さよならの前日 PRESENTED by 泡星りゅう 狭く、木々が生い茂る獣道のようなところを進んで行く。夏の真っ盛りで日差しが強く、蒸し暑かったのだが、道は幸い光合成盛んなたくさんの緑葉によって幾分和らいでいた。 前を見るとだんだんと開けた場所に出るようだ。下草を掻き分けて一気にそこへ躍り出た。 「うわぁ〜すっごく見晴らしがいいね〜っ」 丘の上に着いて第一声を発したのは初音ちゃんだ。小っちゃな体を全部使って喜びを表現していた。 「……」 それとは対照的に、初音ちゃんの隣で無表情、微動だにしないのは楓ちゃん。その表情からは何も読み取れないが、心の内では誰にも負けない情熱があるのを俺は知っている。 「ホントだ。しっかし、よくこんな穴場知ってたなぁ、千鶴姉?」 「ええ……ちょっと、ね」 梓の問いに千鶴さんは言葉を濁して返事した。その時、俺は横目で見ながら、千鶴さんが憂いを帯びた表情になったのを見逃さなかった。 ――柏木家から少し離れた郊外にあるこの丘。 大学の後期の授業が始まってしまうため、本当は今日帰る予定だったが、日曜日ということもあって最後にみんなでどこか行こうかと昨日の夕食の際に提案したところ、初音ちゃんの『ピクニックに行こうよ』が全会一致で可決された。場所は千鶴さんが案内してくれると言うので、楽しみにしていたのだ。 それがこの丘。標高はおよそ二百メートルぐらいだろうか、もう少しあれば山になるんだろう。ここへ人はほとんど訪れないようで、整地などされておらず、手付かずの状態であった。しかし、こうして上に昇って見る景色はなかなかのもので、まさに穴場と言うにふさわしかった。 今日は天候も良く、絶好の行楽日和となってよかった。女神様のような四人に囲まれて俺は幸せな、本当に久しぶりに幸福な時間を過ごさせてもらった。だから恩返しというわけではないけれど、俺が今、彼女たちにしてやれることと言ったら少しでも長く一緒にいることだけだから……。そう思うと明日提出のレポートなどはどうでもいいように思えたのだ。 「耕一? 何ぼーっとしてるんだ?」 梓が俺の顔をのぞきこむようにして話しかけてきた。 「ん? ああ、雨が降らなくてよかったなって思ってさ」 「そうですね〜。私、こうやって外に出るのが久しぶりなもので、すっごく気持ちいいんです」 千鶴さんはそう言うと軽く伸びをした。その時の千鶴さんの姿がかわいくて、思わず笑ってしまった。 「? 耕一さん?」 「あ、いや、気にしないで。それよりもレジャーシートを広げましょうか」 「手伝います、耕一さん」 俺がシートを取り出すと、千鶴さんがすっと近づいて手伝ってくれた。瞬く間に大家族もゆったりなオレンジ色のシートが下草の上に広がった。 「耕一お兄ちゃん、一緒に散歩しよっ?」 「いいよ。一緒に行こっか」 俺と初音ちゃんが荷物をシートに置いて行こうとした時、弱々しいがはっきりと意志を持った声が聞こえた。 「耕一さん……私も行っていいですか?」 「もちろんだよ楓ちゃん、断る理由なんかないさ。ということで千鶴さん、少しその辺りを回ってきます」 「ええ、気をつけて下さいね」 軽く手を振って、千鶴さんは俺たち三人を見送ってくれた。 ☆ ほとんど傾斜のない丘の斜面に沿ってゆっくりと降りていく。初音ちゃんが元気に先頭を歩いた。時折、初音ちゃんは後ろの俺に振り向いて話しかけてくれる。 楓ちゃんは俺のそばを離れずにぴったりとついてくる。今日はいつもにも増して口数が少なかった。途中、楓ちゃんが木の根に足をとられて俺に寄りかかってきた時も『ごめんなさい……』との一言だけで、俺もとにかく話題を探そうと一生懸命でほとんど話せなかった。 