華麗なる死闘(5) 投稿者:姥神日明
 ここは総合格闘技ジム『LEAF』。
 午前11時半。
 社員や事務員以外の人は、まだ現れない時間である。
 ジム所属選手の練習は、通常は昼12時から始まる。
 体力作りや技を学ぶのが目的の一般会員に至っては、練習は6時以降からである。
午前中にしか時間の取れない大学生や社会人の為に「午前の部」もあるのだが、今
日はその日ではない。
 だが、まだ人がいない筈のスパーリング室に、一つの人影があった。
 松原葵である。
 人一倍稽古熱心である彼女は、暇があればこうして一人トレーニングに打ち込ん
でいた。もはやトレーニングは葵の唯一の「趣味」とも言えたかも知れない。
 見ると葵は、奇妙な動作をしていた。
 中腰で上体を伸ばし、膝を心持ち曲げ、両手を目前にかざしている。
 良く見ると、カカトがほんの数ミリ程度浮いているのが見て取れる。
 そしてその体勢のまま、じわじわと歩く。
「……すうううぅぅぅっ、はあああぁぁぁっ……」
 呼吸は、腹式呼吸。
 鼻から息を大きく吸い、ゆっくりと吐き出す。
 1メートルを3分で進み、3メートル進んだら後退する。これを葵は、もう一時
間近くも続けている。
 そして葵の足元には、既に点々と流れた汗の溜まりが出来ていた。
『這』。
 中国拳法は形意拳の一派に伝わる、足腰の鍛錬法の一種である。
 同じ目的の鍛錬法には、他に『立禅』と呼ばれるものがあり、こちらは中腰で膝
を曲げ、カカトをわずかに浮かせた体勢で両手を樽を抱えるように丸く構える。
 そのままじっ、と立ち続けるのが『立禅』であるが、『這』は更に厳しい。
 普通の人間なら、5分もやれば足がパンパンになるのである。
 それを葵は、その気になれば二時間はこなす。
 葵は高校時代に形意拳を学んでいた経験があり、これらの鍛錬法は、その際に教
わったものである。そして今でも、ウェイトトレーニングの中にこういった中国拳
法独自のやり方を取り入れているのである。

 そうして、更に10分程度『立禅』を行い、
「うん、よしっ」
 と納得したように呟くと、葵はようやくトレーニングを切り上げた。
 軽く何度か屈伸し、タオルで汗を拭く。そして「松原」とマジックで書かれた紙
コップに水分補給用のミネラルウォーターを注ぐと、それを一気に飲み干した。
「そろそろ、綾香さんや先輩たちが来る頃かな?」
 そう言いながら、時計を見る。
 今日はこれから、浩之とあかり、それに綾香がジムに来る予定であった。
 ジム内で主要な選手全員が顔を合わせる機会は、以外と少ない。
 選手はそれぞれ、週に一日必ず休養日を取っており、その日が全選手で統一され
ている訳ではないのが第一の理由であるが、場合によっては選手が他のジムや道場
に出稽古に行っていたりすることもあるのである。
 それでも、葵と同じく一般会員の指導を担当している浩之やあかりとは、葵もよ
く会っている。しかし、ジム経営などで多忙の為に、なかなか他の選手と練習時間
を合わせられない綾香が、昼のトレーニングに顔を出すのは非常に珍しかった。
「久し振りに、綾香さんと一緒に練習ができるな」
 綾香とのスパーリングは、葵が今現在の実力を知る意味でも非常に楽しみにして
いる練習の一つである。
(前に綾香さんとやった時よりも、今の私は確実に強い筈)
(今日はあのコンビネーションを試してみようか)
(今度はああいう関節の入り方をしてみよう)
(前に見切れなかったあの技、こういう切り返しはどうだろうな)
(そうだ、あれは……)
(……)
(……)
 無意識の内に、葵は対綾香のイメージトレーニングに没頭していた。

