「競作シリーズ その参」「AIAUS VS 水方 VS 犬丸」「お題:ネタふりは別の人」 投稿者:犬丸 投稿日:6月3日(土)01時29分
この競作は、
『AIAUSさま→水方さま→僕→(AIAUSさま)』
といった順番に導入部分を書き上げ、渡し、オチを渡された作者が仕上げるといった形
式になっております。
つまり、僕の場合はネタ振りが水方さまで、オチを僕が書き上げました。

分かりにくい説明で申し訳ありませんが、そう頭の片隅に置いて読んでいただけると幸い
と思います。

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最後に水方さま、後半の内容を考えて、水方さまのフォーマットを崩してしまった事に深
くお詫び申し上げます。

===+++===


title:『いつか帰る、あの場所へ』


(導入:水方さま)

 8月12日、午後10時過ぎ
 鞄の中でぶるぶる震える携帯を取り出して、ちらと液晶を見る。
 【発信者番号】のあとに、そっけなく並ぶ11桁の数字。
 電話を取ると、冬弥は数瞬だけ固まった。

「はい、藤井です……あぁ、英二さん」

「そこに、理奈はいるかい?」

「いいえ、いませんよ」

「そうか……」

 電話の向こうで、緒方英二が気落ちしている事に違和感を感じた冬弥は、三十分後
に喫茶『ブラン・マンジュ』で会う約束を取りつけた。


 聞いてみると、英二が落ち着かない理由はただ一つだった。
 だがその理由を知った冬弥もまた、英二と同じ境地に陥る。
 緒方理奈が、行方不明になった。
 今日の仕事を早々に終え、スタジオの音響スタッフに「バイバイ」と手を振る姿を
見かけられたのが、午後8時49分。
 それから以後の足取りが、まったくわからないとのことだった。
 9時半から始める予定だった企画会議に顔を出さないので、弥生が理奈の携帯に電
話をかけ、繋がらなかったことからわかったのだと英二は言う。
 もちろん、それ以後も、英二のもとに連絡はない。


「君なら何か知っているかと思ってね」

 煙草を吸うそのしぐさにも、いくぶん気だるさが感じられる。

「残念ながら……何も」

 こんな姿の英二を見るのは、冬弥には初めてだった。

「明日も仕事なんですか?」

「11時に新木場の代理店でプレゼンを兼ねて『おひろめ』をする。……午後はオフ
にしてるよ」

 そこで、英二は冬弥の顔をきっ、と見据えた。

「……『時間を作りたい』とだだをこねられたからね」

「はは……」

 確かに、理奈と二人で映画を見ようと約束してたのは事実である。

「本当に何も知らないのか?」

「……何も」

 冬弥もまた、真摯な顔を英二に向ける。
 にらみ合いのようになったまま、数十秒経った。

「じゃぁ、何かあったら知らせてくれ」

 伝票をさり気なく持ち、英二は席を立った。

「初めて、だよ……」

「英二さん」

「……理奈が何も言わず仕事を飛ばしたのは」

 その言葉を最後に残し、緒方英二は喫茶店を出た。
 きびきびと歩くその姿に、ひどい虚無の影がまとわりついた気がしてならなかった。


(継続:犬丸)

 冬弥はそのまま、何をするわけでもなく帰路についた。
 誰かにむしょうに会いたかったが、誰に会っていいのか分からなかった。
 誰に話していいのか、何と話していいのか、冬弥には分からなかった。
 自然と足は自分の家に向かった。
 扉を開けると、夏の熱気をたっぷりとその身に宿した空気が、部屋を息苦しいまでに蒸
らしていた。汗を拭いながら窓を開け放つと、冷蔵庫に入っていた2L入りのお茶を、ペッ
トボトルから、直接喉に注ぎ込む。
 いつもの癖で、オーディオのスイッチを付けると、そこからはよく理奈と由綺がパーソ
ナリティを勤めるラジオ局の音楽番組が流れてくる。この二人の番組を聴くために合わせ
ていたら、いつの間にか、ここしか聴かないようになっていた。
 ベッドに身を投げ出し、あてもなく視線を天井に彷徨わせる。

 (理奈ちゃん……どうしたんだ?)

