とうとうこの日がやって来た。 何かっていうと、葵ちゃんの記念すべき、エクストリーム大会デビューの日。 この大会に向け、特訓を積んできた葵ちゃんの、念願の日だ。 こんな日に燃えねぇハズがねぇ!! ――と、断言したい所だが、当の本人は、やや暗い面持ちで控え室のベンチに座ってい る。 「どうしたんだよ、葵ちゃん? 浮かない顔をして。今日はずーっと目指してた、エクス トリーム出場の日だろ?」 俺はそう声を掛けた。 ちなみに、俺がなんで控え室に居るのかと言うと、俺もセコンドとして葵ちゃんの闘い を見守るからだ。 「……せんぱい…いえ、嬉しい事は嬉しいんですけど……」 葵ちゃんは、ぎこちなく微笑みそう言ったが、言葉尻が消えるように、喉に飲み込まれ ていった。 「どうした? 言いたい事があるなら今ここで全部言っちまったほうがいーぞ。俺たち、 何でも話し合える仲なんだろ?」 俺は、肩をポンと叩くと、にかっと笑ってそう言った。 「あの……じゃあ、聞きたいんですけど、やっぱりコレ、似合わないんじゃないかな? って……」 葵ちゃんは、ややはにかみながらそう言うと、今着ているユニフォームを摘んだ。 この大会に合わせて新調したやつだけど、葵ちゃんは、どうもそれが恥ずかしいらしい。 事の次第はこうだ―― 大会の一ヶ月前、俺達の元に、エクストリーム大会参加受理の書類と、参加要綱をまと められた分厚い封筒が届けられた。 葵ちゃんは、全ての大会規約を暗唱出来るくらいに記憶していたのだが、一応のチェッ クの為、二人で眺めていると気になる一文が飛び込んできた。 それは―― ● ユニフォーム(着衣)について。 という条項だった。 何だか難しい文章で、色々と書いてあったが、簡単に要約すると、 1:ユニフォームは基本的に自由である。 2:危険な飾りや、攻撃に使用できるような装飾はしてはならない。 という事だけだった。 つまりは、トゲトゲとか付いてたり、鉛が入ってたりしなければ何でもOKという事だ。 エクストリームは総合格闘技大会であるけど、やはりテレビとかで放送される分、演出 もやや大げさになる傾向になり、多少なりともショウアップの要素が出てくる。 それが、ユニフォームにも反映されてくるわけだ。 実際、女子プロレスでも、レスラー独特のコスチュームなんか着ていたりするので、そ の流れ的に当然の事と言えるかも知れないが。 それに、見ているほうも、画一的で地味なユニフォームよりも、その選手の属性という か、個性が出ているユニフォームの方が見ていて飽きないからな。 だから、俺としてはハデなユニフォームは大賛成だ。 ところが葵ちゃんは 「……うっかり忘れていました」 と、その条項を読むと、困ったように笑った。 「まあ、こういうのって意外に気が付かないモンだからな。それに葵ちゃんは初参加なん だし、こういった事より、試合そのものに意識が集中してたから、しかたねーよ」 俺は、軽く笑って葵ちゃんの頭に手をおくと 「で、どんなユニフォームにするんだ?」 と付け足した。 「……」 葵ちゃんは、眉をひそめると、俯いて黙った。 「どうした?」 「……ないんです」 「ユニフォームが? まあ、確かにいきなり用意しろと言われても『はい、そうですか』 って訳にはいかないからな。……ああ、葵ちゃん空手やってたろ? 葵ちゃんのスタイル は空手がベースなんだから、空手の道着でいいんじゃねー」 俺は、そう言った。 「はあ……でも、私は空手を捨てた身ですし、本格的にエクストリームをするには空手の 道着は不利ですから、それはちょっと」 「なんで?」 「空手は、打撃のみの格闘技ですから、あの道着でもいいんです。ですが、エクストリー ムは総合格闘技です。掴みや投げがありますので、ダブついた、掴みやすい道着は不利に なるんです。柔道なんかの組み技主体の格闘技とかですと、そういった柔道着などを着て いる者同士が試合するという、同条件下の前提があって、初めて成立するスポーツですし、 エクストリームにはアマレス出身の方などの、組み技主体の選手が沢山います。