一夜の逢瀬。 つかの間の思い出を残し、マルチは去ってしまった。 おそらく、永遠に。 別れの朝。 オレは、マルチの顔をまともに見ることが出来なかった。 「マルチぃ… やっぱり、行くな。 研究所に帰ったら、おまえは封印されてしまうんだろう? 死んでしまうのと変わらないんだろ? おまえはそれでいいのかよ? 何も感じなくなるんだぞ?」 「だいじょうぶです。わたし、ロボットですから。 それに、ですね…」 マルチは、笑顔だった。 力みも翳りもない… 一点の曇りもない、笑顔だった。 「わたし、浩之さんにいろんなものを、もらいましたから。 思い出も、心も、いっぱい、いっぱい。 だから、今度はわたしが人間のみなさんにいろんなものをあげたいんです。 誰かの役に立ちたいって気持ちは、きっと妹たちにも伝わりますから」 そうやってこぼれんばかりの笑顔を残し、マルチはタクシーに乗った。 それはあまりにも純粋な…無垢な想いだった。 もう、心の中がぐちゃぐちゃで、何も言えなくて… 必死に涙をこらえて、マルチを見送ることしかできなかった。 そうしてマルチは、朝焼けの中消えていった。 *** 海。 オレは、海を見ていた。 海のど真ん中で、太陽にきらきら光るさざ波を見ていた。 小さな波達が、ぶつかり合い、たゆたい、 風とともに疾っていた。 オレは、その小さな波になっていた。 太陽の光を浴び、風を感じ、ほかの小さな波と戯れ… 心地よかった。 突然、遠くに大波が現れた。 そいつは、小さな波を飲み込み、オレの方に向かってきた。 どう逃げても、オレはそれから逃れようがなかった。 小さな波達は、悲鳴を上げて大波に飲み込まれていた。 大波が目前に迫ったとき。 オレは必死に、大波に呼びかけていた。 大波さん大波さん、どうしてあなたはそんなひどいことするの? ――ひどいこと? どうしてだね? だって、僕たちはもっとここにいたいのに まだ消えたくないのに ――わかってないなぁ… ――君は波じゃない、海の一部なんだ。 ――僕も君も、同じ海の一部なんだよ? ――どうして波であることにこだわるんだい? そうしてオレの意識は何かにとけ込み―― がくん! はっと、目が覚める。 うららかな、春の日差しが気持ちいい。 教師の解説の言葉を、生徒達はカリカリとノートに書き取っていた。 時計を見ると、もうすぐ昼休みだった。 ――ノートは、あとで委員長かあかりに借りるか… 夕べはほとんど寝てないせいで、今日は朝から眠かった。 でも、心のもやもやは何となく晴れた。 ――『君は波じゃない、海の一部なんだ』か… なんか、納得した。 あいつには分かっていたんだろう。 少々形は違っても、きっとオレ達はまた出会えることを。 マルチの妹。 それはもちろんマルチ自身ではないけれど、きっとマルチの一部分なのだろう。 ――マルチ… オレは絶対、おまえの妹を手に入れるぞ。 ――だからまた、一つずつ思い出を作っていこうなhttp://www10.u-page.so-net.ne.jp/tf6/niisi/index.html