 一週間前、映画の約束をした時の理奈は、これ以上なく上機嫌で元気だった。

「本当!? その映画、ずっと気になってたの!!」

「仕事? 大丈夫よ、最近なんだか調子がいいし、オフもあんまり無かったから、ちょっ
と言えば、兄さんも休みくれると思うわ」

「それじゃあ、冬弥君のために、お仕事頑張らないとね」

 その時の理奈の台詞が、冬弥の脳裏にリフレインする。
 そのままうとうとと眠りそうになった時、テーブルの上に投げ出しておいた携帯が激し
く身震いし、がたがたと音を立てて、テーブルの上をけたたましく移動した。
 呆けていた冬弥は、突然の事にびくりと跳ね起き、早鐘の様な心臓の鼓動を感じながら
携帯を取った。着信のところに『理奈ちゃん』という、ドットで表現された、堅苦しい文
字が浮かぶ。それを見ると、慌てて開始ボタンを押す。

「理奈ちゃん!? 理奈ちゃんなんだろ? どうしたの、どこにいるの?」

 繋がった途端、冬弥は堰を切ったように、その電話の向こう側へと問いかけた。

「冬弥……くん? どうしたの?」

 受話口の向こう側から、よく通る、鈴の音のような綺麗な声が流れてくる。
 その声は、どこか困惑しているようだ。

「えっ……だって、理奈ちゃんが会議に来なかった、こんな事は初めてだ、って英二さん
に聞いたからさ……」

 慌てて冬弥は、言葉を繋ぐ。
 そう言った途端、電話の向こう側でくすくすと笑い声が起こった。

「なんだ、もう兄さん冬弥くんに教えちゃったんだ。これから私が驚かそうとしたのに」

 妙にさばさばとした口調。
 ――これから私が驚かそうとしたのに?
 そこ言葉に冬弥は違和感を感じた。

「うん、さっき喫茶店で会ってきたんだ。それで……」

「そう……」

 理奈がそう言ったきり、口篭もった。

「どうしたの? 明日も仕事があるんだろ、早く英二さんに連絡しなくちゃ……英二さん、
凄く理奈ちゃんの事心配してて……」

「兄さんの事を言うのは止めてっ!」

 叫ぶような声が、冬弥の耳に突き刺さった。

「理奈ちゃん……」

「ごめん……ごめんね……大きな声出しちゃって……。でも、もういいの仕事のことなん
か。もう考えなくていいの……」

 泣きそうな、か細い震える声。
 今まで一度も聞いたことがない、理奈の声であった。

「何があったの? 俺でよかったら話を聞くよ」

 理奈を刺激しないように、ゆっくりと優しく冬弥は話す。

「うん……私、もう芸能界引退する」

「――!」

「なんかもう、どうでもよくなっちゃった。だから、辞めるの」

「ちょっと、理奈ちゃん。何で!?」

 今度は冬弥が叫んだ。

「訳は今度……私が普通の女の子になったら話すね。兄さんから電話がきても、知らないっ
て言っておいて……」

「理奈ちゃん、今どこにいるの? 俺がすぐ行くから、場所を教えて。理奈ちゃん!」

「北海道」

「北……海道?」

「うん。さっき空港に着いたばかり。これからどこに行こうか迷ってるの。しばらくはこ
こらへんを廻ってみるつもり。それじゃあね、冬弥くん」

「ちょっと待って、理奈ちゃん! 理奈ちゃん!!」

 そう叫ぶが、もう受話口は理奈の声ではなく、無機質な発信音を伝えるばかりであった。

 (理奈ちゃん……)

