建物の一室。 「・・・・・・・・・・・!!」 「・・・・・・・・・・・!!」 どこかから、男達の喧噪が伝わってくる。 葵と志保、それに正木の三人がこの小さな部屋に身を潜めてから約30分。状況は最悪。 精神はそれに輪をかけて絶望的だった。志保の機転で当面の危機は脱したものの、正面玄 関は塞がれていたし、裏口を捜す余裕もなかったのだ。 「せめて、携帯が使えれば...」 隆山ベイエリアは建設途中の埋め立て地である。しかも建物内という条件下では、携帯 の液晶ディスプレイにも『圏外』の文字が虚しく点滅するだけだった。 「.........」 大きな声を出して発見されては元も子もない。否応なく重苦しい沈黙と薄暗い闇が三人 を包み込む。不安をその内に抱える者にとって、この状況は拷問に近いものであった。 静寂は不安を加速させ、暗闇は不安を増大させる。 あの男達は神蔵に飼われた連中だろう。強盗、誘拐、強姦、・・・、すべては金次第。 そういう裏社会に棲む者達だ。もちろん殺人も例外ではない。 正木などは耳を抑えたままの姿勢でブルブルと震え、もはや数分も保ちそうにない。志 保はそんな正木の姿を見るのが辛かった。自分の不注意で可愛い後輩と、自分を信頼して くれた人を窮地に巻き込んでしまったのだ。 そして、その自責の思いは志保にある決意をさせる。 「あのね葵ちゃん。もしもの時は、葵ちゃんは正木さんを連れて──」 「そんなの絶対にダメです」 静かな、だが断固たる拒否。 葵の瞳には絶対に反論を許さない鋼の意志が宿っていた。 泣きそうだった。 同時に、心強かった。 葵とて不安を感じているに違いない。それでも自分を励ましてくれている。『腕が立つ』 とかそういう問題ではない。この小柄な女の子は強い心の持ち主なのだ。 カッ、カッ、カッ、カッ、 「!!」 しかし、志保には感謝するどころか泣く暇も与えられなかった。室外の足音が近付いた かと思うと、扉の外でピタリと止まる。葵と志保は互いに頷き合うと、スルスルと扉の両 脇へと移動した。志保の手には部屋に転がっていた鉄パイプが握られている。正木は戦力 にならないだろう。とにかくここは彼女達で当面の障害を排除しなければならないのだ。 志保の心臓がドキドキと早鐘を拍ち、パイプを握るその掌にジットリと汗が滲んだ。 (落ち着け、落ち着け、落ち着け、・・・) ガチャリと何の抵抗もなくドアのノブが回る。 敢えてドアには鍵をしていなかった。変に怪しまれて仲間を呼ばれるよりも、油断させ て少しずつ撃退した方がリスクが少ないと判断した為だ。 扉が微かに音を立て、次第に開いていく。 時間がまるで水飴を注ぐかのようにねっとりと、だが少しずつ進む。 確実に...ゆっくりと...ゆっくりと...。 黒い塊が部屋に───いまだ!! 「「────ッ!!?」」 息を呑む。 それもそのハズ。必殺の拳と凶器の一撃は、その者の両掌でガッシリと受けとめられた のだ。 「........」 柳川裕也。 思いも寄らない人物が、そこに立っていた。 〜 ○ 〜 県警・隆山署。 自主的に他人を助けるなど微塵も考えない彼であるが、上司の命令とあらば組織に身を 置く立場では仕方ない。葵と長瀬が去った後、柳川は女子高生達の調書を取り始めた。 「そこに名前と住所、盗んだ物を全部書き込んでさっさと帰れ」 ギロッ!! 『極上』な外見を持つ柳川を前にして、突如色めき立つ女子高生達を鬼のひと睨みで黙ら せる。取り調べは実にスムーズかつ静かに進み、つつがなく終了した。 ルルルルルッ! 女子高生達を取り付く島も与えず追い払い、報告書を作成していた時だった。柳川の携 帯電話が鳴る。 『妙な一団が隆山に現れた。カタギじゃない。シホがどうこう言っていた。それから──』 相手は名前も告げず、要点だけを手短に伝えた。 これはどういうことなのか? 温泉街──そういう場所には、自然とそれなりの裏社会が形成されるものだ。そして、 隆山の表社会で一番有名な刑事が葵なら、裏社会で一番有名な刑事は柳川なのだった。こ こ隆山の裏情報は、彼に関係あるなしに関わらず、すべて彼の知るところとなる。それに しても情報屋が "自主的" に報告してくるとは、いったい過去に何があったのか? 確か電話の相手が『シホ』とかいう名前だった──遠い過去はさておき、柳川は記憶の 棚から先程の葵の会話を引き出した。世の中には『偶然』などというものが、それ程都合 良く転がっていないことを柳川は知っている。なにやらきな臭い雰囲気を直感的に感じた。 そして柳川のそういう予感は確実に当たるのだ。だが──。 「ほう...?」 俺には関係ない──そう判断して再び報告書に取りかかったときだった。彼は自分の掌 に、ほんの僅かではあるが汗が滲んでいることに気付いた。同時にその理由にも。 『俺は松原を少々気遣っているようだ』 自分自身を冷静に分析する。その気持ちは自身でも少々意外であったが、どうやら間違 いないようだ。一度は羽織りかけた上着に再び袖を通す。行先は隆山ベイエリア。 それが良いことであれ悪いことであれ、自分の気持ちには正直に生きる──柳川という 男はそういう男なのだ。 〜 ○ 〜 『どうしてココに!?』 