過酷な任務(後編) 投稿者: いち
「近寄るなぁッ!! それ以上近寄ったらコイツをぶっ殺すぞおッ!!」

 場所は隆山公園。
 公園内の池を背にして、大声で喚く長谷川と人質の少年。
 説得を試みる所轄の刑事。
 少し離れて、無表情で刺すように見つめる柳川と緊張の面持ちの葵。
 突然のドラマに心躍らせる群衆。
 柳川が茶番劇と考えるこの劇は四つのグループに分類できた。
 長谷川の右手には黒光りする拳銃が握られ、銃口は少年のこめかみに押し付
けられている。少年は緊張感に耐えられなかったのだろう。既に失神して、太
股には失禁した跡が見られた。下校途中らしくランドセルを背負っており、ま
だ新しいそれは、少年が小学生低学年だという事を物語っている。
 舞台上の役者、それを見つめる観客、ここにいるすべての人間の中で、柳川
の心臓だけが通常の心拍数を保っていた。

「婦警時代から、私ってこうだったんですよね〜。」
 助手席で葵が照れる。高校生に張り切って注意した葵だったが、なにせ童顔
+採用基準にギリギリ合格の背丈である。長瀬とは別の理由で『威厳』に程遠
い彼女だった。柳川が一睨みもすれば高校生など震え上がってライターごとタ
バコを差し出したであろうが、彼が手助けなどする訳も無く、葵は散々からか
われ、すったもんだの末にようやくタバコを取り上げた。それでも目標を達成
した満足感からか、葵があれこれと柳川に話しかけていた時、無線が鳴った。
『緊急連絡。氏名手配中の長谷川浩を隆山公園内にて発見。なお小学生の少年
 を人質にしている模様。付近の車両は至急、隆山公園に急行して下さい。』
 この時、柳川・葵の乗る車は、まさに隆山公園の目と鼻の先にいた。しかも、
都合の悪いことに(柳川にとってだが)、葵に隆山公園を説明した直後だった
のである。葵に『捜査は口実だ』と言うわけにもいかず、柳川は無言で無線機
を葵に渡した。
「了解ッ! 305号車、現場へ急行しますッ!!」
 気合い充分、助手席で武者震いする葵を横目に柳川は『松原を二人きりで街
に案内するよりマシか...。』などと考えていた。