 冬弥は、壊れるくらいに、携帯電話を強く握り締めた。


 10時間後、冬弥は機上の人となっていた。
 窓側の席に座り、眼下にどこまでも広がっている雲海を見つめる。
 理奈の電話のすぐ後の事であった。

「――という訳なんですよ」

 すぐに英二の携帯に電話を掛けた冬弥は、一通りのあらましを伝えた。

「……そうか」

 肺を絞るような、苦しげな声を英二が出す。
 お湯を入れたインスタントラーメンが、出来上がるくらいの沈黙が続く。

「わかった。俺はなんとか手を尽くして、2日間。明後日まで理奈のスケジュールを空け
る。その間に青年。君が理奈を探して連れ戻してきてくれないか?」

 沈黙を破ると、英二はそう矢継ぎ早に言う。

「そんなっ! 俺には無理ですよ。大体どこにいるのかも分からないのに」

「函館だよ」

 さも当然といった響きの英二の声が、冬弥の耳に響いた。

「分かるんですか?」

 ふと、これは兄妹の間の不思議な絆やらの力なのか。と冬弥がいぶかしんだ時

「ちょっと、心当たりがあるんだ。北海道だったら多分、函館に向かうはずだ。間違いな
いよ」

 と英二が言った。

「でも、函館といっても広いですよ?」

 さらに冬弥が疑問を挟む。

「函館山の展望台。夜になればそこに現れると思う。いや、理奈は“そこにしか現れない”」

 預言者のような、確信めいた口調。
 しかし、その言葉には力があり、冬弥はなぜか信じていた。

「わかりました!」

 数瞬の間を置いて、冬弥はそうハッキリと答えた。


 (ここが、函館かあ……)

 感慨深げに、冬弥は展望台から、視界に広がる街並みを見渡した。
 あと一時間ほどで沈もうとする太陽が、最後の力を振る絞るように、木々を萌えるよう
に際立たせ、ビルも家もどこか霞んだように揺らめかせる。陽光を反射させる海は、まる
で冬弥の知らない世界で出来た万華鏡のように、光を弾き、波打ち、一瞬たりとも同じ表
情を浮かべなかった。

 (綺麗だな)

 自分が何をしに来たのかをふと忘れて、それに見入ってしまう。
 朝一番の飛行機に乗り、電車を乗り継いでやってくる、都合10時間の旅。
 今、時計は6時を指していた。

 太陽は刻一刻と角度を深め、徐々に海に飲み込まれ様としている。
 ぶるぶると身を震わせる太陽に、呼応するかのように、街も樹も、紅く暮れなずんでゆ
く。それは、そのまま世界が終わってもおかしくないと思えるほど、美しい光景であった。
 もうすぐ、夜の腕(かいな)が、街を優しく抱こうとしていた。

「冬弥……くん」

 その時、街を眺めていた冬弥の後ろから、驚いたような声が聞こえた。

「理奈……ちゃん」

 冬弥も後ろを振り向くと、驚いて声を上げた。
 英二の言った事が当たったのが、本当に不思議だった。
 理奈は、濃い色のサングラスをつけ、髪も普段はあまりしないアップに纏め上げていた
ため、冬弥が間近で理奈を見たことが無ければ、分からなかった。

「どうして……どうしてここに居るの?」

 当然な疑問を発する。
 冬弥には『北海道』と言っただけで、詳しい場所は教えていなかったのだから。

「俺も今、驚いてるんだ」

 冬弥は微笑んで言った。
 その言葉に、理奈はさらに困惑したような表情を浮かべる。

「英二さんが教えてくれたんだ。『理奈はここに現れる』って。本当に来るとは思わなかっ
た。驚いたよ、理奈ちゃんが目の前に現れた時。蜃気楼でも見てるのかと思った」

 英二の名前が出た瞬間、理奈は悲しいような、嬉しいような不思議な表情を浮かべた。

「そう……あの人が……」

「何があったのか教えてくれなかな?」

 冬弥はそんな言葉を口にした。

「それは何、個人的な質問? それともあの人の差し金としての質問?」

 急に、口調に険を持たせると理奈は言った。
 冬弥は、ゆっくりと首を振ると、少しだけ哀しい目をして理奈を見つめた。
 その目を見て、理奈は言葉が詰まる。

「違うよ。俺は理奈ちゃんの力になりたくて、理奈ちゃんの支えになりたいから……だか
ら聞きたいんだ。英二さんも誰も関係ない。ここに居るのは俺の意思だし、理奈ちゃんに
会えるなら、どこにでも行こうと思ったから、俺はここに居るんだ」

 空気に滲み出るような、不思議な雰囲気をもった言葉が、冬弥の口から溢れる。

「ごめん……なさい」

 理奈は俯き、サングラスを外した。
 その瞳には蔭が落ち、一層哀しそうな光を放つ。

「理奈ちゃんの事だから、また一人で抱え込んでるんじゃないかと思ってね。そんな時は
誰かに全部話した方がスッキリする事もあるしさ。嫌な事は、まるめてごみ箱に捨てた方
がいいよ。俺、大した事は言えないけど、ごみ箱くらいにはなれるからさ」