だから、 空手の道着なんかは、組み技をメインにする方達にとっては格好の獲物になるんです」 そういやそうだな。 服を掴めるって事は、簡単に組めるって事だから、組み技系から見たらおいしい敵にな るだろう。 よく考えると、このあいだ見たエクストリームのビデオでも、ユニフォームは掴み所の ない、身体に密着するレオタードタイプのものが殆どだった。 うーむ、みんな考えてるんだなぁ。 俺が、そう感慨深げに頷いていると、葵ちゃんはさらに付け足した。 「でも……かといって、掴みにくかったら何でもいいという訳ではないんです。重要なの はやはり機能性。特に吸汗性や、通気性、動きやすさは重要です。汗を効率良く吸い込ん で、空気を通してくれないと、熱が篭ってスタミナの消耗に繋がりますし、間接の可動域 を制限するような仕立てのものも、一瞬の攻防が命の格闘技では、命取りに繋がります。 で、それらを全て兼ね備えるとなると……」 葵ちゃんは、そう言って言葉を濁した。 「でもさ、そういったユニフォームは店に行ったら売ってんだろ? 最近はエクストリー ム熱高いしさ。いや、それだったら、いっそオリジナルのヤツ作らねーか。葵オリジナル パターンのユニフォーム。葵ちゃんの人気が上がったら、それが店先で売られるようにな るかもしんねーぞ?」 俺は、ちょっと希望的観測も含めた未来予想図を打ち立てつつ、葵ちゃんに提案してみ た。 「そうですね」 葵ちゃんは、そう言って軽く微笑んだ。 で、俺たちは部活のあと、葵ちゃん御用達の格闘技メインのスポーツ店に行ってみたん だが、まあ、ある事にはあった。 けど、驚いた。 何が驚いたって、値段。 さすがに、スポーツ科学の先端を集めて作られているだけに「なんとかの新素材を使用 して〜」という説明は非常に説得力があり、葵ちゃんの要望をほぼ満たすものばかりだっ たのだが、高性能ゆえに既製品でも、高校生にはおいそれと出せない値段。 普段のおこずかいを、ほぼ格闘技に費やしている葵ちゃんには、ちょっと高めな感じだ った。 無論、俺にも高めなんだが。 オリジナルのオーダーの事も、店員のごつそうなアンチャンに聞いてみたんだが、それ は更に凄かった。 ――俺の2か月分の生活費じゃねーか! という愚痴もつい口から出てしまう。 オリジナルになると、当人の体のサイズを全て図って、立体裁断しなくちゃならないか ら、どうしてもそのくらいの値段にはなってしまうのだそうだ。 デザインも、文字や模様を入れるとなると、その分高くなってゆく。 ……いい商売してるじゃねえか。 何とかしてあげたいのはやまやまだが、やっぱ金の事になると、高校生二人にはどうし ようもない。 大体、普段の部活が忙しくて、バイトもできねーしな。 「……結構高いんですね」 帰り道、葵ちゃんはそう明るく笑って言ったが、悩んでいる事は確かだった。 「お母さんに頼んで、お小遣の前借でもしてなんとか買います。でないと出場できません から」 うーん、何とかしてあげたい。 それに買えるとしても、一番安いやつだろうし、個人的に、出るからにはやっぱりベス トなコンディション、スタイルで出て欲しい。 さらに、欲を言えば、ユニフォームにも「葵ちゃんらしさ」というか、葵ちゃんの持っ ている性格やかわいらしさを強調するようなデザインが欲しい。 ――これは俺の趣味なんだけどな。 葵ちゃんらしさか……。 その時、俺の頭の中で、何かが光った! 電球の様に感じたのは気のせいだろう。 音もなった。 キュピーン! とかだった気がするけど、幻聴だろうか? 「そうだ! 葵ちゃん、いい事思いついた!!」 俺は、葵ちゃんの肩を掴んで、ガクガク揺らしながらそう言った。 「せっ、せっ、せんぱぱぱい。どどっ、どう……したんですか」 揺らされながらも、葵ちゃんは俺に訊いてきた。 