えず、静かに耕一に歩み寄ってそっとかれの顔を撫でた。
 「血の匂いがします……。耕一さん、また、喧嘩してきたんですね」
 咎め立てする口調ではなく、かれのことを案じる云い方だった。
 耕一にとっては、そちらのほうがずっと痛い。
 彼女にこんな眼でみられると、「あの人」のことを思い出してしまう。「あの人」のひとつ下の妹と口喧嘩をする耕一を、いつも困ったような眼でみていた「あの人」のことを。
 「どうして、そんなに喧嘩をするんですか。喧嘩がお好きなんですか」
 耕一は苦笑した。
 「ひどいな、楓ちゃん。それじゃ、おれがしょっちゅう喧嘩しているみたいじゃんか。今日はちょっと不良に絡まれちゃったんだ。おれ、生意気そうにみえるらしくてさ、むかしからその手のやつらにはよく絡まれるんだよ」
 「嘘です」
 楓の手が耕一の端正な顔を撫でる。十六の少女が抱ええるかぎりの愛と熱情をこめた手つき。やさしく、いとしげで――かぎりなく愛撫に近い手つき。
 「耕一さん、そんなに、姉さんのことが忘れられないんですか。もう、いなくなってしまった人なのに。もう、二度と会えないのに。いまでも、姉さんのことを愛しているんですね」
 「楓ちゃん……」
 耕一は、そっと彼女の手を離した。
 「わざわざひとりで東京まで来るなんて、今日はおれになにか用事があったんだろう? 聴かせてくれる?」
 「あ……」
 楓の白くなめらかな頬が紅潮した。
 「そうですね。梓姉さんから言づてを頼まれていたんです。その、電話では云いにくいことだから。耕一さん」
 ふたつの澄んだ瞳が耕一を見上げる。
 「来てくれますよね――千鶴姉さんの一周忌」

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 その呪われた事件が耕一の人生を変えたのは、今日からほぼ1年前のことだった。
 それは耕一の父の事故死という形で幕を開けた。そう、それに続く惨劇の凄まじさを思えば、そんな事故などはほんの幕開けであるにすぎなかったのだ。
 耕一は父の死を哀しみすらしなかった。かれは母と自分を捨てた父(と、その頃は信じていた)に対し、むしろ憎悪に近い感情をいだいていたのだ。だいいち、少年時代から何年も会っていない男の死を哀しめるはずもない。
 しかし、父の死は耕一を父の故郷である隆山へと引き寄せた。それは幼い頃ともに遊んだ4人の従姉妹との再会をも意味していた。
 千鶴、梓、楓、初音。
 地元の名士である柏木家の四人の女性との再会は、耕一のどこかかたくなになっていた心をほぐしていった。母を亡くしてから天涯孤独と思い定めて生きてきた耕一は、自分にもまだ家族が残されていたのだと知った。うれしかった。
 彼女たちと供にすごした数週間は、あるいは耕一の生涯で最もしあわせな時期のひとつであったかもしれない。しかし、そんな奇蹟のような日々は、やはり長く続きはしなかった。
 耕一は、いつからか夢を見るようになったのだ。それは奇怪な夢だった。夢のなかでかれは凶悪な鬼となり、悲鳴をあげる女たちを姦し、そしてこの上もない残虐さで殺していたのだ。
 隆山では、その夢に合わせるようにして猟奇殺人事件が起こっていた。かれは、それをおのれが殺人を犯したあかしではないかと疑った。そしてもうひとりの人物もそのことを考えていた。千鶴もまた、事件の犯人が耕一なのではないかと疑っていたのだ。
 しかし、彼女はいつしか耕一のことを愛するようになっていた。耕一もまた、優しくおっとりとしたこの年上の従姉妹に、従姉妹に対する以上の感情をいだいていた。そして耕一の初恋の女性は、かれにとって最初の女性となった。
 そこですべてが終わっていたら、物語はハッピーエンドだと云えたかもしれない。
 しかし、千鶴はあまりにも多くのことを知っていた。柏木一族に超常の力をもつ「鬼」の血が流れていること。そしてその血は一族の男たちをしばしば狂気の暴虐へと駆り立てていくこと。耕一の父も、千鶴の父も、その血を恐れるあまりみずから命を断ったのだということ。
 千鶴にできることは、これ以上犠牲者を増やさないために耕一の命を断つことだけだった。だが、さらに悲劇的なことには、事件の真の犯人は耕一ではなかったのだ。
 柳川祐也。すべての事件は、耕一の祖父の血を継ぐこの男が起こしたものだった。千鶴は柳川と戦い、そして、死んだ。耕一はそのとき鬼の力に目覚めたが、すべてはすでに遅かった。柏木千鶴は死に――そして耕一のなかで永遠になったのだ。
 「ごめん」
 耕一は、楓の肢体をさりげなく押しのけながら、わずかに顔をそむけた。
 「一周忌には、出られそうにないんだ。ほら、大学も卒業をひかえているし。いろいろと忙しいんだよ。もうしわけないとは思っているけど」
 「それも、嘘ですね」
 楓は、寂しそうにちいさく笑った。
 「姉さんが死んだことを、認めたくないんですか?」
 「…………」
 「姉さんのお葬式にも出てくれませんでしたよね。梓姉さんは、そのことで耕一さんを責めていたけれど、わたしにはわかります。耕一さんは、千鶴姉さんのことをほんとうに愛していたから、だから姉さんのお葬式に出たくなかったんですね。わたしだって、もし耕一さんが突然に死んでしまったら、お葬式になんて出ません。だって、認めてしまったら、もう奇蹟は決しておこらないから」
 「いや、楓ちゃん、おれはなにも」
 耕一は自分の言葉を云い終えることはできなかった。
 楓のやわらかなくちびるが、かれのくちびるをふさいだのだ。少女の髪からシャンプーの芳香がした。
 ちいさな、震えた声が耕一の耳にとどいた。
 「抱いて、ください」

