隆山事件簿 〜呪詛の棲む匣(後編)〜 投稿者:いち
 太陽に最も近いその場所も、今は低く垂れ込めた分厚い雲のせいで昼だというのに薄暗
い。吹く風もなく、辺りには夏特有のたっぷりと湿気を含んだ空気が澱んでいた。
 メゾン隆山・屋上。
「・・・b・・v・・・・f・・・」
 その声はわずかな音にも掻き消されそうなほどに弱々しいものであったが、一種の音楽
にも似た響きを持っていた。複雑に意味の絡み合った語を旋律に乗せて奏でたとき、言葉
は言霊へと成り得るのである。そして、直径4メートル程の魔法陣の中央に立ち、一心に
その呪文を唱えている人物は、もちろん来栖川芹香嬢、その人であった。
「出所を探るって言ってましたけど、やはり今回の事件もそれが原因なんでしょうか?」
「さあな」
 芹香を遠巻きに見守る葵と柳川。
 この『メゾン隆山』は何かに取り憑かれていると芹香は言う。対処するには原因を知ら
ねばならない。だが、建物全体がすっぽりと気配に覆われていて、そのあまりの完璧さに
原因の基となる場所が特定できないのだそうだ。ちなみに長瀬は『有事の際には我が身に
代えても!』と、完全に臨戦態勢で芹香に集中しているので、葵達の存在は眼中に無い。
「・・・w・・・・u・b・・・」
 現在、芹香が行っている儀式は、その原因を突き止める段階であるらしい。ちなみに、
左手に古びた書物、右手に杖、全身を黒いマントで覆い、頭にとんがり帽子という芹香の
出で立ちは、かなりの不審人物っぷりである。
 横目で芹香をチラチラと見ながら、
『鍵は渡しておきますけど、く・れ・ぐ・れ・も、妙なことはしないでくださいね』
 そう念を押して降りていった管理人には悪いが、『妙』どころでは済みようもない事が、
現在行われている。
「──どうした?」
「あ、あの...正直言うと、意外でした。まさか柳川先輩が信じてくれるなんて!」
 芹香から柳川、そしてまた芹香へと忙しなく視線を行き来させる葵を不審に思った柳川
の問いに、葵は目を輝かせてそう答えた。
 葵にしてみれば長い付き合いである自分や長瀬はともかく、初対面の柳川がこの手の話
を信じてくれたのが嬉しかったのだ。普通の人間なら良くて半信半疑、笑い飛ばされても
不思議ではない。自分の知り合いを肯定され、我が事のように喜ぶ葵だった。
「.....」
 返事は無かった。
 柳川は基本的に現実主義者だが、彼の血にはオカルトが流れている。突然現れた『魔女』
の言葉を頭から信用するほどお人好しではないが、そういう世界が存在するというのもま
た、彼にとっては否定しようのない事実なのだ──以上が理由の3%。残りの97%は、
『この不審人物達を連れていたのでは、捜査も何もあったものではない』と判断した為だ。
「む?」
「あ、あれ?」
 不意に柳川のタバコの煙が、つぅと真横に流れた。
 その表情からは何も伺い知ることはできないが、見れば芹香の羽織った黒いマントの先
端がハタハタと揺らめき、じっとりと澱んでいた空気が、彼女を中心にしてゆったりとし
た渦を巻き始めていた。
 何かが起こる?──その場に緊張が走ったその時。
 ガチャッ!
 瞬間、芹香を除いた六つの瞳が、一斉に音の方向へと向けられた。
 それは、どうやら鍵の外れる音だったらしい。射るような視線の先、四人のくぐって来
た階下へと続く扉が、ギィと錆び付いた音を立てて少しずつ開いていく。
「ああッ!?」
 葵は慌てた。なにしろそれは、
「すッ、すみませーーーーーーーん!」
 どこか印象が違っていたが、そこに現れた人物は先程の管理人であった。ゴルフクラブ
を手にしている所を見ると、おそらく練習がてら様子でも見に来たのであろう。巨大な魔
法陣に、妖しげな品々──屋上のどうしようもなく壮絶な有様を前にして、呆然と突っ立
っている管理人へと大急ぎで葵は駆け寄って行った。
「あ、あ、あ、あのですね。これは別に新しい宗教とかそういうのじゃなくて、捜査の一
 環...かどうかはまだ分からないんですが...と、とにかく、すみませーーん!」
「松原!」「葵様!!」
 ゴッ!
