出会いはある日突然に 投稿者: いち
 私は彼を愛していた。
 心から愛していた。
 結婚を誓ってくれた時は、こんなに幸せでいいのって思った。
 彼は私の全てだった。
 でも...私は彼の全てではなかった。
 彼の中には私の知らない女達がいた。
 彼の中の私は次第に、次第に小さくなっていった。

 そして...私は彼の中から消えた。


「お姉さんさぁ...そんなところに座ってたらオレ達が通れねぇよ」
 誰?
 階段の上から、三人の見知らぬ男が私を覗き込んでいる。
 見覚えのない狭い階段。フラフラと街を歩く内、私はこの地下へと続く階段に座り込ん
で呆然としていたようだ。
「あれ? 目ぇ真っ赤じゃん。あッ! さては男にフラれて泣いてたな?」
「....放っといてください」
「放っとけたって...邪魔してんのはあんたの方だぜ?」
 目つきの悪い男が遠慮する素振りすら見せずにしれっと言う。
 情けないやら、悔しいやら...今日はもう枯れたと思っていた涙が再び溢れ出した。
「あらら、祐介ぇ、頼むわ」
「うん」
 無神経男の呼びかけに応えて、中性的な顔立ちの優男が近づいて来る。身を堅くする私
に構わずハンカチで涙を拭うと、優男は柔らかに微笑んだ。突然、何かが頭に流れ込んで
くるような感覚。それはとても温かくて、不思議な落ち着きが私の中に広がっていく。
 ?──優男の後ろで無神経男がかなり大柄な男になにやらコソコソと耳打ちしている。
私の視線に気付いた二人が、にま〜っと意地悪げに笑った。
「ちょっと....何を、ひゃッ!?」
 抵抗する間もなく、私の身体は大柄な男に軽々と抱き上げられていた。両手を背中と膝
の裏に通す、いわゆる『お姫様抱っこ』である。男は背中にもヴァイオリンのオバケのご
とき楽器を背負っているのに、なんという怪力だろう。その楽器にしても私ぐらいの大き
さがあるというのに。
「あ、これ? これはアコースティックベースって言うんだ。知ってる?」
「いや、あの...」
「そんなデカイの持ち歩いてるの、コーイチさんぐらいだよ」
「その...」
「チッチッチッ、エレキのベースじゃこの音色は出ないよ、浩之くん」
「降ろしてえぇぇぇ!!」
 男達はなにやら勝手なことを言いながら、私の言葉を完全に無視して階段をぐんぐん下
って行く。そして、突き当たりの扉をくぐった。
『WHITE ALBUM』
 扉には、そう描かれた小さな木のボードがぶら下がっていた。