 というわけで、話は冒頭の場面へと繋がるわけである。
「先輩、どうしましょう?」
「別にすることなどない。したい事があるのなら勝手にしろ。」
 意気込む葵に、柳川は冷ややかに答える。所轄の刑事達は、明らかに柳川達
を敵視していた。日本中の注目を浴びる男を捕らえたとなれば、それは大手柄
である。出世に昇級──個人の思惑が絡むのは無理もない。彼らにとって、柳
川は手柄を横取りする敵なのだ。それは警視庁の捜査官も同じで、柳川には『
我々が到着するまで手出しするな』との命令が下っていた。
 間違っている。
 正義に生きる男ならばそう思っただろう。しかし、正解か誤りか、その様な
人間の尺度など柳川には関係なかった。やりたい奴は勝手にやれ、である。
「先輩、ひょっとして長谷川さんは...?」
「クスリをやっているようだな。」
 葵の考えを察し、柳川が答える。長谷川の瞳は、かつて彼の友人を虐げ、彼
が狩った男と同じ色をたたえていた。柳川の中に若干の不快感が沸く。
「いいかッ! その子を殺してもお前に逃げ場は無いぞッ!!」
 所轄の説得に強硬な響きが混じり始める。功を焦るあまり、一向に埒のあか
ない現状に苛立っているのだろう。しかし、クスリで過敏になっている長谷川
に対して、それは逆効果だった。銃を持つ手がブルブルと震える。
 人質が死ぬ、柳川は無感動にそう確信した。だが人質が死ねば、長谷川は逮
捕されて事件も終わりだ、そう思った時だった。
「待ってくださ───いッ!」
 観客に徹しきれず、葵が劇の舞台へと躍り出た。
「わッ、私が人質になりますッ! だから、その子を離してくださいッ!!
 ほらッ、何も持ってません。」
 そう言って、葵はスーツの上着を脱ぐ。白いブラウスが露わになった。
「うるせぇッ、刑事なんか信用できるかッ! シャツとスカートも脱げッ!!」
 ええッ!?──長谷川の要求に顔をこわばらせる葵。息を呑む群衆。舞台の
中央、柳川以外のすべての視線が集中する中で、葵は下唇を噛み俯いた。僅か
な逡巡の後、意を決して顔を上げると、固く握りしめられていた両手がゆっく
りと上がっていき、ブラウスの一番上のボタンをプチリと外した。
 ゴクリ
 男性の多くが唾を呑む。葵は格別に美人というわけではなかったが、可愛い
というには充分で、しかも内から沸き出る美しさがあった。例えるなら健康美
とでも言おうか。その女性が公衆の面前で下着姿をさらそうとしている。目を
背ける者もいたが、多くは引き込まれるように葵を見ている。中には下卑た笑
いを浮かべる者までいた。
 プチリ
 三番目のボタンが外れる。ブラウスの隙間からスポーツブラらしき下着が僅
かに覗いた。葵は羞恥に顔を染め、手は心なしか震えていた。時間は止まるは
ずもなく、容赦なくすぎていく。四番目のボタンに手が掛かる、その時だった。
「おい。」
 傍観者に徹していた柳川が舞台へと上がった。緊迫した空気を意にも介さず
にスタスタと葵の隣まで歩くと、長谷川に尋ねる。
「その子供...貴様の息子ではないのか?」
「それがなんだッ! 子は親のためにあるんだッ!!」
 ざわあッ
 唐突に現れた若い刑事の言葉に、その場に居合わせた全員が息を呑む。それ
は柳川にいいところを邪魔されて、内心で舌打ちしていた群衆の男達も同様だ
った。
 葵がブラウスのボタンを外し始めたときも、柳川はチラリと一瞥しただけで、
その身をピクリとも動かさなかった。それは葵が選んだ選択肢の結果であり、
彼には知ったことではなかったのである。
 ではなぜ彼は動いたのか?
 少年のランドセルに架かっている名札を視たとき、彼の中に一つの疑問が湧
いた。それを確認するためである。名札には『はせがわこういち』とあった。
「なん...だと?」
 柳川の気の質が変わった。彼を中心に場の空気が数度下がる。長谷川も、所
轄の刑事も、葵も、葵に釘付けになっていた群衆も、今やすべての視線が彼に
集中していた。
 柳川は思いだしていた。母を捨て、自分を捨てた男の事を。勝手な理論を母
に押し付けた男を。そして、長谷川にその男の姿をダブらせていたのだ。
「ヒイッ!!」
 長谷川が小さく悲鳴を上げる。クスリに濁った長谷川の瞳には、柳川の姿が
人とは違う者として映った。なにかおぞましい存在、そう──鬼。
 パァンッ!!
 乾いた音が響き、長谷川の拳銃が柳川に向かって火を噴いた。殺らねば、殺
られる、過敏になった防衛本能がそう警告したのだ。この男には人質など意味
がないのだ、と。
 群衆が悲鳴を上げた。誰もが血を吹き出す若い刑事の姿を想像したに違いな
い。だが、弾は柳川の右腕を少し掠めて背後の木に突き刺さる。脚が大地を蹴
る。彼の脚力を持ってすれば、長谷川までは一跳びの距離だろう──だが、
 ズルッ
 柳川は足を滑らせて、不様にもその場に膝を付いた。
 鬼の力を持ってすれば銃口と銃身の角度で、弾の軌道を瞬時に判断すること
は容易だった。だから、柳川は銃弾を避けた。だが、地面に敷き詰められた砂
利は爆発的な鬼の力を大地に伝えることはなかった。昨夜の雨でその地面はぬ
かるんでいたのである。
 俺としたことが──柳川が唸った。普段の彼ならこのようなミスを犯しはし
なかっただろう。だが、今朝から歯車は狂いっぱなし、さらに怒りに震える彼
からは、普段の冷静さが失われていた。這う柳川を長谷川の拳銃が照準する。
「ダメ────ッ!!」
 突然、なにかが柳川の目前に出現した。なんと葵が手を広げて拳銃と柳川を
結ぶ線上に、その身を投げ出したのだ。柳川は瞬時に判断した。銃口と銃身の
角度で判断すれば──松原は致命傷だ!!
 銃弾が飛ぶ、よりも速く長谷川へとなにかが飛ぶ。誰もそれを視覚できた者
はいないだろう。ただ一人、それを放った柳川を除いて。
「ぐあッ!」
 長谷川の右手を襲った突然の痛みに、照準が僅かに逸れた。柳川達の右後方
の砂利が弾け飛ぶ。彼は葵が致命傷を負うとみるや砂利石を拾い、すべての意
識を左手の親指に集中させて弾き出したのである。俗に指弾と呼ばれるその技
は、鬼の力を得て長谷川の手の肉をえぐる程の威力を見せた。
 間髪入れず、柳川が身を起こす。彼は自分に関係のないことには指一本動か
さない男だが、その身に降りかかる火の粉には苛烈なまでの反撃を加える。既
に柳川の右腕は長谷川の喉を渾身の力で突くべく振りかぶられていた。
「や─────ッ!!!」
 気合い一発。左手で拳銃を叩き落とし、右正拳が腹部に深々とめり込む。く
の字に折れ曲がる長谷川の身体、そして、その下がった頭に左ハイキックが鮮
やかに吸い込まれていった。
「長谷川浩、逮捕しますッ!!」
 ガチャッ
 手錠が長谷川の手に収まる。期せずして沸き起こる拍手の中、柳川は右腕を
振りかぶったままで固まっていた。
「やりましたあ、先輩〜。」
 固まる柳川の目前、見事な逮捕劇を演じた葵が満面の笑みに瞳を潤ませて柳
川の方を振り向いた。