 床に打ち付けられたゴルフクラブがコンクリートの破片を散らす。
 深々とお辞儀した体勢から『えッ?』と振り返った葵の、半瞬前まで頭があった場所を
クラブは正確に通過していた。直撃すれば失神は免れなかっただろう。
「な、なにをするんです───え、え、あれ?」
 顔を上げた葵は、目の前の光景を見て思わず後ずさった。
 管理人の背後、今や全開に開いた扉から湧いて出るように続々と現れる人々。子供もい
れば、やや高齢の者まで人種は様々であったが、その数はゆうに30人を超えていた。
「ぬうぅ、お主ら何者か!?」
 長瀬の問いに応える者は誰一人として居ない。恐らくはマンションの住人達であろうが、
その瞳はどろりと濁り、焦点がまるで合っていない。ずるずると脚を引きずり、緩慢な動
きで次第に左右へと広がっていく。
「ど、どうしたんですか、皆さん?」
 危険をピリピリと皮膚で感じながら、恐る恐る訊ねる葵だった──が、
「──するな」
「え?」
「邪魔するな     邪魔するな 邪魔するな    邪魔するな  邪魔するな
     邪魔するな    邪魔するな       邪魔するな    邪魔するな
   邪魔するな  邪魔するな     邪魔スルナ  邪魔するな 邪魔するな  」
「むぅぅ、なんと奇怪な!?」
 剛胆で知られる長瀬をして唸るのも無理はない、それほど異様な光景だった。群衆は皆、
威嚇する獣のごとき低い呻り声をあげるものの、その存在には全く生気が感じられない。
『生きる屍』、『屍と化した生者』、そのどちらであるかは定かでないが、誰が視ても正
常で有り得ないのは明らかだった。そして、
「もしや...お主ら?」
 問う長瀬には目もくれず、左右に散開した群衆はやがて一点を目指して足を踏み出す。
「ぬおーーーッ! お嬢様には指一本触れさせぬわーーーーーッ!!」
「ああッ、長瀬さん!? 柳川先輩、芹香さんをお願いしますッ!」
 主人を守らんと群衆へ突っ込む長瀬、それを追う形で葵が続いた。30に対するは、僅
かに2人。圧倒的な数的不利を前にはたして──住人達はまるで二人の敵ではなかった。
 なにしろ、あの葵と長瀬なのだ。
 住人達の振り回すバットやフライパンはことごとく空を切り、対して二人の繰り出す攻
撃は的確に相手を捉えた。
 ──しかし、
「え、え?」「なんと!?」
 予期せぬ結果に困惑する葵と長瀬。
 昼間に加えて夏休みとあって、住人達には女子供が多い。本気で攻撃するわけにもいか
ず、2人は当て身を使った。手応えからしてそれは間違いなく完璧だった。しかし、喰ら
った者達は多少ふらつきはしたものの、動きを止めるような素振りはまったくない。
「(意識を断とうにも、意識そのものが既に途絶えているということか)」
 この混乱においてもなお集中を続ける芹香の傍らに立ち、後方で態勢を見つめる柳川が
推測したとおりだった。恐らくは、先の事件で被害者を襲った四人の住人達も今のような
状態だったに違いない。
「──ッ、とおッ! ああッ!? ご、ごめんなさーい!!」
 不意に殴りかかってきた女性に条件反射で拳を当ててしまい、律儀に謝る葵。
 柳川なら、いざとなれば『物理的』に両手両足を動かせない状態にさせるのに何の躊躇
もしないだろうが、葵はそうはいかない。当て身が効かないとなると、精々、手にした武
器を叩き落としてから、体当たりで迫る群衆を押し戻すといった行為の繰り返しになる。
「...(時間の問題か)」
 柳川は知っている。信じるものの為なら限界を超えて頑張れるのが葵という人間だ。だ
が、それだけに限界を超えたときのダメージは大きい。
「(潮時だな)――む?」
 柳川が振り向くと、そこには彼のシャツの端をくいくいと引っ張る芹香の姿があった。
「目を覚ましたか...帰り支度をしておくんだな」
 だが、芹香はふるふると首を振ると、葵達とは反対方向をジッと見つめた。その先には、
「(貯水槽?)あれだというのか」
 コクリ
 その肯定だけで柳川は理解した。
 ある程度の高さを超える建物は、屋上に貯水槽を設ける場合が多い。これは、水道水を
一旦、貯水タンクに溜めておいてから、高低差を利用して各階へと供給する設備である。
水道管は血管のように建物内を縦横に走り、少なからず住人達の体内へと吸収される。も
しも、タンクが何らかの理由で汚染されているとすれば...。
「それで、どうするつもりだ?」
 原因が判ったなら、後は対処である。こうしている間も群衆は絶え間なく押し寄せてお
り、必死に押し返している葵と長瀬の限界も時間の問題であった。
「.......」
 芹香は言う。
 内側に充満した念によって、貯水槽はそれ自体が結界の匣と化している。魔法を内部に
通すために、物理的な力でタンクに穴を開けて欲しい、と。
「それを俺にしろと言うのか。そんなことができるとでも?」
「.....」
 滅多に感情を表に出さない柳川の瞳に、僅かな驚きが走った。
「なるほど、魔女には全てお見通しというわけか」
「きゃッ!」「葵様!!」
 その時、葵が小さく悲鳴を上げた。見れば左腕に赤い筋が走っている。幸いかすり傷程
度であったが、どうやら住人達の中に刃物を持つ者がいたようだ。慌てて体制を整えよう
とする葵だったが、一度綻んだ堰はもはや――
「どうやらお前の口車に乗らざるを得ないようだな...いいだろう」
 ドクン!