「ユニフォームの事は心配するな。俺がぜってーなんとかする。だから、心配するな。葵 ちゃんは試合の事だけを考えてろ!」 俺は揺らすのを止めると、最高のイイ笑顔を浮かべてそう言った。 「あの……せんぱい?」 葵ちゃんは、不思議そうに訊いていた。 「まあ、取りあえず、ここは俺に任しとけって。それとも俺が信用できねーか?」 俺は、ちょっと意地悪く聞いてみた。 「いえっ、そんな事はないです!」 慌てて、否定する葵ちゃん。 「じゃあ、もうウダウダ考えるな! 考えるのは試合のことだけにしろ!!」 俺は、バシッと葵ちゃんの肩を叩き、そう言った。 「はいっ!」 切れのいい返事が返ってくる。 やっぱ葵ちゃんはこうでなくちゃな。 そして、俺は計画を実行する為に、部活の合間をぬって、走り回った。 そう、俺の夢を実現する為に! ――というような事があって、俺がユニフォームを用意した訳だ。 「葵ちゃんらしく」 これがコンセプトだった。 でも、葵ちゃんは、少し恥ずかしそうだ。 「気に入らない?」 やはり、俺の独断過ぎたのかと心配して、そう訊いてみた。 「いえ……気に入らないという訳ではないんですが、やはりコレはちょっと、恥ずかしい かなって……似合ってますか?」 そう頬を赤らめて言う葵ちゃん。 葵ちゃんは、以前は自分を過小評価する傾向から、自信なさげな言葉をよく言ったが、 最近は俺に励まして欲しい時にこういう物言いをする。 ――ういやつめ。 普段なら思いっきり抱きしめてる所なんだが、今日は時が時だけに自制した。 ――ガマンだ、俺。 「ったく、しょーがねーなー」 俺は、そう言うと、葵ちゃんの頬を両手で挟んだ。 いつものアレをする為だ。 「葵ちゃんはかわいい!」 俺は、そう大きな声で叫んだ。 「せっ……せんぱい?」 目をきょとん開く葵ちゃん。 「それは、俺が一番良く知っている! 毎日見ている俺が言うんだ! 絶対にかわいい! ……返事は?」 「はっ…はいっ!」 「ようし、いい返事だ! そう、そんな葵ちゃんを毎日見ている俺が、葵ちゃんの嫌がる ような事をするわけないだろ!」 「はいっ!」 「だから、それは似合ってる。断言する。例え世界中の残りの男が、似合ってないとか青 マルチとか言っても、俺だけは葵ちゃんを可愛いと言う!」 「青マルチ?」 葵ちゃんが、怪訝そうな顔をする。 口が滑った! 「聞き流せ!」 「はいっ!」 本当に聞き流した。 こういう時に、体育会系のノリって楽だ。 「だから、葵ちゃんはかわいい!!」 最後にとどめとばかりに叫んで、肩を強く叩く。 「はいっ!!」 最高の返事が返ってくる。 表情も、いい感じに引き締まり、瞳には強い光が宿っている。 葵ちゃんのベストな精神状態の表情だ。 これなら、確実にイけるだろう。 ふと時計を見ると、そろそろ待機してなくちゃいけない時間だった。 「そろそろ、時間だな。んじゃガウンを着て」 俺はそう言うと、ガウンを渡した。 これも俺の選んだ特別製だ。 もそもそと、ガウンを着る葵ちゃん。戦闘態勢はバッチリだ。 「よーし! 殴り込みに行くぜぇ!!」 「はいっ!」 そして、俺たちは向かった。 ――技と力が輪舞する、闘技場へと。 ――その頃の会場―― その頃、5万人もの観衆を詰め込んだ会場は、ざわめいていた。 エクストリーム初出場の新人が出てくるのを待ちわびて。 二ヶ月程前、現チャンピオンの来栖川綾香が雑誌のインタビューで漏らした一言。「今 回は楽しみな新人がいる」という言葉が、波紋をもたらした。 そして、インターネットでのエクストリームのファンサイトで(主に綾香ファンサイト ばかりであったが)その話は広がり、次第に「誰だ?」という事になり、いつの間にか情 報が集まりだした。 そして断片であった情報は、次第に組み合わさり、形を成して一人の人物を浮き上がら せた。 綾香が昔通っていた、空手の道場の後輩である女の子。