『彼女の風景』
1
「ごめんなさい」
長岡志保はいきおいよく頭を下げた。
吹き抜ける春風が、彼女の短い髪をふわりと揺らす。
「わたしは今特定の男性とおつきあいするつもりはないんです。だから、先輩のお気持ちに応えることもできません。だけど、好きだと云ってもらえたのは嬉しかったです」
全身を石のように固くして返答を待っていた少年は、その言葉を聞いて、どのような表情を浮かべればよいのか迷う様子だったが、結局、泣き笑いみたいな笑顔で俯いて頭を掻いた。
「そっか。うん、そうだろうな。なんとなく、そう云われるんじゃないかと思っていた。きっぱりと云ってもらってかえってすっきりしたよ」
志保も相手の少年も学校制服を身につけている。それも当然で、場所は彼女たちが通う高校の校舎の裏だった。ひとの姿はないが、近くに植えられた桜の木から風に乗って白い花びらが飛ばされてくる。日はまだ高いものの、土曜日なのですでに授業は終わっていた。もっとも、部活動があるため校内にはまだ多くの生徒たちが残っている。校舎の向こう側のグラウンドから、かすかにランニングするテニス部のかけ声が響いてきていた。
「おれも、ばかだよな」
少年は小さくため息をついた。
「ふられることはわかっていたのに。長岡さん、2年の藤田が好きなんでしょう」
「え? ち、違いますよぉ。第一、あいつにはちゃんと彼女がいるんですから」
志保は慌てて否定した。
「ヒロはただの友達です。あいつの彼女、幼なじみの子で、わたしの親友なんです。あかりって云うんですけど、すごくいい子なんですよ。あの、ちょっとぼんやりしていますけど」
「へえ、そうなの。いやさ、ふたりがすごく親しそうにしているのをよく見かけたから、おれはてっきりそういう関係なのかと思ったんだけど」
「誤解です。わたしとヒロはそんな関係じゃありません」
「うん。わかった。それじゃ、おれはこれで」
少年は、照れ隠しのように手を振って、その場から去っていった。
志保はしばらくその後ろ姿を見守っていたが、やがてさきほどのかれと同じように小さく歎息すると、軽く首を横に振った。右手を高くかかげてひらひらと振る。
「出てきてもいいわよー、雅史」
すると、校舎の影の物陰からひとりの穏やかそうな顔立ちの少年が姿を現した。 雅史。クラスこと違うものの、志保にとって最も仲のよい友人のひとりである。学校中に友達が多い志保であるが、かれと同じくらい深くつきあっていると云えるのは、最前に名前をあげたふたりしかいない。
雅史は、志保と向きあって大人びた口調で云った。
「やっぱり先輩のこと、断っちゃったみたいだね」
「うん。あんたには悪いんだけどね」
「べつに僕のことなんて気にすることないよ。確かに志保を紹介してほしいとは頼まれたけれど、成功までは保証していないからね。でも、どうして断っちゃったの? あの先輩、サッカー部でも人気があるんだよ。才能もあるし、面倒見もいいし、ルックスもなかなかだし」
志保は自慢そうに胸をはってみせた。
「べつに。この志保ちゃんの理想は高いのよ。あの程度じゃまだまだ」
「はは。云うことが志保らしいね」
雅史はちょっと苦笑した。志保はくるりと振り返って、かれがうろたえるほどじっと雅史の顔を凝視した。
「雅史さ、もてるでしょ」
からかうように彼女は云った。
「え、どうしたの、突然?」
「あんた、やたらに気が利くし、むやみに優しいしさ、女の子がほっとかないわよねー。ヒロのやつとはたいした違いだわ。あいつだったらひととが悩んでいたら背中を蹴り飛ばしにくるわよ」
「はは。それが浩之なりの優しさなんだよ。僕は困っている人をみてもひと言ふた言声をかけるのがせいぜいだけど、浩之は一度かかわると最後までなんとかしようとするからね。ほんとうは浩之のほうが僕なんかよりずっと女の子に優しいと思うよ」
「おせっかいなのよ、あのバカは」
拗ねたように唇をとがらせて足下の小石を蹴り飛ばす。
「あいつはあかりにだけ優しければいいの。憶えておきなさいよ、雅史。女ならだれにでも優しい男なんてね、だれにも優しくしないよりもずっとたちが悪いんだからね」
「うん、憶えておく」
からかいまじりの言葉に真面目な顔でうなずかれてしまったので、志保はがっくりと肩を落とした。
「あんたってほんとにまじめよねー。どうしてその性格でヒロの友達やっているわけ?」
「うん。たぶん、磁石の両極が引き付けあうようなものじゃないかな。志保とあかりちゃんだってずいぶん性格違うけど仲がいいじゃない」
「まあね」
