華麗なる死闘(7) 投稿者:姥神日明
 覚醒した良太が最初に目にしたのは、ゆるやかな春の日差しに明るく照らされた、
真っ白い部屋の天井であった。
 部屋の外の窓際に植えられた、風に揺れる桜の木の影が、埃や煙草の脂(やに)
ひとつない天井に薄く伸びている。
 しばらくその影を、濁った瞳でぼんやりと眺めて呆然としていた良太であったが、
アゴに感じる冷たい感触に気付き、そこに手を伸ばす。
 アゴには、よく冷えたタオルが添えられていた。
 良太はそのタオルを右手で取り払うと、左手でタオルが添えられていたアゴをさ
すった。
 その瞬間、鋭い激痛が走った。
「あ痛ッ」
 その痛みに、良太はがばっ、と上体を起こした。
 瞳が光を取り戻している。今の激痛が、良太の思考を遮る薄い「もや」のような
ものを消し去ってくれていた。
 きょろきょろと辺りを見回すと、そこは天井ばかりでなく、壁までもが真っ白い
清潔な部屋であった。
「ここは」
 まず、薬箱や応急バン、クレゾール等が収められた棚が目に入った。
 壁には視力検査の紙や、「結核に注意を」「骨粗しょう症」などと赤い太ゴシッ
クで書かれたポスターが貼られている。
 そして自分が寝かされていたのが、日向の香りがする白いベッドの上であったこ
とにも良太は気付く。
(そうだ)
「保健室だ」
 ぼそり、と呟くように言うと、
「気が付いたかよ」
 と、背後の死角になった場所から呼びかけられた。
 振り向くと、そこにいたのは先程まで良太の試合の相手をしていた、呉であった。
 背もたれを前にして椅子に座り、両腕を背もたれに預けるようにしている。
「……お前かよ」
「その、『お前』ってのは止めろや。一応、オレのが学年一つ上なんだからな」
「……試合は。おれ、なんで寝てるんだ」
 アゴに手をやりながら、良太はまた、ぼそりと呟いた。
 視線は、呉に合わせない。
「憶えてねえのか」
 そう言うと、呉はスリーパーで首を絞めるようなジェスチャーをして、「ぐえ」
と呻き声を出しながら、舌を出して目を剥いた。
 それを見て、良太は一瞬「あ」と呟くと、途端に渋い顔をした。
 アゴの痛みが、心なしか強くなったように感じられた。
「思い出したろ」
「……」
(そうだ、背負いで投げられた後にスリーパー入られて……)
 そこから先の記憶が、良太にはない。
(と言うことは、そのまま絞め落されたということか)
 胸の中に、何とも言えない苦い物が広がる。
 完敗。
 呉が一つ年上とはいえ、同年代の相手にこうまで簡単にあしらわれたのは、良太
にとって初めての経験である。
 悔しさで、タオルを握る右手に力がこもる。
(ん、……タオル?)
「……おい」
「今度は『おい』かよ……。何だ、餓鬼」
「このタオル、もしかしてお前が……」
 おぞましい、とでも言いたげな表情で良太が尋ねた。
「誰が野郎の手当てなんぞするか!吉田だよ、吉田!」
 思い切り嫌な顔をして、呉は叫んだ。
「吉田……先輩が」
「今は、保健の先生を呼びに行ってるぜ」
「……そうか」
 良太は、歯を噛んで俯いた。
 自分の敗北以上に、それによって光江――エクストリーム部に迷惑をかけたとい
う事実の方が、良太には辛く感じられていた。
「……おい、餓鬼」
「餓鬼じゃねえ、雛山良太だ」
「悔しいか、雛山」
「ああ?」
「いいとこなしでオレに負けて、ムカついたか?」
 尋ねる呉は口元こそ微笑を作っているが、目は笑っていない。
「当たり前だろうが、調子に乗るなよ!」
 何を解りきったことを、と言いたげな渋い表情で、良太はまくし立てた。
「へえ。面白い」
 良太の返答を聞いた呉は、途端に破顔した。
 今度は、作った笑顔ではない。
「?」
「お前みたいに、ちょっと格闘技をかじった程度でいい気になる奴は多いんだよ。
でもな、そういう野郎は一度痛い目を見ると、大抵泣き入れるか、ビビって頭を下
げる」
「……」
「土下座しながら『悪気はなかったんですー』とかな」
「……で?」
「大方、お前はこんな負け方したの、初めてなんだろ?それでも『この野郎』とか
『悔しい』と思える奴には、初めて会ったから面白いんだよ」
「呉さんだったか?おれはあんたを面白がらせる為に、勝負を挑んだ訳じゃあねえ
んだよ。先輩に乱暴したことと、部を馬鹿にされたのが許せなかっただけだ」
 良太は憮然として言った。
「……吉田に対しては悪かったと思っている。大人しい奴だからな、少し脅してや
れば楽に話が進むと考えていたが、間違っていた。あそこまで怒るとは思ってもい
なかったから、ついムキになってしまったんだよ」
「どうだか」
「考えてみれば、吉田は自分一人になっても部に残るような奴だ。怒るのも当然、
オレが軽率だったな」
 呉が首をすくめてそう言うと、良太は、
「えっ」
 と短く叫んだ。
「何だよ」
「自分一人、って言ったよな」
「ああ?」
「もしかして、エクストリーム部って、部員吉田先輩だけ?」
「……吉田から、聞いてなかったのか?」
 目を丸くする呉。
「いや、でも、浩之にいちゃんや松原さんの時代には、けっこう部員が入っていた
と……」
「その当時は、凄かったらしいな。でも、松原葵や藤田浩之が卒業した後は段々す
たれてしまって、今年はあのザマだ」
「……」
 口を半開きにして、呆然とする良太。
「そこに来て、大勢の生徒の前でお前が無様な負けっぷり。これはもう、エクスト
リーム部にとっては止めを刺されたも同然だよな」
「うぐぐ」
「そこでだ。もう一度オレと勝負しないか?」
「はあ?」
「2ヶ月後にでも、生徒を集めてもう一度試合するんだよ。汚名返上のチャンスを
やろうってんだ、悪い話じゃないだろ?」
 そう提案する呉に、良太は露骨に疑わしげな視線を送った。
「それやって、あんたにどんな得があんだよ」
「……別に深い意味はねえよ。うちの部の宣伝イベントでの、対戦相手が欲しいだ
けだ。仮に雛山が勝ったら、オレは金輪際エクストリーム部へちょっかいは出さな
い。どうだ?」
 その時、戸の開く音がした。
 良太と呉が戸の方を向くと、そこには光江と、保健の先生らしき白衣を着た中年
の女性が立っていた。
「呉くん、今の話……」
「聞いてたのか、吉田」
 光江は、こくりと頷いた。
「……すいません先輩。おれ、もう一度呉と勝負したいです」
 そう言うと、良太はベッドから降りて戸の方へと歩き出した。
「そう来なくちゃな」
 嬉しそうに、呉は笑みを浮かべた。
「雛山くん!?」
 慌てて、光江は良太に駆け寄る。
「今日は本当にすみませんでした。次は、絶対に勝ちますから」
「待って、怪我の手当てを……」
「大丈夫です。……失礼します」
 そう一礼すると、良太は保健室から退室した。
 そして両手で自分の頬を「ぱあん」と張ると、振り返ることなく歩き始めた。