あくまで噂に過ぎないが、高校 女子空手界の実力者でもある「あの」坂下好恵にも、草試合であったが勝利をおさめたと いう。 その少女の名は ――松原葵。 残念ながら、姿を写した写真などを手に入れる事はできず、未だにその姿形を知るもの はいないが、エクストリームのファンは、今この瞬間、どのような猛者が入場してくるの か楽しみにしていたのだ。 まだ未知なる実力と、エクストリームの女王が発した言葉によって、ある意味葵は、今 大会最大の注目株となっていたのだった。 観衆は、未だ見ぬ少女を想像し、期待していた。 ――その実力を! ――そして入場―― 「それでは、今大会初出場の、松原葵選手の入場です!!」 アナウンサーが叫ぶのが、俺の耳に響いた。 いよいよだ。 照明がフェードアウトする。 一瞬の沈黙の後、音楽が鳴り響き、スモークが視界を覆う。 数十本のレーザーが乱舞し、会場をくまなく嘗め尽くしたあと、それは一つに纏まり、 入場口の一点を指し示す。 それに合わせて点灯した、20近くのスポットライトが浮かび上がらせた、そこには ――まだ、幼さの残るあどけない少女。つまりは葵ちゃんがいた。 ショートの青い髪、小さな体躯、スポットライトの光に目を細めながら、ちょっと照れ ているように浮かべるはにかんだ笑顔。 どう見ても、格闘家には見えない可愛らしい少女がそこに立っていた、 その驚愕が、まず観客を黙らせた。そして次の驚愕のためゆっくりと視線が移動する。 ユニフォームにだ。 赤いウレタンナックルと、ウレタンレッグは標準装備だから別にいい。 しかし、小さな身体を包むその上着は、襟首と袖口を赤いラインで縁取られている、馴 染み深いものであった。 さらに、パンツ……いや、赤いそれは ――ブルマーだった! しーん。 と、聞こえそうな程の静寂が会場に鎮座した。 葵ちゃんは、その静寂に恐れたのか、心配そうな表情で振り返ってくる。 俺も ――ヤバッ、外したかな? と、思った瞬間だった。 うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおお!! 正に「割れるような」としか表現出来ない歓声が起こった。 うぉぉ、スッゲエ受けてる。 くうっ。みんなやっぱ、わかってくれたか。 俺の「葵ちゃんらしく」というコンセプトは、普段の葵ちゃん、ナチュラルな葵ちゃん、 ありのままの葵ちゃんの姿を表現する事だった。 そして、思い浮かんだのがコレだ! 「やったな! 葵ちゃん!!」 俺が葵ちゃんに笑いかけると、葵ちゃんの顔にも笑顔が戻ってきた。 その零れるような笑顔のまま、ぺこぺことお辞儀をしながら入場する葵ちゃん。『すす めの三歩』みたいだけど、そのひたむきさが伝わるのか、声援はさらに膨らんでいく。 しかし、俺はまだ、次の秘策をその体操服の下に潜ませていた。 いくら葵ちゃんに似合ってるからと言っても、やっぱり体操服だ。葵ちゃんの言ってい た、ユニフォームの条件に当てはまらない。 そこで、俺は条件を満たし、なおかつイメージアップに繋がるユニフォームをセレクト した。 いわば、このブルマー姿はガウンのようなものって訳だ。 俺が、ロープの間に入り込み、隙間を作る。 そこからするりと入ると、葵ちゃんはまたぺこぺことお辞儀を始めた。 律儀だよなぁ、実際。 相変わらず、頭を下げながらコーナーに帰ってくると、葵ちゃんはガウン(体操服)を脱 ぎ始めた。 ををを……。 そんなどよめきが沸き立つ。 観客もビックリしたみたいだった。 女の子が突然、体操服を脱ぎ始めたんだから当然か。 だが、その驚愕は歓喜へと代わる事を俺は予測していた――いや、知っていた。 ざわざわと、ざわめく観客。 葵ちゃんが、ウレタンレッグに引っ掛けながらもブルマーを脱ぎ終えた時、歓声――い や、これはもう歓喜の怒号と言うべきものが湧き上がった。 どおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! もう声とすら思えない、大山をも鳴動させるような低周波がドームを包む。 