 そこはこじんまりとした店だった。
 カウンターと、四人掛けの丸いテーブルが7つ。お酒も飲めるレストラン、そういう店
のようだ。照明が抑えられているので、店内は少し薄暗い。
 無神経男が『トーヤさん』と呼んだ若いマスターは、担がれたまま入ってきた私に驚き
ながらも、まずは化粧室に案内してくれた。化粧室の鏡に映った涙と鼻水の跡がクッキリ
残る顔にウンザリしつつ、手早く洗顔して私が恐る恐る扉を開けると、マスターが笑顔で
待っていた。
「さぁ、こちらにどうぞ」
「え...あの...これ?」
 マスターの勧めるテーブルには見ただけで体が暖まりそうな湯気を立てるシチューと、
ブランデーの香りが芳しい紅茶が置かれている。
「これで勘弁してやってよ。あの三人も悪気は無い...........ハズだから」
 途中の沈黙に間違いなく三人の悪気を感じつつ、私は少し戸惑いながらも好意を頂戴す
ることにした。実の所、匂いを嗅いだ瞬間にお昼から食べていない私のお腹が、『ぐぅ』
と猛烈な空腹感を主張したのである。とても好意を拒否することは出来なかった。
「...美味しいです」
 シチューはその匂いを裏切ることのない美味しさだった。思わず口から出た賞賛の言葉
に、マスターは『ウチのゆきの自信作だから』と満足そうに言って引き返す。多分その人
が『ゆき』さんなのだろう、暗がりで顔はよく判らないが、カウンターで若い女性がペコ
リとお辞儀した。私もつられてお辞儀してしまう。
「ふぅ」
 一息つく、と同時におかしな事に気が付いた。あの傍若無人な三人組の姿が店内に無い。
化粧室には、ほんの数分しかいなかったのに。
 ガチャッ
 その時、奥の扉が開いて無神経男の顔が覗いた。店内をキョロキョロと見回し、私の姿
を認めるとニヤッと笑う。何故か、ホッとする私。
 パチパチパチ
 店内に少し抑え目の拍手が沸き起こる中、なんと正装に着替えた三人が表れ、隅に置か
れたピアノの縁に陣取る。なにやら各々が準備を始めていた。
 あの大きなアコースティックベースをチェロのよう床に立て、その後ろに立つ怪力男。
 ピアノに譜面をセットしながら、ポロンポロンと音を確かめる優男。
 サックスを首に掛け、客と笑っている無神経男。
 やがて三人は目でお互いへ合図を送り、そして...演奏が始まった。
 力強いベース。
 繊細なピアノ。
 少し軽薄なサックス。
 ジャズ?
 あまりその手の音楽に詳しくない私にはそれぐらいしか判らない。どこかで聴いたこと
があるような気もするし、無いような気もする。緩やかに奏でられる曲は、暖かで家庭的
な店の雰囲気に合わさって、まるでこの店内だけは緩やかに時を刻んでいるのではないか
と錯覚してしまいそうだった。
「ねぇ、ココ良い?」
 ハッと我に返る。不覚にも三人組の演奏にウットリとしてしまっていた。見れば返事も
待たずに、三人の女の人が私のテーブルの椅子をガタガタと鳴らして座った。
「ねぇ、あなたフラれたんですって?」
「うわ、そないにストレートに訊いたらあかんて長岡さん。で、ホンマなん?」
「智子、ミイラ盗りがミイラになってるヨ」
 見事な先制パンチ。
 考えれば、初対面の相手にしてはとんでもないが、あまりにあっけらかんとした物言い
に、腹を立てるのを通り越して呆れてしまう。そして5曲目が終わる頃には、私は彼女達
の巧みな話術にハマり、すっかり白状してしまっていた。
「そらキッツイ男やなぁ。けど、良かったやんか」
「え?」
「そうそう、いい女を騙すような馬鹿とは早めに手を切るが吉よ。なんならガセネタ広め
 て、再起不能にしようか、そいつ?」
「志保、凄く楽しそうネ。彼女、呆気にとられてるヨ」
 ケラケラケラケラ
 明るく屈託のない笑い。
「それにな、あの隅に一人で座っとる男。『矢島』いうんやけどな」
 店の一番隅で壁を相手に一人グラスを傾けていた男が、『矢島』という言葉に反応して
ビクッと肩を振るわす。
「藤田君に好きな娘獲られたんが運の尽き初めや。フラれにフラれて、今日は十回目の残
 念会やねん。けど、逞しいに生きとるし」
「YES、すぐ忘れるのがヤジマの良い所ネ」
「レミィ、それって懲りない奴っていうのよ」
 なんという容赦のない人達。
 ケラケラケラケラ
 その嫌味のない笑いに、思わず私もつられてしまった。ほんの十数分前までは、世界一
不幸な自分を呪っていた私には、こうして笑えるなんて信じられないことだった。
 テーブルに突っ伏している矢島さん。さすがに気の毒になってきた。マスターとゆきさ
んも苦笑している。
「いい加減にしろ、女共! 矢島、泣いちゃったじゃねぇか」
「よっく言うわ。ヒロが元凶のクセして」
 いつの間にか無神経男が傍らに立っていた。演奏は一時休憩なのだろう。
「ああもぅ、やだねぇ女はデリカシーが無くってさ。お〜い、矢島ぁ。男は男同士で飲も
 うぜ────ってなんだよ、その嫌そうな顔は!!」
「藤田...俺を酒の肴にする気だろ?」
 矢島さんは無神経男の申し出に、もの凄く嫌そうな顔で答えていた。なんだか矢島さん
の気持ちが、とっても解る私。
「ほほぅ...流石に十回目ともなると分かってるじゃねぇか。GO! コーイチさん!!」
「ハッハッハッ、矢島君、お兄さんに話してみなさい。話せば楽になるぞぉ〜」
 イヤイヤする矢島さんを心底楽しそうに怪力男が引きずっていく。優男も止める気はな
いようだ。やはり根は悪党の三人組なのだろう。
「そっとしておいてくれ〜〜〜〜」
 店内に矢島さんの悲鳴と、客の笑い声がこだました。

 夢中になって話すうち、気が付けば店内は私達だけになっていた。
 悪の三人組も演奏したり、矢島さんをからかったりと大忙しだった。
 そして今、私は矢島さんと踊っている。
 隣では、照れる由綺(!)さんをマスターが強引に連れだして踊っている。
 客がいなくなると、無神経男と怪力男に励まされ(強要され?)つつ、矢島さんは顔を
真っ赤にして私を誘った。恥ずかしくて耳まで真っ赤になってしまったが、私は矢島さん
の誘いを受けた。矢島さんの喜びようといったら、こっちまで嬉しくなる程だった。
「今日は早じまいだなぁ」
 マスターは宣言し、テーブルが脇へやられる。店は小さなダンスホールへと姿を変えた。
 観客はたったの二人。とはいっても、志保さんと智子さんはレミィさんにすっかり潰さ
れて、いまは安らかに寝息を立てている。当のレミィさんは演奏に合わせて、マイク片手
に熱唱中だ。なんでも有名なダンスナンバーらしい。
 不思議な気分だった。
 初めての場所で、見知らぬ人達に囲まれて、すっかりうち解けた自分がいる。少し前ま
では息をすることすら苦痛だったのに、彼と彼女達はズケズケと私の中に入ってきて、代
わりに悲しみを残らず追い出してしまった。
 悪の三人組はバックで私達のために力一杯の演奏を奏でている。優しい瞳で私達を見守
りながら。いや、無神経男の瞳だけは意地悪そうな光を湛えているけれど。あ、矢島さん
にちょっかい出してるし。
 ふふ、失恋も捨てたモンじゃないわね...なんて、よっく言うわ、私。
 多分、今日は忘れられない一日になるだろう。
 初めての失恋の思い出と共に。


 だけどその後、私が失恋することはなかった。
 まさか...私が『矢島』になるとはねぇ.....(笑)

                                    (終)