 微笑を崩さぬまま、冬弥は言う。
 その言葉をじっと聞いていた里奈は、それが十分に、自分に染み込むのを待つようにして
から、

「うん」

 とだけ答えた。


 自販機で紅茶を二つ買うと、二人はどちらから言うわけでもなく、なるべく他の観光客
から離れたベンチに腰を下ろした。しばらく何も言わないまま、函館の夜景を見つめる。
湾を囲むように、様々な色の光が撒き散らされ、湾の中には夜の漁の光が、踊るように舞っ
ていた。

「時々……分からなくなるの……」

 唐突に理奈が口を切った。
 暗く、重く、沈んだ口調。それが今の理奈の心理を如実に表しているようでもあった。

「何が?」

 あくまで話を促すような口調で冬弥は訊く。

「自分が……ううん、テレビの中の自分と、今の自分。どっちが本当の『緒方理奈』なのか
なって……」

 呟くような、それでも明瞭な発音で理奈は言う。

「でも、理奈ちゃんは理奈ちゃんだろ? テレビに映っていようと、どこにいようと『緒
方理奈』って事には変わらないよ。大体、どっちが本当だなんて考えるのは、違うと思う。
どっちとも『本当』の理奈ちゃんなんじゃないかな」

「普通はそう考えるよね。私もそう思おうとしたし、そう考えるのが普通だと思ったわ。
だから、気にしないようにしてた。でもね、何か違うの。そう考えれば、そう考える程、
溝みたいなものがどんどん広がって『緒方理奈』の部分と『アイドルの緒方理奈』の部分
が、だんだんと分かれてくるような気がしたの」

 冬弥は黙って、理奈の顔を見つめていた。
 理奈の眉は苦しそうに顰められ、言葉は微かに震えていた。

「初めは、そういうのが面白かったわ。もう一人の自分がいるみたいで。そして、その二
人を自由に使いこなしているんだっていう自負心のようなものがあった。私は上手く『演
じている』って感じがしてたの。よく考えると、そうじゃ無かった。私はただ、人が望む
ようなものを演じていただけ。テレビの前の人が、ファンが、周りの人間がそういう、い
つも毅然として、ちょっと自信家で、歌も演技もそつなくこなす――そんな『緒方理奈』
を求めていたから、だから私はそれを演じさせられていただけなの」

「理奈ちゃん……」

 冬弥は何を言っていいのか分からずに、理奈の名前を呼んだ。
 理奈は軽く首を振る。

「子供の頃からそうだった。昔から要領が良かったのね。自慢してるみたいだけど、私っ
て昔からなんでもそつなく出来ちゃったの。走れば一等になったし、絵を書けば、金色の
シールが貼られて、賞状をもらったわ。勉強も、家では特になにもしなかったのに、10
0点ばかり貰ったの」

 確かに理奈以外の人間が言ったら、自慢に聞こえたであろう。しかし、そんな自分に嫌
悪感を持ちながら話す理奈には、それが理奈という存在に与えられた、当然の付録のよう
にしか聞こえなかった。

「でも、一番嬉しかったのは、兄さんに歌を誉められた時かな。兄さんって、私が小学校
に上がった頃から、音楽をやっててね。二人とも子供の頃からピアノとかヴァイオリンを
やらされていたから、それが当たり前といったら、当たり前だったんだけど。その頃、よ
く兄さんの伴奏に合わせて歌ったの。上手く歌えると、兄さんが誉めてくれるのが凄く嬉
しかった。兄さんの作った曲にあわせて歌うのが、今までのどんな事よりも楽しかった。
だから兄さんがプロになって、二人で一緒に歌った歌を、ラジオやテレビで聞くのは私に
とって、何よりも名誉な事だったし、兄さんが引退するって言った時は本当に哀しかった」