そう訊ねようとする葵を視線で制すると、柳川は志保の前を素通りして正木の方へと歩 み寄る。ただただ震えるだけで、目前に迫った『危険人物』の登場にすら気付かぬ正木の 肩を掴み、おもむろに右手を振りかぶった。 「「!!」」「うぅぇぇぇ....」 驚きと呻き声が重なる。正木は家族達の待つ、夢の国へと旅立っていった。 「この男はもうダメだ、これ以上は耐えられん。声を上げでもすれば面倒だ。」 正木の限界が近い──それは志保にも判っていた。しかし躊躇なくこういう手段をとる 人間を志保は見たことがない。 「誰だ、このツリ目の女は」 『(ムカッ!)人のことが言えるかぁ〜』 いきなり殴りかかったという負い目もあり、必死に我慢する志保だった。普段なら志保 さんセット(罵声+飛蹴り)をお見舞いするところだ。ちなみに柳川の『極上』の容姿も 我慢の対象理由に少し含まれている。 ワナワナと震える志保を気にしつつ、葵はかくかくしかじかと状況を手短に説明した。 「この女に巻き込まれたというわけか。ご苦労なことだ」 『(グサッ!)え〜、え〜、悪かったわね〜、どうせ私が全ての元凶ですよッ!』 いきなり険悪モードに突入する二人にハラハラしつつも、このような状況に眉一つ動か さない柳川の変わらぬ態度に、葵はどこか安心感を憶えていた。先輩に任せておけば大丈 夫だという思いが『どうしましょう?』と柳川に判断を委ねることになる。だが、返って きたのは情け容赦のない内容だった。 「『どうしましょう』だと? 首を突っ込んだのは松原だ。自分でどうにかしろ」 「んなッ!?」 これが同僚の、ましてや刑事の言うセリフだろうか。さすがに我慢にも限度がある。 「フが───────────ッ!!!!!」 だが、無尽蔵に生み出されるハズだった罵声は柳川の精神を汚染することはなかった。 柳川はジタバタともがく志保の首を小脇に挟み、その口をしっかりと抑えたままで、どこ を視るでもなく視線を逸らして静かに付け加えた。 「しかし松原にはひとつ借りがある。指示には従おう」 「えっ?」「フが?」 「判断するのはオマエだということだ。俺にして欲しい事があるならハッキリと言え」 柳川は聖人でも正義の味方でもない。『全て俺に任せておけ』などと言うお人好しな人 間ではないのだ。 決意の刻だった。 刑事になって約半年。指示に従うことはあっても、自分の判断で行動したことは無い。 「...分かりました。柳川先輩は援護をお願いします」 「妥当な線だな」 日が昇り、工事の人夫が集まり出せば奴等も引き上げるだろう。だが、それ程大きな建 物ではない。むしろ発見される可能性が高いと葵は判断した。 ドクン、ドクン、ドクン、・・・ 心臓が激しく胸を拍つ。運命を委ねられたという重責が葵の小さな身体にずっしりとの し掛かる。自力で打開するしかない──自分で判断したこととはいえ、身体が震える。い くら葵とはいえ、怖いものは怖い。 「それと、志保さんはここに隠れ──」 「ダメ。私だって牽制ぐらいならできるハズよ」 先程の葵と同じ瞳で志保が言う。巻き込んでおいて、自分だけはのうのうと隠れている など志保自身が許せるわけがない。たとえ巻き込んだのが自分でなくとも、今の葵を放っ ておくなど志保にできるはずがなかった。 「大丈夫よ、何とかなるわ! だって葵ちゃんは強いんだもの。そうでしょう?」 「....松原が強い事は事実だ」 『松原は強い』 もちろんその言葉が葵にとってどういう意味を持つかなど柳川は知るよしもない。彼は ただ客観的に事実を述べたまでのことだ。 「.......(ほう?)」 ほんの僅か、だが確実に葵の気が変化したことを柳川は敏感に感じた。そして彼は懐か ら何かを取り出して葵へと手渡す。手に触れた瞬間、葵はそれの正体を知った。慌ててマ ジックテープを剥がす。それは彼女が愛用する真紅のウレタンナックルだったのだ。 ギュッ! 拳を強く握り、グローブの締まり具合を確かめる。知る人ぞ知る。それは葵がエクスト リームでも幾度となく行った試合前の儀式だった。 ギュギュッ!! もう一度強く握る。身体中の神経がピリピリと痺れ、筋という筋が引き締まるような感 覚。精神集中が総ての感覚を一気にレッドゾーンへと引き上げる。 ギュウゥゥゥゥゥゥゥゥ!!! 最後は強く強く。拳の骨がメキメキと悲鳴を上げる。練られた気が全身を駆けめぐり、 葵の身体を鎧に、拳を鉄鎚へと変化させていく。 「す──────────ッ、は──────────ッ」 目を瞑り、最後に大きく深呼吸。ひんやりとした空気を肺一杯に吸い込み吐き出すこと で、興奮状態にある身体を瞬間的に冷却する。視界がクリアになり、冷静さを取り戻す。 ハートは熱く、頭はクールに。 闘いというステージに於いて最高のパフォーマンスを発揮するべく、彼女の肉体が、精 神が、その潜在能力の総てを極限まで絞り出す。 カッと瞼を開いたとき、もう葵の瞳に恐れや脅えの色はない。灯るは闘争心という燃え 上がる炎。満ち溢れるは、無限に湧き上がる勇気。 いつしか身体の震えは止まっていた。 バシッ!! 両の拳を胸の前で叩き合わせる。導火線に火はついた、あとは爆発させるのみ。 「いきますッ!!」 さあ、反撃だ! (続く)