その時。5万人の観客の心は一つだった。 同じモノを見て、同じように感じていた。 俺にはそれがわかった。 なんで、こんな事になっているのかよく理解できてない葵ちゃんが、呆けたような表情 で観客席を見渡している。濃紺の、身体に密着したユニフォームを着て。 そう、俺が実戦のユニフォームとして選んだのは、男の憧憬を集めてやまないアイテム の一つ ――スクール水着だった!! ちゃんと胸元に「1−B 松原葵」とネームまで貼ってある、かなりイカシた、懲りま くりの逸品。 着慣れてるから、動きやすい! かつ、身体に密着しているので、組み技系にも対応。 しかも、形はスクール水着でも、素材は長瀬のオッサンに頼んで作ってもらった、吸汗 性、通気性抜群の新素材! まさにパ−フェクトだっ!! なんと言っても、元気で爽やかな葵ちゃんのイメージにもピッタリときている。 子供っぽいからとかじゃねーぞ、断じて。 俺の趣味が入っているのは、否定は出来んがな。 しかし、この受け様。スゲエな。 ――ををうっ! 俺ってば、ひょっとして天才!? 俺は、自分のスタイリスト的才能に、思わず酔いそうになってしまった。 その歓声に包まれる葵ちゃん。 「せんぱいっ!」 葵ちゃんが、今まで見た中で最高の笑顔で俺を見つめてきた。 俺は親指をビッと立てて、その笑顔に応えた。 その時、葵ちゃんはふと後ろを気にするような視線を、チラリと走らせると、両手の人 差し指で、水着のおしりのラインをぱちんと直した。 水着のライン直し! 何時の間に、そんな高度な技を覚えたぁ!? 轟音がドームを揺らす! もはや、言葉では表現出来ない感情のるつぼがドームに渦巻いた。 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!」 俺も吠えた。 いや、吠えるだろ、実際。 ――同時刻、チャンピオン控え室―― 「やるわね、葵」 綾香はモニターを見つめ、そう呟いた。 エクストリーマーに必要な才能は、確かに格闘技的な実力が第一だ。 しかし、テレビという媒体を介し、放送されるこの大会では、さらにプラスアルファ、 つまりは「華」も必要だった。 人心掌握力と言い換えてもいい。 華麗な技でも、類まれなパワーでも、奇抜なパフォーマンスでも何でもいい。 とにかく、何か「華」を持つエクストリーマーにこそ、ファンは憧れ、こうやって会場 に来てくれるのだ。 そして葵は、5万人の観衆の心を、一瞬で掴んでしまった。 これで、例え負けても、強力な固定ファンが付くことは疑い様がなかった。 ――恐るべき才能。 まだ浩之がバックに付いている事を綾香は知らない。 しかし、実際にコスチュームを着て、歓声を受けているのは、葵そのものなのだ。 つまりは、葵のキャラクターと浩之のコンセプトデザインの、タッグの勝利と言えるか も知れない。 ――この歓声、もしかしたら私より……大きい? 綾香は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。 ――恐れてる? 私が葵を? まさか? そう自分に言い聞かせたが、心は納得しなかった。 納得できる方法は唯一つ、葵以上の歓声をこの身に受ける事だった。 綾香は決心した。今回はする予定ではなかった、あの格好をする為に。 「セバスッ! アレをお持ちなさいっ!」 口調も凛とし、そう命令する様は、まさに女王の風格に溢れていた。 「アッ、アレでございますか、お嬢様?」 いつも綾香の言うことには、動じてばかりのセバスチャンであったが、今日の驚愕は一 際違っていた。 「しっ、しかし、アレは……」 口篭もるセバスチャンに、綾香は決意を込めた一瞥を投げかけた。 セバスチャンは知っている。この瞳をした彼女には何を言っても無駄な事を。 