 理奈はそこで一息つくと、紅茶を一口飲んだ。冬弥もつられるように、紅茶を口に含む。
 しばらく無言の時間が続いた。

「引退してしばらくしたころ、プロダクションを作った兄さんが私に言ったの『理奈、今
度は理奈が歌う番だよ』って。嬉しかったんだ、本当に。そう言われた事がじゃなくて、
兄さんが私を認めてくれたことに。正直に言うと、あの人の事、子供の頃から天才だって
思ってたの。私じゃ絶対に敵わないくらいの才能を持ってることに気が付いていた。でも
そんな兄さんが、私を認めてくれた。それが嬉しかった。だから頑張った。辛い事はいく
らでもあったけど、それだけで何でも乗り越えられる気がした――でもね、それは私の勘
違いだったの」

「何が勘違いなの? 英二さんはいいとして、理奈ちゃんも才能があるだろ。今の理奈ちゃ
んがそれを証明してるじゃないか。才能の無い人間が、そう簡単に、芸能界のトップに立
つ事なんて出来ないじゃないか」

「確かにあったのかもね――『鏡』としての才能は」

「かが……み?」

「うん。最近よく考えるんだけどね、結局私って、自分では何も持ってないの。自分で何
も決めた事がないの。兄さんが歌の上手い私を望んだから、私は歌の上手い緒方理奈になっ
た。周りの人が、ちょっと高飛車で上品で、いつも毅然としている緒方理奈を望んだから
私はそうなった。ファンがそれでもどこか親近感のある緒方理奈を望んだから、私は笑い
たくもない下らないバラエティーで笑うようになった――みんな、みんな、私じゃなくて
周りの人がそう望んだから! 私がそうじゃないと、みんなが私を見ないから! 私が、
望まれている緒方理奈以外の言葉を言ったりしたら、途端に私を糾弾するの! 『そんな
事をするのは、緒方理奈じゃない!』『理奈ちゃんは、そんな事言ったりしない』って!!
じゃあ私は何!? 『緒方理奈』って一体なんなの!? ただ、みんなの望む姿を映す、
鏡であればいいの? 普段のままの私じゃ駄目? みんなそんなに『アイドルの』緒方理
奈が好きなの? 自分が望んだ理想のままの、そんな作り物みたいな緒方理奈じゃないと
嫌なの? ねえ、教えてよっ! 冬弥くん、答えてよっ!!」

 理奈は一際感情的な声を出すと、そのまま黙り込み、肩を震わせた。目に涙は見せない
けれど、体の中で泣いているようであった。

「理奈ちゃん……」

 冬弥は、そっと理奈を抱き寄せる。
 今の自分が、どれほど無力かを、身に感じながら。
 理奈の震えが、そのまま冬弥へと染み渡るようであった。
 夜の静けさが、いやに耳に痛かった。

「誰も……誰も私の事なんか見てはくれない……私はみんなの願望を写す鏡であればいい
の……それで誰もが満足するの。私は結局、自分がなりたくてアイドルになった訳じゃな
いのよ……兄さんが誉めてくれたから、みんなが誉めてくれたから……だからアイドルに
なった……私は自分で何も決めてない……ただ流されて、踊らされて、いつの間にか勝手
にイメージを押し付けられて……それを拒む勇気もなくて……ただ……演じさせられてい
ただけ……みんなの望む緒方理奈を……」

「……そんな事はないだろ? 理奈ちゃんはいつも自分の出来る限りの事を精一杯やって
きたじゃないか。その努力も嘘だと言うの? 今の理奈ちゃんは、その努力があったから
こそ、出来上がったんだろ?」

「奇麗事ばっかり言わないでよっ! 何? 冬弥くん、聖人君子か何かなの? それとも
一般論の国の王様? 人にそんな事言えるほど偉いんだ? そんなに自分の人間が出来て
ると思ってるんだ? そんな台詞、何百回も聞いたわよ! そんな言葉で、夜ぐっすり眠
れるんだったら、毎晩私は安眠してるわ! ……わたしは……わたしが聞きたいのはそん
な言葉じゃないの……もっと、もっと、本当の私を見て欲しいの……『それでいいんだ』っ
て言って欲しいの……」