「ふうん。入学早々、何だか大変なことになったわねぇ」
 良太から今日の出来事を聞いた綾香は、どこか楽しげにそう言った。
「そんなことになっていたなんて……。卒業までにちゃんとした部員を育てられな
かった、私の責任です……」
 しょんぼりと俯く葵。
「そんなことないよ、葵ちゃん」
「そうそう。そんなの、その時その時の部員が責任を持つことだろ?」
 あかりと浩之が慰めるが、葵は首を横に振り、
「それでも……、せめて年に一度くらいは私が顔を出すなりすれば、そこまで酷く
はならなかった気がします……」
 と言った。
「……うーん」
「はいはい、暗くならない。今は良太くんの頼みが何なのかを聞かなきゃ。……と
いっても、大体察しはつくけどね」
 綾香の言葉に、葵ははっと顔を上げた。
「そ、そうでした。良太くん、頼みというのはやっぱり……」
「はい、2ヶ月後までに、呉に勝てるようにイチから鍛えなおして欲しいんです」
 真剣な面持ちで良太は言った。
 それを受けて、浩之が何かを言おうとすると突然セリオが軽く身を震わせ、
「綾香様、芹香様からお電話です」
 と言った。
「姉さんから?わかったわ」
「はい。通話モードに切り替えます」
 そう言うと、セリオは目を閉じた。
 体から「カチッ、ピーッ」と音がしたかと思うと、セリオは目を閉じたまま、さ
さやくような声で「もしもし、綾香ですか?」と芹香の声そのままに喋った。
「うん、どうしたの姉さん?……っと、ちょっと待ってね、場所を変えるわ」
 綾香は浩之たちに「ちょっと出るわね」と言うと、セリオを連れて早足でスパー
リング室を出た。
「……忙しい奴」
 その綾香を目で追って呟く浩之。
「話を戻すか。鍛えてやるのは別にかまわないけど、2ヶ月じゃあ正直厳しいぞ」
「え、そうなのか?」
 良太は情けない声を出した。
「良太くんには、いままでどんなことを中心に教えたんですか、先輩?」
 葵の質問に、
「目の突き方、金的の蹴り方」
「……」
「……冗談だ」
「ああ、それって一番最初に教わったよ……ぐえっ」
 側頭部に浩之の蹴りを受け、良太は気絶した。
 あかりは内心、浩之がジュニアのコーチじゃなくて本当に良かったと思った。
「打撃が中心だな。ボクシングにキック、テコンドーの蹴り、あとはサンボを少し
やらせただけだ」
「素人相手の多対一を想定した技術ですね」
 葵の言葉に、浩之は頷いた。
 立ち技系の格闘技よりも寝技系の方が強いというのが現在通説となっているが、
それはあくまで一対一、それも熟練者同士の場合の話だと浩之は考えている。
 一対一の喧嘩なら関節を極める余裕もあるだろうが、大勢が相手ならそうはいか
ない。たとえば1人に馬乗りになっても、そこを残りの敵にやられてしまう。
 何が起こるかわからない実戦においては、相手を瞬間的に戦闘不能にする打撃の
方が幅広い対応が可能といえた。実戦的とは思わない人もいるテコンドーの蹴りも、
仮に凶器を持った者を相手にする場合にも、最も離れた距離から当てることが出来
る分、実に有効な技術なのである。
「まずは護身術から教えるべきだと思ってな。一対一、それも柔術の黒帯相手なん
て考えてもいなかったぜ」
「う〜ん。やっぱり、寝技を徹底的にやるべきだよ。少しでもグラウンドで渡り合
えるようにならなきゃ、柔術相手は辛いと思うな」
 この中では一番の寝技の専門家らしく、あかりはそう提案した。
 だが、それには葵が反論した。
「でも、期間を考えると今更寝技を学んでも厳しいと思います。良太くんはいまま
で打撃中心で来たんですから、それに磨きをかける方がいいですよ」
「そうかなあ。良太くんの話を聞く限り、もう少し冷静になっていれば寝技にも対
応できたと思うよ。それなら……」
「柔術のセオリーさえ理解していれば、打撃でも活路は開けます」
「でも……」
 気を失った良太を尻目に白熱する議論。