「耕一お兄ちゃん、わたしここでお花を摘んでるね」 「うん、俺もここらへんにいるからあんまり遠くへ行かないようにね」 初音ちゃんに声をかけて、俺はとりあえず木陰に腰をおろして寝転がる。あたりを見回すと、楓ちゃんも何かを探してうろうろしていた。 木々の間から差し込む光のラインが、スポットライトのように地面に照射され、幻想的な世界を作り出す。 まだまだ暑い九月の天候ではあったが、森林浴にはもってこいだった。こんなことをするのも本当に久しぶりだなと思いながら、俺は目を閉じた。 「……ぃちゃん、耕一お兄ちゃん、ちょっと起きて」 十数分ほどしただろうか、ウトウトしかけた時、初音ちゃんが話しかけてきた。 「……ん、なんだい初音ちゃん?」 俺がゆっくりと体を起こすと、初音ちゃんは後ろ手に持っていた物を俺の頭にそっと置いた。 「えへへ、お花の冠。お兄ちゃんにあげるっ」 見ると色とりどりの花が器用に編み繋がれて、立派な冠になっていた。 「ありがとう、初音ちゃん。すごくうれしいよ」 思わず初音ちゃんの頭を撫でた俺に、初音ちゃんは最高の笑顔を返してくれた。 しばらく初音ちゃんと話していると、楓ちゃんが息を切らせながら戻ってきた。楓ちゃんは俺があっと言う間もなく、ピンで俺のTシャツに季節外れの四つ葉のクローバーをつけた。 「耕一さん、私……こんなことしかできませんけど、どうかほんの一日だけでもいいですから、またここへ……私たちのところへ……帰ってきて下さい」 「楓ちゃん……」 俺は楓ちゃんを軽く抱き寄せた。楓ちゃんも抵抗せず、俺に身をまかせた。 「楓ちゃん、初音ちゃん、ありがとう。俺、絶対また来るよ。約束する」 俺は両手の小指を楓ちゃん、初音ちゃんにそれぞれ差し出した。二人は無言で俺の指に自分の指を絡ませる。 誓いの印を心に刻みこむために。 ☆ 「ただいま〜」 しばらくしてから、俺たちは千鶴さんたちのいるレジャーシートのところへ戻ってきた。 「おっ、三人とも帰ってきたね。んじゃまぁ、メシにするかい、千鶴姉?」 「そうね。梓、用意してくれる?」 俺たちが靴を脱いでシートに座ったのを確認した梓は、自分のリュックから荷物を取り出した。 「じゃ〜ん、これが今日のランチ。梓特製『五重御膳』だっ!」 目の前に現れたのは正方形の五段に重ねられた重箱だった。俺を含めたみんなから喚声が上がった。早速、俺は重箱を次々と開けていった。 「えーと、和、洋、中のおかずに白米、そして山菜おこわか。梓……これだけの量を作るの大変だったんじゃないか?」 「まぁ、ね。仕込みは昨日の夜のうちにやっておいて、仕上げは朝三時からやったんだ。やっぱこういったピクニックになるなら、みんなが満足できるような料理を作りたいって思ってね……」 梓は照れくさそうに頬を掻いて言った。 柏木家の食を司る梓の忙しさは尋常ではない。特に朝は学生ということもあって、支度や片付けなど、時間のないところをさらに切り詰めて行動していた。 俺が来てから何度、梓に迷惑かけたことか……。 「よぅし、梓が作ってくれた立派な料理をおいしく頂くとしよう。いっただきまーす」 「いただきま〜す」 俺のあとに続いて四姉妹の声が、丘を通り抜けていった。 「ふい〜、食べた食べた。ごっそさん、梓。うまかったよ」 「ありがとよ、耕一。今度来る時には、もっとうまいもんを作れるようにするよ」 そう言いながら、梓はあらかた中身が片付けられた重箱に蓋をしていく。食事中、俺が『美味しい』を連発して言っていたので、梓も満更でもないようで顔が綻んでいる。 「楽しみにしてるよ」 俺は心の底からそう思って言った。