 冬弥のTシャツを掴み、その胸に顔を埋める。
 冬弥の胸に、熱い雫が染み込んでくるのがありありと感じられた。

「俺……理奈ちゃんの事、好きだよ」

 理奈が、涙で頬を濡らし、冬弥の顔を見つめてくる。

「あの……今後はどうか分からないけど、今は、と、友達としてだけどさ。俺、笑ってる
理奈ちゃんが好きだし、怒ってる時の理奈ちゃんも好きだ。哀しんでる時も可愛いと思う
し、今みたいな泣いている理奈ちゃんも好きだ。勿論、ステージで歌ってる時の理奈ちゃ
んも好きだ。でも、俺はその『俺の好きな理奈ちゃん』を、別々に考えるなんて事はしな
いよ。それは全部、俺の中ではたった一人の理奈ちゃんだし、それを別々に考える事なん
て出来ない。これも俺が勝手に理奈ちゃんに押し付けたイメージかもしれないけど、俺の
中では『緒方理奈』ってのは、世界中を捜してもたった一人しかいないんだ」

 抱き寄せる腕に、少しだけ力を加えて、冬弥は理奈の耳元で囁くように言う。

「理奈ちゃんは、歌う事が嫌い?」

 顔を伏せたまま、理奈は首を左右に振る。

「じゃあ、なんで理奈ちゃんは歌うの?」

 理奈は俯いたまま、じっと黙っている。
 冬弥も、何も言わないまま、理奈の体温を感じていた。
 天使が、いやにゆっくりとしながら二人の間を通っていく。

「歌うのは……好き」

 ようやく理奈が、声にならないような声で、そう呟く。

「歌うのは、好き。……歌っていると、満たされるの。私の中の感情が、心が、歌に乗っ
て行くのが分かるから……それに、みんなの心も分かる。歌を通して、ダイレクトに伝わっ
てくる。それがたまらなく気持ちいいの。歌ってる時は、私は自由だから……一番開放さ
れているから……私は、歌うのが、好き」

 一番奥の塊を、一つ一つ拾うように、理奈は言葉を紡ぎだす。
 冬弥の後ろで、微かだが砂利を踏むような音が聞こえた。

「なんだ、ちゃんと居るじゃないか。『そのままの理奈ちゃん』が」

 理奈がゆるやかに顔を上げ、冬弥を見つめる。
 その目は、驚きに満ちていた。

「ねえ、英二さん」

 理奈を抱きかかえたまま、後ろを振り向くと、一人の男の影があった。
 よほど急いで来たのだろう、顔には玉のような汗が浮かび、顎からしたたり落ちて、地
面に染みをつける。シャツにも汗が染み込み、べったりと肌に張り付いている。しかし、
そんなことは、おくびにも出さぬとしているのか、英二はあくまで冷静な表情を貼り付け
ていた。それが冬弥には堪らなく可笑しかった。

「そのとおりだよ、青年」

 英二は、ハンカチで汗を拭うと、ゆっくりと近づいてきた。

「兄さん……なん……で?」

 先ほどより、より困惑の表情を深めながら、理奈は驚きを表した。
 嬉しさを表現していいのか、怒ればいいのか分からないまま。
 英二に泣き顔を見られたくないのか、慌てて、腕で涙を拭う。

「懐かしいね、この場所も」

 二人の脇を通り過ぎ、手すりに身体をもたれ掛けさせると、夜景を見つめながら英二は
ぽつりと言った。

「覚えてたんだ……」

「ああ、だから青年がここにいるんだろ。あと、俺もな」

 冬弥が、英二を見る。冬弥の視線を受けると、英二は軽く笑って話し出した。

「ここはね、俺たちの家族が初めて、そして最後の家族旅行の時にきた場所なんだ。うち
は父親も母親も忙しい人でさ、しょちゅう海外を飛び回っていたし、かといってそれに俺
たちを連れて行くような事もしなかった。そんな両親が、ある日二人とも休暇が取れてさ、
旅行しようって事になったんだ。俺が17で理奈が7歳だったな。それで選んだのが、よ
りによって、この函館だぜ。笑っちゃうだろ。普段は散々海外に行ってるのにさ」

 そこまで言うと、シャツのポケットからタバコを取り出し、ジッポで火を点ける。
 蛍のような光点が、闇の中にぼんやりと浮かびあがった。

「でもさ、その旅行は楽しかったよ。本当に。みんなで色んな所を回ってさ、ハリトリス
正教会とか、五稜郭公園とか、そういった普通の観光客が行くような所。で、普段泊まら
ないような旅館で一緒になって寝て。虫が出たって、理奈が夜泣きして――」