志保は素直にうなずいた。神岸あかりは彼女の中学校時代からの親友だが、志保とはほぼ正反対の性格をしている。「女の子らしい」と云えば語弊があるかもしれないが、優しく、穏やかで、物腰もやわらかい少女だ。短気でお喋りの志保と彼女はまさに凸凹コンビだった。
志保は大きく背伸びをした。
「さ、はやく帰ろ、雅史。いまごろ、どうせヒロとあかりはふたりでべたべたしているんだろうし。邪魔しに行っちゃおうか。あのふたり、このあいだあかりが風邪ひいたときにようやくくっついたんだってさ。まったく、世話が焼けるわよね」
2
しかし彼女はまちがえていた。
その事実の生きた証拠が、校門の前に通学鞄を持ってなにげなく佇んでいたのだ。
「ヒロ! あんたこんなところでいったい何をやっているのよ」
藤田浩之は不審そうな表情でかれらをみた。
「なんだ、志保に雅史か。お前らこそいまごろこんなとこで何をやっていやがるんだよ。おれか? おれはあかりを待っているんだ。お料理クラブの下準備があるんだと」
愛想のかけらもないぶっきらぼうな口調だった。恋人の帰りを待つなどという甘やかな雰囲気はほとんど感じ取れない。
「わたしはちょっと用事があったのよ」
なぜかむっとしたような口調で志保は云い返す。浩之はそれ以上追求するでもなく、どうでもいいような生返事を返してから、大きくひとつあくびをした。
志保も女子としては背が低いほうではないが、浩之は彼女よりも頭ひとつ長身だった。いつもどことなく眠たそうな眼つきをしている男で、顔立ちそのものは悪くないのに、見る人にどこかあいまいな印象を与える。若者らしい覇気だの、客気だのは、この少年とはおよそ無縁のものだった。そのわりに何をやらせてもさして努力する様子もなく人並み以上のことをやってのけるあたりが、この少年のかわいげのないところだっただろう。
かれの熱しやすく冷めやすい性格は、あまりにもどんなことでも器用にこなせてしまうせいなのではないか、と志保は疑っていた。
「あれ、志保。お前、リップつけてるのか?」
浩之はなにげなく云った。志保は薄く人工の色がついた唇を尖らせて、
「そうよ。悪い? この程度なら目立たないし、べつに校則違反じゃないわよ。どうせあんたのことだから豚に真珠だとか云うんでしょ」
「はぁ? なんでだよ。似合っているじゃん。かわいいよ」
志保は何か口答えしようとしてもぐもぐと口のなかで何か呟いたが、結局何も云えずに俯いてしまった。花を散らしたように頬が紅く染まる。もともと端正と云ってもいい顔立ちの少女であるが、そんな表情をすると、いつもよりいくらかあどけなく、可愛らしくみえた。浩之は彼女のそんな様子に気付いた様子もなく続ける。
「だいたいお前はもとの顔だけだったら悪くないんだからさ。もっと女らしくおとなしくしていればいいんだよ。ばかな男どもが見かけに騙されて寄ってくるかもしれないぜ。そのリップ、ずっとつけていたらいいんじゃないか」
「バカ!」
志保は顔を上げて怒鳴った。いつものコミュニケーションの延長のような絡み方とはあきらかに違う、激しい瞋恚をこめた口調だった。
「あたしなんかを気安く褒めたりするんじゃないわよ。わかってんの? あんたとあかりはもうただの幼なじみじゃないのよ。恋人同士になったのよ。だったら、それらしくしていなさいよ!」
浩之は舌打ちしたげな顔で眉を顰めた。
「なんだよ、それ。お前にそんなこと云われる筋合いねえよ」
「あるわよ!」
「いや、ないね。おれとあかりの問題はおれたちで考えるべきことだろ。なんでお前にそんなこと云われなきゃならないんだよ。志保、お前、何をそんなに怒っているんだ? おれ、何かしたか?」
「あんたは何もわかっていないのよ!」
志保はさっきよりさらに大きな声で怒鳴りつけた。
「自分が何をわかっていないのかすらわかっていない。あんたがそんなじゃ、あかりが可哀想だわ」
「おい、本気で云っているのか」
浩之は剣呑な無表情で静かに云った。この男は、物静かにみえるときのほうが危険なのだ。志保はその言葉に応えず、きつく浩之を睨み据えると、彼女が来た方向とは逆の方へ駆けだした。追いかけようとする浩之を雅史の手がとどめた。かれは友人に何か短く云い諭すと、自分で志保の後ろ姿を追いかけはじめた。
雅史が志保に追いついたのは、中庭に辿り着いてからだった。彼女は青々と葉を茂らせる樹の幹に手をついてもたれかかっていた。少年は、優しく、取りなすように彼女に声をかける。
「志保、浩之が心配していたよ」
「あんなやつ、心配させておけばいいのよ」
