■5月某日。早朝。 ■駅前。バス停。 バスを待つあいだ、弾むような会話もなく藤井冬弥はぼんやりと篠塚弥生の横に立つ。 「弥生さん…?」 ADのバイトに行く途中、場違いなところで場違いな人物に出会い、俺は驚きの声をあげた。 「いつもの愛車はどうしたんですか」 もしかしたらそれは訊いてはいけなかった、のかもしれない。 「愛車…ですか」 いつもの涼しげな眼差し。何故か遠い目をして彼女は呟いた。 「懐かしい響きですね」 「弥生、さん……?」 「藤井さん。ご存じですか? 車というものはですね」 目許をほころばせる。このひとがこういう表情を見せるのは珍しく、ごく親しい者にしか見せないことを俺は知っている。 「保全上の理由から人為的にとても脆くできているんですよ」 「――――――――はい?」 今、さらりと物騒なことをのたまいませんでした? 察するに、 「弥生さん、もしかして、事故かなんかに…っ!?」 「事故? ええ、そうですね…」 当時の記憶を反芻でもしているのか、弥生さんは心持ち空を見上げた。 「べつに故意ではありませんでしたから、あれは事故だったのだと思います」 「事故って、どこで、どうして…っ、あの、由綺は…っ!?」 無事だと、思う。昨日もスタジオで由綺とは会ったばかりだ。時間にして一、二分だったけれど、 いつもの天然な会話を交わしたばかりだ。少し疲れているみたいだったけれど、由綺はやはり、由綺だった。 でも訊かずにはいられなかった。 「北富士演習場で、です」 「そんなっ、由綺が――て、え?」 きたふじえんしゅーじょー。 「え、え?」 「どこで、と訊かれませんでしたか?」 微笑する弥生さん。一見して冷徹そうな表情だけれど、俺にはわかる、柔らかく暖かな眼差し――って、そうじゃなくて。 「北、富士、演習場、って…?」 「クルマユリやユウスゲの咲いている、とても見晴らしの好いところです」 そうじゃなくて。 「そうじゃないでしょう」 「本当です」 だから。そういうことを訊いているわけじゃなくて。 「クールダウンのために、空きの時間を利用して深夜ドライブをするのが私の最近の日課でした」 ドライブって――。 「それって普通は深夜の首都高とか、深夜の湾岸とかでしょう」 「深夜の北富士演習場です」 違う、違うよ弥生さんっ。 真夜中じゃクルマユリもユウスゲも見れないじゃん。 いやそういう問題でもなくて。 混乱する頭を振って、俺は再度、弥生さんに尋ねる。 「ああいうところって、普通は民間人の立ち入りとかダメなんじゃないですか?」 いや、そうじゃないだろ、俺。 「駄目だと思いますけれど」 即答する。 「私は森川由綺のマネージャーですから」 いや、そうじゃないでしょう、弥生さん。 微笑。 そのふてぶてしい笑みはなんなんですか弥生さん。不敵な笑みってやつですか。フテキな笑ミってやつなんですかぁ? 「とても奇麗でしたよ。照明弾に照らされて――」 「……。」 彼女は静かに吐息を繰り返して。 「輸送機から降下するパラシュート部隊――」 「……。」 誇るでもなく。 「迫り来る無限軌道(キャタピラー)の駆動音――」 「……。」 謳うでもなく。 「炸裂する砲弾に抉り取られた大量の土砂がまるで粒弾のように降り注いで――」 「……。」 ただありのままに。 「でも昨夜は少しばかり景色に見とれ過ぎていました。私の前方不注意でした」 「……。」 機械的に、語るのだろう。 「戦車と正面衝突してしまいました」 「……。」 ――事実を。 「相手が旧式でしたので、こちらはフロントガラスにヒビが入る程度で済みましたが――」 「……。」 ――どうか嘘だと云ってください。 「愛車に乗り上げた戦闘車輌は横転してしまいました」 「……。」 ――年下の男の子をからかっているだけなんだと。 「あれが九〇式だったら、サイドミラーも破損していたかもしれません」 「……。」 ――もう勘弁してください。 「まあ相手方も自らの前方不注意を概ね認められていましたし、修理費は互いに自己負担ということで示談交渉は済みましたから」 弥生さんの話を聴きながら、俺はただ泣いていた。込み上げて来る無力さを痛感していた。 由綺。ごめんな。俺、どうしようもないほど弱い人間で…。 そんな我が身が無性に愛おしくて…。 「藤井さん。修理から帰ってきましたら、宜しければ、」 俺はただ、 「今度ご一緒に、いかがでしょうか」 口の中で、 「富士の、樹海にでも――」 (夜間演習、反対だおー)と呟くしか出来なくって――。 ――なんかダメだ。ダメダメだ。http://user2.allnet.ne.jp/branch-p/