「やっほー、葵」
 スパーリング室に綾香が入ってきたのは、その時である。
「こんにちは、松原さん」
 綾香の秘書を勤めるメイドロボも共に中に入り、葵に会釈した。
 HMX−12、セリオのプロトタイプである。
 量産型発売から七年が経ち、型としては既に過去の物というイメージがある『セ
リオ』だが、綾香にしてみれば、
『親友に古いも何もないわよ』
 の一言で終わりであった。
 とにかく、二人の挨拶を聞き葵は我に返った。
「あ、押忍っ!」
「あははははっ、押忍なんてまた、随分と懐かしいわねえ」
「は、はい。綾香さんにはつい、空手時代の挨拶が出てしまって……」
 俯いて頬を赤らめる葵。
「うんうん。でもその心構えは大切よ、葵。最近のジムや道場は『技』や『体』ば
かりを追い求めて、肝心の『心』をおろそかにしている傾向があるからね」
「……はい」
「ただ強ければ良い、では獣と同じだわ。武道の精神という面は、私達も少し空手
に学ぶ必要があると思っていた所なのよ」
「はい」
 神妙な顔で頷く葵。
「って、葵には釈迦に説法よね。むしろ浩之に言うべきことだったかしら?」
「いえ、ありがとうございました、綾香さん」
 真剣な顔で一礼する葵。
 それを見て、綾香は思わず照れ笑いを浮かべてしまった。
 こうやって、真面目に自分に付いて来てくれる葵は、本当に可愛いと思う。
 だからこそ。
 自分は葵を失望させるような真似だけは、してはならないと思う。競技者として
も精神面でも、出来うる限り彼女にとって高い壁でありたい。
 そして、葵のような人間がしっかりと良い目を見られる、そんな風に格闘技の世
界を発展させてゆくのが自分の使命だと綾香は常に考えるのだ。
『女子総合格闘技を、まっとうなスポーツとして確立する』
 それが、現在の綾香の悲願であった。
「……」
 ふと気付くと、セリオが黙って綾香の顔を見つめている。
 何時の間にか、神妙な顔つきになっていたらしいと、綾香は気付いた。
 一見、セリオにはさしたる感情の色は見受けられないが、綾香には「彼女」が何
を考えているのかが、何となく理解出来ていた。
 綾香はセリオの肩をぽんぽんと叩き、
「ありがと、セリオ」
 と笑顔で礼を言った。
「綾香様なら、大丈夫です」
 にこりと笑い……はしないものの、どこか優しげに応えるセリオ。
 そんな二人を、葵は穏やかな表情で見つめていた。
 すると突然、セリオが時計のある方を見上げ、
「12時です。練習を開始する時間です」
 と告げた。

「あら、本当」
 綾香が時計を見ると、確かに時計の長針と短針は等しく真上を向いていた。
「でも、浩之とあかりちゃんがまだみたいね」
「おかしいですね」
「遅刻とはいい度胸ねえ、二人とも」
「でも、神岸先輩はそんな人じゃ」
「『藤田先輩』は?」
「……えーと」
 すると。
「おいおい、さっきから聞いてりゃお前ら、オレを何だと思ってんだよ」
 いつの間にやら浩之が三人の側に立っていた。
「「あ」」
 硬直する綾香と葵を尻目に、セリオは何事もなかったかのように、
「こんにちは、藤田さん」
 と浩之に会釈した。
「おう、セリオ。今日も美人だな」
「恐れ入ります」
「い、いつから聞いてたの、浩之?」
 冷や汗を流しながら尋ねる綾香。
「どうせオレには『心』はねえよ」
 憮然として、浩之。
「ありゃりゃー」
「……あ、あの、藤田先輩。今日は遅かったですね」
 申し訳なさそうな表情で、葵。
「んー。ちょっと途中で良太に会ってな」
「良太君?」
 その時、あかりが良太を連れてスパーリング室に入って来た。
 見ると、良太のアゴには大きな青アザが出来ていた。
「あっ、良太君。……どうしたの?そのアザ」
 葵の問いにも、良太は渋い顔で、
「いえ……大したことはないです」
 と答えるだけである。
「いやな。今日は高校の入学式の日だったろ」
「あっ、そうでしたね」
「そこで例の部に入部を申し込むつもりだったらしいが、そこでどうも色々とあっ
たらしくてな」
「例の部?」
 尋ねてきたのは綾香である。
「エクストリーム部です、綾香さん」
 あかりが、それに答えた。
「ああ、高校の時あなた達が創った部?」
「そうです」
「それでそれで?色々あったって何?なに?」
 面白くなりそうだと思ったのか、俄然綾香の目が輝いてきた。
「おまえなあ、面白がるような話題じゃないんだぜ」
「あら、もう何があったか聞いたの?」
「オレもあかりも、まだサラッとしか聞いてねえ」
 そして浩之は良太の方を向き、
「でも、そん時のこと絡みで、オレ達に頼みたいことがあるんだよな?良太」
「頼み、ですか」
 呟く葵。
「はい、そうです。練習時間なのに申し訳ありませんが」
 いつにない表情で、真剣に頷く良太。
 それを見て、その場にいた全員が姿勢を正した。

「それじゃあ、まずは今日何があったのかを話してくれるかな?」
 あかりが促すと良太は、
「わかりました」
 と答え、今日の校庭でのことを話し始めた。
 女子レスリング部の鶴田友美との会話から、エクストリーム部唯一の部員、吉田
光江との出会い。
 そして話は、良太と光江が柔術部の呉と揉めた所へと移った。

                                 <続く>

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 どうにもペースが遅く、申し訳ありません。
 せめて週一のペースを守れるように努力します。