軽く溜め息を吐いた老執事は、何時も通りの厳格な表情を作ると、恭しく頭を垂れ 「かしこまりました」 と言った。 ――見ていなさい、葵。真の最強がどういうものかをね。 そう決意も新たにした彼女は、モニターを見つめた。 その顔は、草食動物を狙う猛禽類の様に凛々しく、精悍であった。 ――そして、女王の第一戦―― 葵ちゃんは、辛うじて第一回戦をKOで勝った。 その勝利の嬉しさもひとしおなんだけど、そのあと控え室に帰るまでが凄かった。 身を乗り出して駆け寄ろうとする観客。 群がる報道陣。 葵ちゃんは、一躍スターダムにのし上がった。 さて、控え室に帰って二人で勝利を分かち合おう――と思っていたが、葵ちゃんの次の 次の試合が、現チャンピオン、来栖川の綾香お嬢様の試合って事で、俺たちは選手専用の 観戦席に来ていた。 俺たちが着いた時には、もう殆ど満席だった。 まあ、チャンピオンが出るんだから、それの研究の為に見に来るのは当然の事なんだけ れど、コレだけの選手が、一様に綾香に対して視線を注いでいると思うと、つくづく綾香 って大物なんだと実感してしまう。 スゲーな、綾香って。 「せんぱーーーい! ココの席空いてますよ」 そんな事を考えていると、葵ちゃんが手をぶんぶん振りながら、俺を呼んだ。 「おーう、それにしてもよく空いてたなぁ」 俺は、葵ちゃんのところへ向かいながらそう聞いた。 「はい。この人が詰めてくれました」 そう指す先には、俺よりも10cmは身長の高そうな、ゴツイ金髪のネーチャンが居た。 うっ、と怯む俺。 だが、ネーチャンはニコニコと微笑んで、おいでおいでと手を動かした。 いい人みたいだ。 そういや、参加選手名簿で見た顔だな。 最近のエクストリームは、綾香のネームバリューのおかげで、わざわざ外国から日本の 高校に転入して参加する選手も増えてきたそうだ。 彼女もそうなんだろう。 そのネーチャンの隣に葵ちゃんが腰掛け、俺がその隣に座った。 その途端、ネーチャンは怒涛のように葵ちゃんに話し掛けてきた。 英語で。 曖昧に微笑む葵ちゃん。 適当に「いえーす、いえーす」とか言っている。 俺も話し掛けられたら、実際そんなことしか言えね―けどな。 大体、三年も四年も英語の勉強やってるのにロクな英語が喋れねえのって、俺たちのせ いじゃなくて、根本的に授業のやりかたが間違ってると思うんだがな。 適当に耳を澄ましていると「ストロング」だの「プリティ」だの「リトル」だのという、 かろうじて理解できる単語がよく出てきたことから、多分、葵ちゃんが小さくて可愛いの に強いと誉めてるんだろう。 これで、AOI・MATUBARAもグローバルな存在になった訳だ。 うんうんと頷く俺。 トレーナー冥利に尽きるってもんだ。 なあ、ジョー。 俺は、真っ白な灰になった偉大な英雄に、密かに想いを馳せた。 「せんぱい、そろそろですよ」 と、身体を冷やさないために、ウインドブレーカーを羽織った葵ちゃんが、囁きかけて きた。 トレーナーの妄想終了。 俺は、おう、と言うと真っ直ぐ前を見詰めた。 葵ちゃんの、それに他の選手達の顔も引き締まり、自然に話も収まる。 会場も、まるで図ったように静寂が訪れる。 それは、見えない緊張という鎖が、会場中を縛ったみたいだった。 今までとは質の違った静寂。 まだ登場もしていないのにこの存在感。 これがチャンピオン、女王の貫禄ってやつかもしんねーな。 「ご来場の皆様、お待たせいたしました!」 その静寂を、電子で拡大された人間の声が破った。 マイクを通し、アンプで増幅され、巨大な無数のスピーカーから響く音が身体を震わす。 「両選手、リングに入場です!」 そういうお決まりの言葉から、選手の紹介に移ったが、綾香の相手は、なんかもう、地 味ーな選手だった。 選手紹介も、それに比例して地味なものだった。 やる気あんのか? アナウンサー。 観客も拍手をしてはいるが、ちょっとおざなりな感じがする。 そうして、相手がリングに上がると、続いて綾香の紹介に移った。 