できれば、いつまでもこうやって梓の作る料理を食べたいと言うのが本心だ。 だが、今はそうもいかない。俺には向こうでやり残していることもある。それが終わるまで、六畳一間の兎小屋でまたカップラーメンの日々が始まってしまうことを思うと、ちょっぴり心残りに感じた。 「……耕一さん、少しお話があります。こちらへ来てもらえますか?」 「あ、はい」 千鶴さんに続いて俺も立ち上がり、靴を履く。 「梓、楓、初音。あなたたちはここで待っていてね。少ししたら戻ってくるから」 「ああ。わかったよ、千鶴姉」 「……」 「うん、気をつけてね千鶴お姉ちゃん」 三人の妹たちの返事を受け取った千鶴さんは俺を促すと、ゆっくりと歩き始めた。 まるで一つ一つの動作が運命だと言わんばかりに、俺は千鶴さんの後をついて行った。 ☆ 千鶴さんが向かって行っているのは、どうやら丘の少し突き出た部分のようだった。俺たちは成長盛んな下草に悩まされながらも、何とか辿り着いた。 ここには一本の杉の木が空に向かって垂直に立っていた。長さは五〜六メートル程。俺は木に詳しくないので、木の樹齢はそれほどでもないように思えた。千鶴さんは軽く左手をその木に添え、遠くの景色を眺めていた。 「千鶴さん……」 「耕一さんがおっしゃりたいことはわかっています。……なぜここへ連れてきたのか、ですね?」 「……ええ」 俺は依然として前を向いている千鶴さんに頷いた。 「ここは賢治叔父様……耕一さんのお父様と来たことがあるんです」 「親父と……?」 千鶴さんはくるっと俺の方に向き直って話を続けた。 「一年ほど前、私は突然叔父様に誘われてここへ来ました。ちょうど今日のような暑い盛りでした」 一度、空を見上げた千鶴さんは、当時を思い出すかのように話を紡いだ。 「……その時学校だった妹たちは、この場所を知りません。ここで叔父様は私に鶴来屋グループのこと、鬼のこと、そして耕一さんのことなどをお話しになりました。耕一さんの話題になった時、この杉の木は耕一さんが生まれた年に、苗木をご自分で植えられたそうです」 俺は千鶴さんと共に木を見つめた。木は太陽の光を享受して、輝いているように見えた。 「杉の木を選ばれた理由は、耕一さんが真っ直ぐ素直に育ってほしいという願いからだそうです。そして一年に一回、ここへ来て成長を見届けていたことも話されました」 「じゃあ、この丘は親父の通った土地……」 「そういうことになります。……それから叔父様は近年、もう一つ願いがありました。『いつか……耕一とこの風景を見たいな』と。別居生活が長かったせいでしょうか、叔父様が寂しそうにおっしゃったのを覚えています。そしてそれは……叶わぬ願いとなってしまいました……」 「千鶴さん……」 千鶴さんの潤んだ瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。千鶴さんはハンカチを取り出し、涙を拭った。 「……当時、私は叔父様が亡くなることなんて考えもしませんでした。しかし、考えてみると、その時から叔父様はご自分のお体の異変に気づいてらしたんですね……。今となってはそれが遺言のように聞こえるので、耕一さんにこの場所を見てもらおうと思い、ここへお連れしたのです」 「そうだったんですか、親父がそんなことを……」 俺はやりきれない気持ちになり、俯いた。 親父はやはり、いつも俺のことを思ってくれていたのだ。親父が死んでから千鶴さんが言った通り、俺の転居先の住所、電話番号を調べたにもかかわらず、何も言ってこなかったのは俺のことを思ってのことなのだ。 それなのに俺は……俺は親父に何もしてやれなかった。