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 楓が、その小柄なからだにあるかぎりの勇気を振り絞っていることが耕一にはわかった。かれの腰を抱いた繊細な手もかたかたと小刻みに震えている。
 「わたしじゃ、だめですか。千鶴姉さんじゃないと、だめなんですか」
 「楓ちゃん」
 「わたしだって耕一さんのことが好きです。だれよりも、初音や梓姉さんよりも好きです」
 「楓ちゃん、それは」
 「耕一さんが千鶴姉さんのことを忘れられないのなら、わたしは代わりでもいいんです。だって、耕一さん、かわいそうなんだもの。そうやって一生、思い出のなかに生きていくつもりなんですか。わたしが慰めてあげます。わたしが、姉さんのかわりに……」
 「楓ちゃん――エディフェル!」
 その名前は、不可視の鞭となった楓の痩身を激しくたたいた。彼女は凍えたように全身を震わせながら、おびえた瞳で耕一の顔を見上げた。
 「耕一さん、どうして、どうしてその名前を……」
 「半年くらい前かな。すべてを、思い出したんだよ」
 それはある日、突然に耕一の脳のなかによみがえった記憶だった。
 殺戮のために生きる種族エルクゥと、エディフェルという名の少女の思い出、そして鬼殺しの次郎衛門とエディフェルの恋の物語。激しい恋の狂熱まで、耕一ははっきりと思い出すことができた。そして、過去世で愛したエディフェルは、かれがこの現世で知るある少女に生き写しだった。かれの三番目の従姉妹にあたる少女、柏木楓に。
 耕一はちょっと苦笑した。
 「どうしていまになってこんな記憶が復活したのかはわからない。だけど、いまはそれがすべて事実だということがわかる。哀しいけれどね」
 「それなら、どうしてわたしを」
 「おれは柏木耕一だよ」
 耕一は楓のくちびるにそっと指を置いて、彼女の言葉を遮った。
 「おれは柏木耕一として千鶴さんを愛したんだ。あのときまで、自分があんなに人を好きになれるなんて想像もしていなかった。おれは命がけで千鶴さんを守り抜くつもりだった。ま、うまくいかなかったけどね」
 耕一は楓に微笑みかけた。それはもしさきほど耕一に叩きのめされた若者たちがみれば、この男にもこんな笑い方ができたのかと驚くような、優しい表情だった。
 「楓ちゃん。女の子が、気安くだれかの代わりでいいなんて云っちゃだめだよ。楓ちゃんは楓ちゃんでだれの代用品でもないんだからね。おれは楓ちゃんが好きだよ。ずっといい子だと思っていた。実の妹以上に、大切に思っている」
 「だけど、それは、恋人としての『好き』じゃないんですね」
 楓は、自分のからだを抱きしめるように腕をかかえた。
 耕一は、彼女が泣き出すのではないかと思った。しかし、それはかれのまちがいだった。彼女は微笑んだのだ。
 耕一は、これまでにこんなにさみしげな微笑をみたことはなかった。それは哀しみと、悔しさと、あきらめとを純白の恋心で包み込んだような、そんな微笑だった。
 「わたしは、あきらめません。耕一さんが千鶴姉さんを愛しているように、わたしも耕一さんを愛していますから。だけど今日は帰ることにしますね。ひとつだけ憶えていてください。耕一さんのことを好きなのは、エルクゥのエディフェルではなく、人間の柏木楓なんです。あなたにとってわたしがただの妹にすぎないとしても、それは変わりません」
 耕一は、なにも答えなかった。言葉をかけるることは、できなかった。
 楓は、手早く荷物をまとめると、駆け去るようにして耕一の部屋を出ていった。どこに泊まるつもりなのか、耕一は尋ねなかった。今晩ひと晩、彼女といっしょの部屋にいることはできない。楓は千鶴に似すぎていて、ふたりきりでいるのはあまりにも辛かった。
 楓は、1年前からずっと髪をのばしている。綺麗で長い髪の持ち主だった姉に似せようとしているかもしれない。
 (千鶴さん……)
 狭い部屋にたったひとりとり残された耕一は、心のなかで最愛の女性に囁きかけた。
 (千鶴さん、あなたがいなくなってから、おれの世界は変わってしまったよ。なんだか、なにもかもが哀しい夢みたいで、まるで現実感がないんだ。人を殴っても人に殴られても何も感じなくなってしまった。もしいま死んだら、来世であなたと再会できるかな。次郎衛門とエディフェルがこうしてふたたびめぐりあったように)
 耕一はそっと首筋に手をあてた。
 いまのかれの力なら、一瞬で頸骨を折って命を断つことはたやすいだろう。そうすれば、この見果てぬ悪夢のような現実世界から逃れ出て、もう一度、数百年後の世界で運命の人とめぐりあえるかもしれない。
 かれの手が誘惑に迷うように力をこめ――そして弱めた。
 耕一の瞳から、ひと筋の雫が流れ落ちた。それは、千鶴がこの世を去ってからかれがはじめて流す涙だった。やがてかすかな、押し殺した嗚咽が部屋の空気を震わせ、そしてその声はしだいに大きく激しいむせび泣きへと変わっていった。
 閉ざされた窓から入る蒼白い月光だけが、この若く孤独な鬼の姿を静かに見下ろしていた。

 痕SS『月光』完

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/6425/staywith_001.htm?