「そして、赤コーナーからは、エクストリーム王者(チャンピオン)! 生きながらにして 伝説を打ち立てた、格闘技と美の女神の申し子! まさにその戦う姿は、斯界に降臨した 戦乙女(ヴァルキリー)!! その美貌の奥に隠されたのは、野獣の本能かはたまた戦士の 性かっ!! この世の生んだスーパーチャンプ! 来栖川あーーーーやーーーーかーーー ーーーーーーーー!!!!」 興奮気味に、そう叫ぶアナウンサー。なんかもうノリノリだ。 さっきの選手の紹介とはえらく違っているな、アナウンサーさんよ。 一気にどよめきたつ観客。 押し殺した期待が、いまにもはちきれそうなほど充満しているのがわかる。 その瞬間、赤コーナーの選手入場口からリングまでの道に、スモークの煙が立った! 大音量の音楽が腹にズシンズシンと響いてくる。 さっきまでとは比べ物にならない程の量のレーザーが、音楽に合わせ、狂わんかりに乱 舞する。 一際巨大な爆発音。 その音を合図に、全ての照明が入り口に当てられる。 さらに、会場の色んなところから、断続的に爆発が起きる。 なんつうド派手な演出だ。 他の選手との差がありすぎるんじゃねえか? と思ったが、まあチャンピオンだからか と、なんとなく納得する。 煙が徐々に薄れ、その切り取られた光の輪の中に、影が浮かび上がる。 まだ姿は見えないが、それが綾香だとは誰もが知っている。 その影は、ゆっくりとこちらに歩き出し、そのおぼろげな輪郭を徐々に明確にしていく。 煙が途切れ、そこに立っていたのは――綾香だった。 当たり前なんだが、その姿のせいで、一瞬誰だか分からなくなっちまった。 薄いピンクの看護帽にお揃いの看護服。 紺の大き目のカーディガンを羽織り、手に回診板と体温計を持つそれは――ナースだった。 そう、白衣の天使さんがそこにいた!! おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!! 今までとは比べ物にならない重低音が身体に響いてくる。 足を踏み鳴らす観客。 それがハモり、この巨大なドームを物理的に震わしている。 なっ、なんつう奴だ! 改めて綾香のカリスマを感じる。 今日は、なんか改めてばっかりだ。 歓声を当然のように受け止めて、悠然とリングに向かう様は、まるで熟練した看護婦長がオペに向かう様であった。 ……看護婦さんは、間違っても殴り合いはしないがな。 (白衣の天使さんに対する、妄想を交えた勝手な思い込み) 綾香は、軽やかにロープを飛び越えると、リングアナに近づき、当然といったカンジでマイクを奪い取った。 いや、リングアナが差し出したようにすら見えた。 綾香が息を吸う。 その途端、ピタリとやむ歓声。 「みっなさ〜〜〜〜ん!」 何時もの、調子に乗った明るい声。 ……。 まだ会場は静まっている。 いや、何かを期待している。 そう、俺の中にも、言いようの無い期待感が膨らみ、今にもはちきれそうだった。 ……。 ああっ! はやくしてくれっ!! …。 ……。 ………。 すう。 綾香が息を大きく吸い込んだ。 俺の喉がゴクリと鳴る。 「いたいところはないでちゅか〜〜〜〜〜?」 言った。 確かにそう言った。 その言葉が、会場の隅々まで浸透するのに、どれほどの時間がかかったのだろうか? しかし、それが浸透した刹那、爆発は起こった。 魂のビッグ・バンが! 怒涛の様に襲い掛かる歓声。 震えるハート! 燃え尽きるほどヒート! 刻んでる血液のビート! なんか、某スタンド漫画の有名な効果音、「ドドドドドドドドド」とかいうのが、辺り 一面に浮かんでいるようだった。 多分、これによってこのドームの寿命が10年は縮んだんじゃないかと思うほどの大鳴 動だった。 「ふおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお おおおおおお!!」 俺も叫んだ。 いや、叫ぶっちゅーねん、実際。