「ありがとうございます。あの...助けていただいて。」
 葵はペコペコと柳川に頭を下げた。
 あの後、駆けつけた捜査官に長谷川を引き渡し(捜査官はさも憎々しげに二
人を見つめていたが)、気絶した長谷川の息子を救急車へと載せた。気絶して
いたことは長谷川の息子にとれば良かったかもしれない。少なくとも目の前で
父親を逮捕される瞬間を観なくて良かったのだから。で、二人の仕事は終わっ
たのだが、葵は握手やサインを求める者にもみくちゃにされ、ようやく一段落
ついた所だった。明日のスポーツ紙の一面は、
『エクストリームのプリンセス、犯人をKO』
 で決まりだろう。赴任初日にして、隆山で一番有名な刑事になってしまった
葵だった。
「俺が勝手にしたことだ。別にお前のためにした事ではない。」
 柳川は相変わらずの無機質な言葉で応える。葵が言っているのは、服を脱ぐ
のを助けてもらったという意味なので、実際、その通りなのである。
「そんな...ああッ、先輩、腕から血が出てるじゃないですか!?」
 見れば柳川の右腕のシャツが破れて血が滲んでいる。銃弾が掠めた為だが、
鬼の回復力を有する柳川には、蚊に刺された程度の傷だった。
「ええ〜と、アレは...あった!」
 葵はポーチからクマのプリントが入った絆創膏を取り出すと、柳川が拒否す
るよりも迅くシャツを捲り上げて傷の上に貼り付けた。
「えへへ、私、生傷とか多いからいつも持ち歩いてるんです。バイ菌が入った
 ら大変ですもんね。」
 微笑む葵。柳川は心の中でまたも溜息を吐いていた。
「車に乗れ。定時まであと少し、街を案内する。」
「ハイッ!」
 元気良く車へと向かう葵の背中を眺めながら、
『なぜ俺はとっさに石を飛ばしたのだろうな。』
 柳川はとっさにとった自分の行為を反芻していた。ふと、クマの絆創膏を見
る。無意識に口元が上がった。
 柳川の優しげな微笑──彼を知る者なら信じられないような笑顔を、葵は観
る事が出来なかった。

                                (終)