 その言葉の部分で、頬を膨らませ理奈が顔を背ける。

「最後の夜に来たのがこの場所だった。生まれて初めてだったよ、こんなに夜景が綺麗だ
と思ったのは。理奈も嬉しそうだった。その時みんなで約束したんだ。またこの場所にこ
よう、ってな。だから理奈が北海道に居るって聞いたとき、ピンときたんだ。この場所に
違いないって。理奈もまだ幼かったし、覚えていないかもしれないけど、きっとここに来
るだろうってな」

 煙草を一息吸い、肺に充満した紫煙をゆっくりと吐き出す。煙が、幾何学的な模様を空
中に描き出し、儚げに消えてゆく。

「あいにくと、記憶力はいいのよ。ちゃんと覚えてたわ」

 拗ねた口調で理奈が言う。それを聞くと、英二が少しだけ意地悪そうに微笑んだ。

「二人の、大切な思い出の場所なんですね」

「おいおい、えらくロマンチックな表現を使うじゃないか青年。照れるだろ」

 本当に照れているように、英二は頭を掻いた。

「理奈はさ、何を求めてるんだ?」

 英二が突然里奈に話し掛けた。
 途端に「えっ?」という顔を理奈は作る。

「芸能人を辞めて、それで何を求めるんだい? 普通の日常? 普通の恋? それとも
『本当の自分』ってやつかい?」

 迷子の子供を見つめるような、優しい顔で英二は理奈を見る。

「よく……分からない。でも、私は、ありのままの私でいたいの……」

「そんなものは無いよ」

 躊躇なく、英二は言い放った。
 驚いた表情で、冬弥と理奈が英二を見た。
 熱気を振り払うような、涼やかな風が、三人の間をびょうと吹き抜けた。

「そんなものは、何処にもないよ。俺だってそんなものがあったら見てみたいさ。俺もそ
うだけど、結局は人間なんて、なんかしら妥協したり譲歩したり、諦めたりして生きてる
もんだろ。誰かと会っても、自分だけ話して、他人の話を聞かないヤツは嫌われるし、目
上の人間が、面白いだろうと思っている話を聞かされて、笑わないヤツもやっぱり嫌われ
る。誰かとコミュニケーションを取る上で、この社会で生きていく上で、人間ってのは、
様々な、用途に合わせたペルソナを付け替えて、自分の一部を、あるいは全てを殺してな
んとかやっているんだ。本当の自分なんて考える方が間違ってる」

 ゆっくりと英二は理奈に近付いた。

「だからさ、そんな面倒臭い事考えないで、あるがままを受け止めればいいんじゃないか?
それに理奈には、理奈だけの特別な場所があるんじゃないか」

「……何?」

 いぶかしげに理奈は英二に問い掛けた。

「ステージだよ。さっきの君たちの話、最後の方だけ聞こえたんだけどさ、理奈は歌うの
が好きなんだろ。ステージにいる時は100%の自分を表現出来るんだろ。それでいいじゃ
ないか。大体、そんな『自分を表現出来る場所』を持っている人間なんて、そしてそこで
輝ける人間なんて、滅多にいないんだぜ。これだけ与えられて、それでも不満を言うなん
て、それは単なる傲慢、わがままだよ。甘ったれた子供の戯言だね」

 最後の『戯言』を、揶揄するような感じで言う。
 理奈が、きっとした目つきで英二を睨む。

「俺にもそんな時期があったから分かるけどさ、別にそんなこと、どうでもいいんだよ。
理奈は別に無理して変る必要もない。周りに合わせて変る必要もない。俺や、青年。それ
に周りの人間や、ファンが求めてるのは『ありのままの理奈』なんだからさ。これは本当
だぜ。俺の芸能人生を賭けてもいい。なんかごちゃごちゃ言う奴が現れたら、お前の実力
で黙らせちまえばいい。理奈は――そのままでいいんだ」

 英二は、唱えるように言うと、理奈の頭の上に手を載せ、少し乱暴に撫でる。
 理奈は、顔が見えないように俯きながら、その手の温もりを感じていた。
 ゆっくりと、沈黙が降りてきて、その場に堂々と鎮座する。
 冬弥は、その二人の光景を微笑ましく、そして少しだけさびしく感じた。
 しかし、

 (まったく、この二人は……)