何も……何もっ! 不甲斐なさと憤りが、俺の心を灰色で包み込んだ。 俺が再び千鶴さんに視線を向けると、彼女は止まらない涙を必死に両手で押さえていた。 「私……私、叔父様が苦しんでいらっしゃるのに何もできなくて、妹たちにこのことを話せば、まだ癒えていない心の痕を……」 「もういいっ、いいんだ千鶴さんっ! 何もできなかったのは俺だってそうだっ! もう千鶴さん一人が全てを背負って苦しむことはないんだっ!」 俺は千鶴さんの言葉を遮り、強く抱き締めた。彼女の細く、華奢な体が震えているのを直に感じた。 「……やぁっ、もう大切な人を失うのはいやぁっ! 耕一さんっ、耕一さんっ! うああぁぁっっ!」 あの時と同じく、押さえつけていた感情を全て放出するように悲しみの涙を流し、千鶴さんは俺の胸で泣いた。俺は千鶴さんをさらに強く、やさしく抱いてあげるしかなかった。 彼女の心を少しでも癒してあげられるように……。 しばらくして、少し落ち着いた千鶴さんを木陰に座らせた。千鶴さんの目は赤く腫れ上がり、今もしゃくり上げていた。 「……千鶴さん。俺、大学が終わったらこっちへまた来ます。その時、できれば鶴来屋グループで働きたいと思っています。親父が千鶴さんたちにしたように、ただ血が繋がっているというだけの客ではなく、本当の家族……柏木家のために、そして……千鶴さんたちの幸せのために」 「耕一さん……」 千鶴さんは顔を上げて俺を見た。もう先程までの悲しみに満ち溢れた表情は消え、いつもの明るい千鶴さんに戻りつつあった。 「だから……その……千鶴さんたちには卒業までの間、待ってもらうことになっちゃって……あ、でもちょっとした休みや長期休暇の時には来るし……」 「耕一さんっ!」 見つめられてしどろもどろしていた俺に、千鶴さんがいきなり抱きついてきた。 「耕一さんがそこまで考えて下さったなんて……私、うれしいです。でも、本当にそれでいいのですか? 叔父様や私たちのことで無理して……」 「無理してなんかいないよ。千鶴さんたちが大切な人だから……俺にとって大切な人だからそばにずっといたいんだ」 俺はそっと千鶴さんの背中に腕をまわし、抱きしめた。 初秋の風がゆったりと流れ、自然の恵みに満ち溢れたこの丘は、まるで俺たちを祝福しているかのように清々しく、輝いているように感じた。 ☆ 「さぁ、日がまだ高いうちに帰りましょう。明日、あなたたちは学校があるし、私は仕事、耕一さんは帰らなければならないんだから」 梓たちのところへ俺と戻って来た千鶴さんは開口一番、そう言った。 「え〜っ、千鶴姉、まだまだ遊んで行こうぜ」 「だめよ。早く帰ってゆっくり休まないと明日にひびくわよ」 そんな姉妹をよそに楓ちゃんは、すでに自分の片付けを完了していた。 「また、ここへ来れるといいね」 初音ちゃんがしみじみと眺めながら言った。 「来年、みんなでまた来よう。絶対に」 俺の言葉に全員が頷いた。 みんなこの場を去るのが名残惜しかったが、荷物をそれぞれ持って帰り始めた。 千鶴さんたちが丘を降りていくのを確認してから、俺は一度、親父の杉の木を振り返った。 木は何もせず、何も語らないが、なぜか親父がそばにいる気がした。 なぜか、そんな気がした。 完 えーっと、初めまして。泡星りゅうです。 伝言板では、たまに顔を出していますが、即興は未知の世界(笑)でした。 見ると、みなさんとても上手いので圧倒されてしまい、なかなかここへ投稿するふんぎりがつかなくて・・・今日に至りました。 何かと変なところなどがあるかもしれませんが、描写や心情などのアドバイスをいただけたら幸いと思います。