突き放すように志保は云った。その瞳がかすかに潤んでいるようにみえたのは、光の悪戯にすぎなかっただろうか? 彼女は制服の裾で目元をこすった。
「どうしてわたしが怒ったのか、訊かないの?」
「志保が云いたくないなら、訊かないよ」
「……聴いてもらったほうがいいかもね。うまく説明できるかわからないけど……」
彼女は大きく息を吸って、吐き出した。
「あたしさ、さっきの先輩の告白断っちゃったの、ほんとうはあのひとに不満があったからじゃないんだ。べつの人でも、きっと断っていたと思う」
その青さに吸い寄せられるように、頭上に広がる蒼穹を見やる。
「男と女なんて、生臭いじゃない」
と、彼女は云った。
「わたしはさ、そういうの嫌なのよ。べつに一生ひとり身でいるつもりじゃないけど、とりあえずいまはまだそういうのはいらない。友達といろいろ喋っているほうが楽しいし、ヒロもあかりもあんたもいい奴だしさ。いまのままで、充分に幸せだもん。男なんてほしくないの」
「そう。それもいいかもね」
あくまでさからわず、穏やかに雅史はうなずいた。志保はそんなかれを奇妙なものでも見るような表情で見やって、ちょっと俯いた。
「だけど、ヒロやあかりはそうじゃない。あいつらは、もう半分大人なんだよね」
「志保……ひょっとして」
志保はきっと表情を硬くして、人差し指で雅史の胸を指さした。
「勘違いしないでね。わたしは、ヒロやあかりにやきもちを焼いているわけじゃないんだから。ただ、ちょっと寂しかっただけよ。あいつらがわたしを置いていくなんて思ってもいなかった。ばかみたいだけど、あのふたりは、ずっと変わらない関係でいるんだと思っていたの。恋人でもなく、かといってただの友達でもなくて……。だけど、人間て変わるのよね。当たり前のことなのに、あたし、いままでそのことを忘れていたみたい」
大きなため息と供に指を降ろす。
「あーあ、あたしってバカみたいよね。自分ではもっと賢いやつだと思っていたのにな」
「そんなことないよ。志保はただちょっとひとより感受性が強いだけだよ」
志保は急に額に皺を寄せて、初めて逢うひとを見るように雅史の顔を見た。
「雅史。あんたさ、いいやつだけど、ちょっといいやつすぎるわね」
「え?」
雅史はすこし困惑したようにぱちくりとまばたきした。志保は笑った。
「気のない女に優しくするな、って云ったでしょ。あんた顔がいいんだからさ、わたしじゃなければ誤解するところよ。あんたそんなんじゃ、一生女難で苦労するわよー」
「……うん。そうだね。好きじゃない子とは、距離を保つようにするよ」
雅史は、歳のわりに大人びた、何を考えているのかわからないようなあいまいな微笑を浮かべた。志保には、そこからかれの内心の思いを察することはできなかった。
かれは彼女にむかって手を差し出した。
「さ、浩之に謝りに行こう」
「……いやだけど、しょうがないわね。いくらなんでも、今回はあたしが悪いもん」
ふたりは、校門へ向かって歩き出した。歩きながら、志保は一度だけ後ろを振り返った。
中庭は、春のあたたかな日差しにさらされて、きらきらと輝いてみえた。樹の梢にはどこからか飛んできた雀が止まり、ベンチの脇にはだれかが置き忘れていったバレーボールが転がっている。ひとの姿がまったく見当たらないだけに、それは奇妙に神秘的な、感傷をそそる光景にみえた。
この風景を憶えておこう、と彼女は思った。
いつの日か、彼女が歳をとり、大人になって、アルバムを開くようにして過ぎ去った日々を思い返すとき、このなんでもない風景は、望郷にも似た懐かしさを伴って思い出されてくることだろう。
それが呼び起こす喜びも、怒りも、切なさも、そして哀しみですらも、甘い感傷のなかに溶けて、美しく記憶のなかによみがえってくることだろう。そのとき、彼女のかたわらにはいまと同じように浩之やあかりや雅史がいるかもしれないし、いないかもしれない。
それは、いまはまだ誰にもわからないことだ。
ひとつ確かに云えることは、いまこの時は、ひとたび過ぎ去ってしまえば二度と返ってくることはない、ということ。そして彼女は仲間たちと過ごすこの時間を、なによりも貴重なものと感じているということだった。
志保はひとつ頭を振って前に向き直った。その表情は、もうすっかりいつもどおりの彼女であるようにみえた。
To HeartSS『彼女の風景』完
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Knight/6425/staywith_001.htm?