 と、微かな温もりに似た感情もあるのも確かだった。

「青年」

 沈黙を破り、英二が冬弥に声を掛ける。

「なっ……なんですか?」

 冬弥は、ふと我に返って返事をした。

「ハラ、減ったろ。函館には旨いウニ丼を喰わせる所があってな。そこもさっき話した旅
行で、親父に教えてもらった所なんだけどさ。今からそこに行かないか?」

 英二が陽気にそう言うと、理奈が可笑しそうに、くすくすと笑い始めた。
 二人が不思議そうに理奈を見る。

「あはははは……あっ、あのね、兄さん。私ね、お昼そこで食べてきちゃった」

 そう言いながら、理奈は笑い続ける。

「そうか……じゃあどうするかな……?」

「いいわよ、まだイクラ丼は食べてなかったから。私はそれにするわ」

「それじゃあ、そこに行くか。――っと、そういや理奈、お前今日明日と急病でオフになっ
てるからな。この際だから、ゆっくり休みな」

 その言葉を聞いた途端、理奈の顔が暗くなる。
 自分のしでかした事の重大さにようやく気が付いた。

「……ごめん……兄さん。大変だったでしょ?」

「なに、テレビ局の奴等なんて『もう、お前の所には理奈を出さないぞ』って言ったら、
みんなアッサリ黙ったよ」

 軽く笑いながら英二は言うが、そんな言葉がまかり通るような業界ではない事を、理奈
はよく分かっていた。

「ごめん……ごめんね……兄さん」

「うるさい奴等に言い聞かせるいい機会だったよ。しかし、明日は丸一日オフになるから
な。青年を連れて、どっかで遊んでくるといい。今なら、藤井冬弥、無料一日レンタル中
だ。どうだ、借りてみないか?」

「ちょっ……ちょっと英二さん、俺は物ですか?」

 憤慨したように言うが、その唇の端には笑みが張り付いている。

「似たようなものだろ? それとも理奈に貸し出されるのが、そんなに不満か?」

「いえ、そんな事はないですけど……」

「兄さん、冬弥くんはおもちゃじゃないのよ」

「そうか……理奈はいいのか。それじゃあ、青年は明日一日俺に付き合ってもらうとする
か。男二人で熱いアバンチュールを過ごそうじゃないか」

「それは駄目っ!」

 慌てて理奈が叫ぶ。
 その言葉を聞いて、笑いを堪える英二の視線を受けると、途端に真っ赤になる。

「ははは、やっぱり理奈ちゃんは可愛いなあ。青年もそう思うだろ?」

「はっ、はあ……」

「兄さん!」

「残念だが、今回は理奈に譲るか」

 本当に残念そうな顔を浮かべて、英二は肩を落とす。
 その姿を見て、理奈と冬弥が、少しだけ声を出して笑う。
 話の終わりを感じた冬弥は、山を降りるために立ち上がり、少しだけ伸びをした。
 理奈はまだ、名残惜しそうにベンチに座っていた。
 英二と冬弥はそんな理奈を見ると、

「さあ、いくか」
「さあ、いこう」

 と、まるで図ったように同時に言い、同じタイミングで理奈に手を差し伸べた。
 二人は、少しだけ驚いたようにお互いの顔を見て、軽く笑いあう。
 しかし、どちらともその手を引こうとはしなかった。
 二つの差し伸べられた手。
 ちょっとした意地の張り合い。
 その手を見つめて、理奈は少し困ったような顔をする。
 刹那の沈黙の後、理奈は、子供のように無垢で無邪気な微笑を浮かべると、まるで高貴
な姫君のように、ひとつの大きな手を

 ――そっと、握った。

「それじゃあ、行きましょ!」

 理奈はその手を握ったまま、軽く走り出した。
 もう一度、帰るために。

 ――あの場所へ。



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このような、方式は初めてだったので、ちょっと焦りましたが、何とか書きあげることが
出来ました。犬丸初めてのシリアスです。
また、この企画を立てていただいたAIAUSさま、そして緒方兄妹好きの僕のために、あのよ
うな導入を書いてくださった水方さま、ありがとうございました。

はじめは、理奈が行方不明と言うことで、誘拐事件を絡ませたミステリにしようと思った
のですが、無理でした、僕には(笑)

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シリアス / WA / 理奈・冬弥・英二


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