 柳川の瞳が紅く、妖しく光る。
 押し寄せる群衆の脚が止まった。
 心を無くした濁った瞳に、僅かに灯るは畏怖の光。
「むううッ?(あの男――もしや柏木の!?)」「えっ? えっ?」
「この件にも自分にも飽き飽きしていたところだ。たまには暴力も──悪くない」
 ごうん
 金属質な重低音が屋上の床を震わせたとき、打ち付けられた柳川の腕は、肘まで貯水槽
に埋まっていた。すぐさま腕を引き抜き、数メートルも後方へと飛び去る。
「!?」
 なんと流れ出す水は赤黒く濁っていた。ごぷっごぷっと液体を吹き出すその絵はまるで、
そう、まるで傷付けられ死に瀕した生き物の──
「...終わりです」
 芹香が杖を降ると、雨雲から墜ちた一条の光がその穴へと吸い込まれていく。
 そして、屋上は轟音と閃光につつまれていった。


「芹香先輩のお陰で事件も解決できました。どうも有り難うございます!」
 避暑地ならではの爽やかな風が駆け抜ける。
 葵はあの来栖川邸の美しい庭で、午後のお茶をご馳走になっていた。
「.....」
「あ、傷ですか? ええ、ほんのかすり傷ですから。二三日で治ります」
「それはよう御座いました」
 長瀬が焼きたてのスコーンを運んできた。芳ばしい匂いが葵の鼻をくすぐる。
「けど、あんなこともあるんですねぇ」
 あの後、襲ってきた住人達も正気に戻り(管理人は屋上の有様に仰天していたが)、貯
水槽からは女性の遺体が発見されたらしい。らしいというのは、葵は治療のために退席し
ていた為で、もちろん視ない方が良かったのは言うまでもない。
 一連の事件は、殺害された女性の怨念が流れ出た為に起こったのだろう。
 柳川による尋問の末、男は女性の殺害を認め、被害者だった男は一転容疑者となる。報
告書に怨念がどうなどと書けるわけもなく、葵はかなりの苦労を要することになったが、
とにかく事件は予想もしない形で解決した。
「.....」
「柳川先輩ですか? それが凄いんですよ! あんなに否認していた犯人なのに、アッサ
 リと自白(おと)しちゃったんです」
 目を輝かせる葵。なお、あの柳川の豹変は芹香の魔法のせいという事になっている。
 そんな葵を暖かに見つめながら、芹香はあの後のことを思い出していた。

『終わったのか?』
 訊く柳川に、芹香は液体の入った小瓶を見せた。
 芹香は念を小瓶に封じたのであって、成仏させたわけではなかった。未練を残す霊を除
霊する──それは魔女の仕事ではない。
『そうか。ならば渡してもらおう。それには役立ってもらわなくてはな』

 恐らく、柳川は何らかの方法で犯人の男にその水を飲ませたのだろう。
 水は流れる、凄まじい怨念と共に。
 男はその生涯を終えるまで、苦しみぬいて生きていくことになるだろう。
 そして死んだ後も。
「──凄い方ですね」
「はい!」
 芹香の言葉には様々な意味が含まれていたが、葵には知る由もないし、また、知必要も
無い。敢えて芹香も説明をしなかった。
 秘密は彼女と共に。
 魔女とはそういうものなのである。

                                   (終)