「そうだ、浩之ちゃんはどう思う?」
「そうですね、藤田先輩ならどうしますか?」
 やがて2人に話を振られると、浩之は不敵にくっくっく、と忍び笑いを漏らした。
「ふっ、あかりも葵ちゃんも甘いぜ。オレには寝技相手の必勝法がある」
「えっ!?」
「本当ですか!?流石は先輩!」
 浩之の態度に何となく悪い予感を感じたあかりであったが、一方の葵は浩之を尊
敬の眼差しで見つめている。
「ひ、浩之ちゃん。その『必勝法』って?」
「教えてやろう。まずは大量のオイルを全身にまんべんなく塗りたくり、それを一
度拭き取るんだよ。試合前のチェックではオイルを塗ったと気付かれないが、試合
中に汗をかくと、毛穴まで染み込んだオイルが汗と一緒に出てくる。これで絞めや
関節技は封じたも同然だ」
「……」
「……」
「……」
 寒い空気が流れた。
「ま、また先輩ったらー。冗談ばっかり言ってちゃあ駄目ですよ」
「あ、あはははは。そうだよな、反則だもんなー」
 苦笑する葵にぎこちなく笑いかける浩之であったが、あかりは、
(浩之ちゃん、今のは絶対本気で言ってたよ〜)
 としっかり看破していた。
 そこに、綾香とセリオが戻ってきた。
「お待たー。話はどうなったのかなあ、葵?」
「あっ、綾香さん。柔術相手にどういう特訓をすれば2ヶ月で勝てるようになるか
で、話し合っていた所です」
 すると綾香は、不敵にふっふっふ、と忍び笑いを漏らした。
「ふっ、みんな甘いわね。私には寝技相手の必勝法があるわ」
 その言葉に、3人の表情が険しくなる。
 一方のセリオは、気絶した良太を介抱している。
「ほ、本当ですか〜。流石は綾香さん」
 ぎこちなく笑う葵。
「ふふふ。いい?まずは大量のオイルを用意するの」
 綾香が「オイル」と言ったと同時に、3人はばたりとマットに突っ伏した。
「あ、あら?葵?浩之?あかりちゃん?あれ〜?」
 突っ伏した体勢のままぴくりとも動かない浩之たちを、ゆさゆさと揺する綾香。
 その様子を見てセリオは、
(介抱の必要がある人が増えましたね)
 などと考えていた。

 一方その頃、一人の小柄な少女が『LEAF』を訪れていた。
 受付係の理緒には、彼女の着る桃色のセーラー服に見覚えがあった。
 何年か前には、自分も着ていた服である。
「こんにちは!入会をご希望ですか?」
 理緒が元気良く尋ねると、少女はかぶりを振った。
「す、すいません。そうじゃなくて、人を訪ねて……」
「え?」
「雛山理緒さん、ですよね」
「へ?私の名前、知ってるの?」
「あ、すいません。私、吉田光江と言います。突然で申し訳ありませんが、雛山良
太くんはこちらにいらっしゃるでしょうか……?」

                                 <続く>

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 はあ、やっとあかり達を表に出せそうです。
 思ったよりもこの話、長引いてしまっているなあ……。